とっても偉~いお殿様がおったそうじゃ。
新田氏といってのう、
それはそれは偉いお殿様じゃったそうだ。
鎌倉の時代から、たくさんの
戦で手柄を立て、あの有名な
足利さんにもとっても気に入られていたようじゃぞ。
そんな始祖を持つ江戸時代の超大物、
徳川んちの家康おじいちゃんが
新田んちの義重おじさんを弔うためにその辺の有名建築家を連れてきて
建立させたのが、この太田の呑龍様じゃ。
本当の名前は大光院と呼ぶのじゃが、初代住職呑龍上人が
と~っても良い人でのう、貧しく食うこともままならぬ童たちをを集めて弟子に
したそうじゃ。今で言うホームレスさんたちの為の炊き出しに近いものが
あったみたいじゃの。
なかろうに、よ~くできた
お坊さんじゃったなあ。
マザーテレサか、この呑龍上人かって具合じゃて。
ほんでもってなあ、そのことからこのお寺を
子育て呑龍と呼ぶようになってそりゃあ、
七五三やお宮参りのときゃあ、
皆がおっかさんに連れられて小さい手を合わせていのるのじゃよ。
ほいでな、時代をさかのぼっての話なのじゃが、そもそもこの太田の国を
治めていたのは元々はその新田さんじゃったそうじゃ。
戦乱の世にゃ、そりゃぁ何度となく戦が繰り広げられていたんだそうじゃ。
そうなれば世の常、チカラのあるものがその国をゲットするのは
いまのこどもたちにゃ、ゲームとかで良くわかっとるじゃろうが
あたりまのことなんじゃな。
金山といってな、300mにも満たない
ちっちゃい山なんじゃが
そこには昔からの
お城があったんじゃ。
金山城といってなそれはそれは
立派なお城じゃったそうじゃ。
そういえばわしが住んでいるこの深谷は
上杉の城下だったそうじゃが、
そのころのこのお城はな、その上杉、武田、北条、佐竹と
超有名どころに囲まれて大変な思いをして生き抜いてきたそうじゃが、
とうとう力尽きてその当時を治めていた
由良さんとお隣の館林城の長尾さんが
北条の手に
落ちたそうじゃ。
それもつかの間、
北条さんも
負けッちゃったから、
さあ大変。
結局、誰も住むことのない空き家と
なっちまったんじゃそうだ。
その後ず~っと忘れられていたのじゃが、明治の時代に
この地にゆかりでビックネームの新田の義貞ちゃんを祀った
新田神社がお城の上に作られたそうじゃ。
その当時から超巨大ケヤキと、ありがたい神様がず~っと太田市民
の無事を見守っていてくれたそうじゃ。
ありがたいことじゃのう。
戦乱の世を戦い抜き
そして、
やっと平和が訪れたのじゃ。
じゃが皆が幸せに暮らしていた
この地の平和もそうは
長く続かなかったのじゃ。
またも怪しい雲が流れ込んできたのが記憶にもまだ新しい昭和という
時代じゃった。
第二次世界大戦といってな、それはそれは悲惨な戦じゃった。
遠く戦地で命をなくした若者の御霊をこの東の山に慰霊碑と共に祀って
あるのじゃが、この太田という国はその当時中島飛行機といってな
今の富士重工じゃが、数々の戦闘機を作っておったのじゃ。
そんなことから終戦直前には空襲にあっていたんじゃな。
降ってきたのじゃぞ。
そりゃあ、随分おっかねえ
思いをしたんじゃな、
その時代にもなぁ・・・。
こんなきれいな景色を見せてくれる
今の時代にゃ考えられないような
辛い思いをしておったのじゃぞ。
そして再び平和がやってきたんじゃ。
たくさんの犠牲のうえに築いた
平和な毎日じゃ。
こんな風景が
これからも永遠に
続くと良いんじゃがのう。
どうか、今の皆が昔の悲劇を
忘れることなく、いつまでもいつまでも
平和な時代を築いてくれることを祈るばかりじゃな。
これはわしからのたっての願いじゃて。
な~んてね、チャンチャン♪
両親が宮城にいるときに青葉城址を見に行った事があります
ひとつひとつ積み上げた石には、現代の私たちにはわからない苦労や自分の国を
守るための思いが感じられたのを思い出しました
こんな大きな爆弾が降ってくるなんて、恐ろしい世の中だったのでしょうね
戦争を知らない世代の私たちには、この爆弾を見るたびに、
戦争はあってはならないとの戒めにもなりますね
私も一路おじいちゃん?に清き1票です!戦争反対!
