魏志倭人伝原文
「女王卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。於是復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。」
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「しかし、その一(いち)という名をを継いだ市杵嶋比賣(イチキシマヒメ)は偉大なる女王ヒミコが亡くなったあと継承者ではあったけれど王位を継ぐことはなかった。そのあたりのことが上の魏志倭人伝に語られている。意訳すれば
『女王ヒミコが死んで径百歩余りの大きい墓を作った。召使い百人以上が殉死した。ふたたび男性の王を立てようとしたが国中が服さず、また殺し合いになって千人以上を殺した。それでヒミコの跡継ぎの女性、十三歳のトヨを王に立てると遂におさまった。』ということらしい。」
「でもおいらはヒミコの本名がわかればいいだけであとはどうでもいいんですが…。しかしそれにしてもなんということでしょうね。ヒミコの前もそうだったけれど…。ヒミコが死んでからも義弟達もまわりもみんなが権力闘争に明け暮れたのでしょうか。今も昔もあまり変わらないすね。このトヨという女性はだれなんですか。」
「いい脚本を書くにはその時代の事件、人物像を把握しておかなければいけない。おまえさんの芝居は描くべきものが描けていないからあまりにも底が浅くて失敗するのさ。トヨについては原田常治氏は『古代日本正史』において、大和に養子に行って初代天皇になった磐余彦(神武天皇)が日向時代、吾平津(あびらつ)姫との間にもうけた娘ではないか、という説を立てている。磐余彦(いわれひこ)は妻、吾平津姫と三歳の娘を日向に置いて大和に出発したのでヒミコの没した頃、十三歳に成長していて宗女として相続したというのさ。」
fumio
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