一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『小説 琉球処分』

2011-09-07 | 乱読日記

夏場になると沖縄関係の本を読みたくなります。
今年は3冊。

最初は『琉球処分』 これは昨年図書館で借りて延長できず返却を余儀なくされたのですが(参照)、菅総理(当時)の発言もあって講談社文庫として復刊されたのではれて購入。
文庫で各500ページ上下巻の大作です。

上巻の帯にはご丁寧に

「数日前から『琉球処分』という本を読んでいるが、沖縄の歴史を私なりに理解を深めていこうとも思っている」
 内閣総理大臣 管直人

と件の発言が引用されてます。
今回の首相交代で帯も差し替えるのかなぁなどと余計な心配をしてしまいます。


さて、本題。

前回は出だしまでしか読んでいなかったので「琉球の視点から」と書きましたが、中盤以降、琉球側の視点と明治政府特に処分官として派遣された内務官僚松田道之(彼が伊藤博文内務卿に提出した詳細な報告書が本書の下敷きになっています)の視点を対比させることで、双方の認識のずれや苛立ちのなかで「琉球王国」が「琉球藩」そして「沖縄県」とされていった過程を描きます。

琉球王国は古来中国から冊封を受けながら中国・日本・東アジアとの中継貿易で栄えてきました。
1609年に薩摩藩の侵攻を受け薩摩藩の実質的な支配下になってからも、中国との朝貢貿易は維持され、琉球王国として存続してきました。

その結果、近代国家として琉球も日本国の領土にある以上他の藩同様行政組織に組み込もうとする明治政府の論理と、今までどおり清国と薩摩藩の間を泳いでいられるだろう、清国から冊封を受けている以上悪いようにはされまい、という琉球王国の高官たちの認識のずれが(明治政府曰くの)「琉球処分」をめぐっての長くかみ合わない交渉をもたらすことになります。

小説として、明治政府の苛立ちと琉球の戸惑いの妙なすれ違いの描写は臨場感あふれます。

「きみの弁じたあの部分だけだ、こちらの敗北は。・・・他の部分は、なるほど君が言うように、かれから見ればこちらの蒙昧とも受け取れよう。しかしまるで三歳の童子と論じている大人の苦労だ。常識の底が違う。かれらに己れの蒙昧を知らしめようとすれば、こちらの常識の底をさらに突き破って話を掘り下げてゆかねばならぬ。それには何時間かかるのだ。今晩の夜を徹して明日まで議論を尽くせば可能だというのか。わたしには、そのような暇も根気も義務もない」

「いけません。古来わが国は外国に向かっては、頼り、こいねがうだけが道、薩摩だけにはそれも利き目がありませんでしたが、中国はいつでもそれを聞き届けてくださいましたし、日本政府もどうやら、大きなことを言うだけに島津よりはいくらか御しやすいものと思われます。ここまで引き延ばしてきたのですから、あと一息で我を折るに違いありません。そうすれば、おのずからまた活路は開けるというもの・・・」

また、、琉球側でも高官たちの清国の支援を期待するか否かの対立や世代間による受け止め方の違い、そして士族と農民の対比が描かれ、単に琉球王国を犠牲者とだけ決め付けないことで物語に奥行きが生まれています。 

そして交渉の過程での両者の視点のずれや楽観、悲観、いらだちをそれぞれの立場から丁寧に描くことで、「琉球処分」が単なる明治政府と琉球王国の「善悪」「勝ち負け」でなく、わだかまりを残しながらの決着として提示されます。

このわだかまり感は現在の沖縄を巡る問題にも通じるのかもしれません。


歴史的な問題意識を持っていなかったとしても読み物としても楽しめる一冊ですので、機会があればぜひ読んでいただきたいと思います。


 

コメント
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