『太平記』は男のロマンですよね!戦国・幕末のように“自分を信じて戦い抜く”男には尊敬の念を抱きます。
太田市はおそらく江戸時代までは新田村ですよね?現在も新田郡という地名も残っているようですが……新田村の総鎮守は岩松八幡宮だそうですね。生品神社を始め、太田市には未だ新田が息づいてるようで…凄いですね!
『太平記』に見る新田義貞と足利尊氏の関係は実に考えさせられます。“結局、裏切り者は裏切られる”んだと。。
そのため、個人的に尊氏や家康は好きではありませんでした。
ただ、彼らはいわゆるパイオニア。“新時代を造った”という共通点があります。
パイオニアには苦労や反対者はつきものです。それが時代なら尚更のことでしょう。
時代も信頼と同じで、積み上げるのは大変なのに、多少の綻びが生じただけで簡単に崩れ去ってしまうものなのかもしれませんね…。
そう考えたら、少しだけ家康や尊氏を見直しました(笑)
太田市と言えば世良田東照宮に行ってみたいんです♪
頭の中に日本昔話のテーマソングが流れちゃいましたよ( ̄m ̄*)
子供への朗読って好きなんで甥っ子や友達の子とかに、このまま読んで聞かせてあげたいです♪
シリーズ化しませんか?
yoppe様へ
一路おじいちゃんも青葉城を見たことがありますよ。(笑)
その時は何の感激も驚きもなかったのですが
この年齢になってから歴史的遺産を目せられると、当時の苦労や
技術に驚かされますよね。
別にそれほど好きでもなかった歴史がとっても面白く感じたり
興味深く、柄にもなくその辺のことを調べてみたり
そんなこともかなり面白いかもしれませんね。
新しい楽しみ、そういうものは結構身近なところにあるのだと
思う太田金山の時間でした。
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古代史ランナー様へ
おう~、さすが古代史ランナーさん。やっぱり詳しいですね。
この太田市のとなりの町に新田町という場所があります。
今は太田市と合併していて太田市新田となっているのですが
足利に代表されているように武将の名が地名となっているのでしょうね。
私は歴史はそれほど詳しくありませんが、調べていくと実に面白い。
今頃になってやっと判ったような気がします。
世良田の東照宮なんて私の自宅からすぐ近くで、子供をつれて遊びにも行っているし
そんな近くに興味深い歴史的建造物があるなんて
今までは気にも留めていませんでしたよ。
確か徳川発祥の地とか書いてありましたが、ホントかよ!って
いつも思っていたぐらいですから。
しかし、今回の太田の呑龍様が徳川家康の命により建立されたと知って
この新田郡は本当に歴史の街なんだと改めて知りました。
新田、足利、う~ん、もっと深く調べると面白ろそうな歴史がありそうですね。
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チェリー様へ
いやいや、お恥ずかしいですよ。
この記事をアップする前に、メロンに読ませたんですよね。
そうしたら、「じゃあ、じゃあ、ウザイ~!」って、切り捨てられちゃいました。(笑)
もっと昔話風の言葉を勉強しないとダメですね。
でも、書いていてとっても楽しいし、面白い!
