だいぶ佳境に入ってきたのう。
今回はわしの地元である
ここ、熊谷、深谷を舞台とした
お話じゃ。
この熊谷(妻沼、大里、江南を含む)や
深谷(川本、花園、岡部を含む)を以前は
その全体を「大里郡」と呼んでおった。
今でも大里地区といって、
教育現場じゃその言葉を使っておるな。
この土地は江戸の時代には中仙道の宿場町として栄え、
名高いお殿様はおらんかったようじゃな。
しかしな、もっと歴史をさかのぼると、これがとっても面白く興味深い
歴史あるんじゃ。
時は鎌倉時代。
先ずはこの唄を聞いて欲しい。
【一番】
秩父の峰の雪白く 名も荒川の風寒し
秩父の峰の雪白く 名も荒川の風寒し
ここ武蔵野の大里は 関東一の旗頭
直実公の ふるさとぞ
直実公の ふるさとぞ
【詩吟】
一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれが 青葉の笛
一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれが 青葉の笛
【二番】
源平須磨の戦いに 花も恥じらう薄化粧
知勇兼備の将なれば 敦盛の首討ちかねて
無情の嵐 胸をかむ
源平須磨の戦いに 花も恥じらう薄化粧
知勇兼備の将なれば 敦盛の首討ちかねて
無情の嵐 胸をかむ
【三番】
人生うたた五十年 夢まぼろしに似たるかな
今は栄位も何かせん あまねく人を救わんと
その名も 熊谷蓮生坊
人生うたた五十年 夢まぼろしに似たるかな
今は栄位も何かせん あまねく人を救わんと
その名も 熊谷蓮生坊
【四番】
流れて早き年月に 武蔵野山河変わるとも
坂東武者のこころねは 我らが胸に今もなお
生きてぞ通う 直実節
流れて早き年月に 武蔵野山河変わるとも
坂東武者のこころねは 我らが胸に今もなお
生きてぞ通う 直実節
この唄はこの地では有名な「直実節」というご当地ソングでな、数年前までは
学校の運動会や盆踊り大会なんかにゃ、欠かせない唄じゃったんじゃ。
曲と振り付けはこちらをご参照くだされ。
直実節の主人公であり
熊谷市を代表する
鎌倉時代の武将なのじゃ。
唄にもされるように
この土地の出身である直実は
偉人中の偉人。
熊谷駅の前に
ど~んとこのような形で
かまえておるのじゃ。
では、何故にここまで有名になったかというと、それはじゃな、
源平の戦いで直実は源頼朝の家臣、そして武将として一の谷の戦の際に
平清盛の甥、平径盛の子、平敦盛の首を討った事で有名なのだが
その事が重要なんじゃな。
当時十六、七歳であった敦盛は源氏に敗れ逃げ帰る途中、直実と鉢合わせ。
直実は敦盛の首を討ったのだが、あまりに若い敦盛を不憫に思い、そして悲しみ
形見の青葉の笛と首を父である径盛に届けさせたという逸話が
残っておるのじゃ。これを俗に言う「熊谷手紙」というそうじゃ。
その後、敦盛の七回忌を経て
この地に「熊谷寺(ゆうこくじ)」を
建立し、仏門に入ったそうじゃ。
この土地の名、熊谷市って言うのは
この熊谷寺からきたのかのう。
それにしても本当は心優しい直実も、
この時代の流れの中では、仕方なかった行いだったのじゃな。
真に悲しいお話じゃな。
この事は今でも歌舞伎となってそして、この直実節となって
今の時代にまで受け継がれているのじゃな。
この源平の合戦に翻弄された熊谷次郎直実じゃが
ここ大里にはもう二人の同じ時代に有名となった武将がおる。
その一人が妻沼出身の「斉藤実盛」
そしてもう一人が川本出身の「畠山重忠」
この二人は運命の糸に導かれたかのように偶然というのには
あまりに出来すぎたような非常に興味深い関係にあったのじゃ。
武将だったのじゃが、
その義賢が兄弟の源義朝の子、
義平に討たれてしまったのじゃ。
その後、実盛は平家に
仕えておったのじゃが、
義賢の遺児「駒王丸」を
助けて京へ送り届けた。
後に、駒王丸は「木曽義仲」となり
朝日将軍と呼ばれるようになったのじゃが、
くしくも、その木曽義仲の家臣に実盛は討たれてしまうのじゃ。
年老いて戦いに臨んだ実盛は白髪を黒く染め、勇敢に戦ったそうじゃが、
しかし討たれた首を洗い流すと白髪が現れ敵方の武将は改めて
その勇猛盛んな実盛の姿に息を呑んだそうじゃ。
その一方、木曽義仲の幼少時代の駒王丸を実盛に預けたのが畠山重忠の父
畠山重能だったのじゃ。
源頼朝に使え、優秀な武将として
名を挙げておった。
怪力の持ち主として
名を馳せていた重忠は、
馬を担いで峠を越えたとの
逸話も残っているそうじゃ。
ここで再び運命の糸が
激しく絡み合うのじゃよ。
木曽義仲と源頼朝の合戦では
義仲の愛妻、大刀と強弓の女武者である「巴御前」と重忠は
一戦交えておるのじゃ。
さすがの巴御前も怪力重忠にはかなわず、
逃げ帰ったとの事が書物に記されているそうじゃ。
簡単に言うとじゃな、斉藤実盛と畠山重忠(の、父親)に助けられた
木曽義仲が斉藤実盛を討ち、その木曽義仲は源頼朝(実質は義経)に
討たれる。その頼朝の子分に重忠がいて義仲の妻、巴御前と戦っておった。
木曽義仲、斉藤実盛、畠山重忠、そして源氏と平家。
まこと、この時代のめまぐるしい時の流れは難しいのじゃが
歴史の勉強としては面白い事になっているのもうなずけるじゃろう。
欲しい。
「ここ武蔵野の大里は関東一の旗頭・・・」
ここに住むわしらの先祖にはこ
れほどまでに悲しくもあり、しかし
名だたる武将のふるさととして
輝かしく成り立ってきたのじゃ。
そんな鎌倉の時代の亡者達に
恥じないよう、我々もしっかりと今の時代を
生きていかなければいかんのう。
「坂東武者のこころねは 我らが胸に今もなお 生きてぞ通う・・・」
なのじゃな。