歴史はそんなに好きじゃなかったのですが、今はそんなのを見ているだけで
心が落ち着くというか、安らぐというか・・・。
歴史ロマンに心を馳せる、な~んちゃってね。(笑)
また機会があったらこのような感じの記事をアップしますね。
たぶん間違った解釈もあるかと思いますが、その辺はご勘弁を。
で、この記事のために山の中を2時間ほど走り回ったんですよ。
おかげで足の筋肉がバキバキになっちゃいました。(笑)
でもそれも良い練習ですし、その時からとっても楽しかったです。
メロンちゃんのツッコミが最高です。
そして歴史の話って現実とリンクしていて面白いですよね(o^-')b
私も昔戦争時代の悲劇みたいなものばかりを図書館で探してアメリカを憎んだものですw
まぁ結局は主体とする書き手にかなり委ねられて評価は難しいんですけどね、写真や映像でさえもそうですから、言葉や伝承は言うに及ばずで虚しささえ生じる事があります^_^;
でも先日も利根川を下流へロングランしている時に、日東製鋼という工場があって、以前自転車屋さんのおじさんに昔この辺りは日東グループみたいな財閥に近いような大企業があって、鉄道まで敷いていたんじゃぁ~って話を聞いた事があり、熊谷にもいまだにニットーモールってのが旧ダイエー内にありますものね(o^-')b
なんだか驕れる平氏がなんとやらですが、どんなに栄華を誇っても必ずいつかは衰えていくのは文化も時代も人間も変わらないのだなと考えさせられますわ( ^-^)o
ってな訳で、今後も長~いブログ楽しみにしてますよん♪(o^-')b
いつも私のブログ記事が長いと一路さんはおっしゃいますが、一路さんの方が遥かに長いですからね( ^-^)oぷふ(私のは写真がほとんどですから♪)
hime様へ
太田の金山は散策するほどの大きさじゃないんですよ。
1時間も遊んでいると飽きちゃう、小ちゃい山なんです。
でも、ここは私にとっては絶好の練習場所。
上り下りの峠道、山道、階段となんでもそろっています。
ちょっとした「トラの穴」状態になっています。
ここを私と一緒に行ったら2,3日は筋肉痛に苦しみますよ。(笑)
うそうそ、そんなことはないんですが、でも私はここを“地獄”と呼んでいます。
楽しむんでしたらここより足利の両涯山のハイキングコースがよさそうですよ。
30数キロのコースみたいで楽しめそうです。
途中途中にお寺や城跡などもあり、当然山の中ですが
今度下調べに行ってこようかなと思っています。でも今は寒いですからね~。
暖かくなると蛇が出るし・・・。
それさえなければ山は楽しいのですけどね~。
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心の旅人様へ
いや、絶対に私の方が短い!
昨日、東京丸ごとエイドの記事を読み始めたけど、途中で断念しちゃったもん。
第一、私の場合は一話完結で短編小説みたいなも。
それに比べてココちゃんのはいつ終わるのか想像も付かない長さ。(笑)
しかも「その2」とか「3」とか出てきちゃうしね。。。
確かに文字サイズにしても写真の大きさも違うけど、文字数にしたら
うん~、私の方が多いいか???(笑)
うん・・・、最近だんだん長くなっているなとは感じていたけど、やっぱりそう思うのね。
それより、コメントがやたら長い。本文より長くなっちゃう。(爆笑)
でもさ、実はこれこそが私のブログらしいところで、ほかの人にはないすばらしいところだし
誰にでも自慢できることだと思っています。
よほど根性入れないとコメントを入れられない。
初めての人は腰を抜かしちゃうかも・・・。
ともかく最近みんなのブログの方が淋しくなりつつあるけれど、私はまだまだ書きたいことが
まだまだいっぱいあります。
これからも暇があったら遊びにきてね。
(これも“盛者必衰の断りを表す”って事なのね。ちょっと淋しい・・・)
多くの人達が勤めていたようです。戦時中は良く利根川の河川敷に飛行機が不時着
してたりして軍隊も駐留しており、そのせいか空襲に遭い我が家は焼夷弾が裏庭に落ち
全焼しました。軍需工場が近くにあった為か米軍の艦載機がよく飛んできたようです。
又、東京から多くの親戚が疎開していたのに被害に遭ってしまい何のための疎開かに
なってしまいました。
訳あって、富士重工の資料館(?)を覗いてきたことがあります。
随分、有名どころの戦闘機がつくられていたみたいですね。
今見れば「かっこいいな~」と思う戦闘機も実際には戦う為の道具で
数多くの人たちに命が消えていった悲しい飛行機でもあったのですね。
そんな時代を超えてあの愛くるしいカタチのスバル360を作るような会社になって
ホントによかったなとも思いましたよ。
実は私の母親も軍需工場に行っていたそうです。
まだ、学校を卒業していない時から駆り出されたそうです。
今の時代では考えられないことですが、当時はそれが普通だったのでしょうね。
そんな時代が二度と来ないことを祈るばかりです。
遊楽さん宅に焼夷弾!
この辺にも空襲があったのですか。
熊谷の空襲は良く聞かされていましたが、ちょっと驚きです。