つぎは宮古市田老町(Googleマップ参照)
吉村昭の『三陸海岸大津波』でも取り上げられていたように、明治29年、昭和8年の津波でも大きな被害があった町で、その教訓から、高さ10.6m総延長2.4kmの巨大な防潮堤を設置していた町です。
しかし今回の津波はその防潮堤を越えて町に壊滅的な打撃を与えました。
港の近くの崖に過去2回の大津波の到達点を示したプレートが取り付けられていますが、今回の津波はそれらのプレートを壊してその上まで到達したことが伺えます。
下のプレートが昭和8年の10m、上が15mと書いてあります。
国道を通ると市街地への入り口には昭和8年の津波の遡上地点を示す標識があります。
(この写真は市街地側から撮ったもの)
今回の被害はそれよりはるかに陸側まで広がっています。
これが防潮堤。陸側からの写真ですが、津波に乗り越えられて手摺が曲がっています。
防潮堤の上から。
左が海側で右が陸側ですが、ともに建物が撤去されてなにもない状態です。
港。瓦礫撤去はほぼ終わってますが、鉄骨類の分別集積をやっているところです。
港から市街地を見る。
手前の防波堤は完全に破壊されています。
建物も残っておらず、奥に見えるたろう観光ホテルくらいです。(地図を見ていただくとそこまでけっこう距離があることがわかると思います。)
漁港にある冷蔵倉庫。写真で見ると冷蔵倉庫の裏の崖に過去2回の大津波の到達点を示したプレートがあります。
たろう観光ホテル。この場所で3階の高さまですごい勢いで津波が襲ったことがわかります。
おまけですが、携帯電話の基地局(ドコモ?)
かなり海に近い場所にあるのですが、基礎がしっかりしていてしかも地上部が細かったので押し波引き波による被害を逃れたようです。(根元のところに何かがぶつかった跡があります。)
防潮堤は津波を完全に防ぐことはできませんでしたが、防潮堤がどれだけ津波の被害を減少させることができたのかを検証して、今後の防災対策に生かしてほしいものです。
※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
吉村昭の『三陸海岸大津波』でも取り上げられていたように、明治29年、昭和8年の津波でも大きな被害があった町で、その教訓から、高さ10.6m総延長2.4kmの巨大な防潮堤を設置していた町です。
しかし今回の津波はその防潮堤を越えて町に壊滅的な打撃を与えました。
港の近くの崖に過去2回の大津波の到達点を示したプレートが取り付けられていますが、今回の津波はそれらのプレートを壊してその上まで到達したことが伺えます。
下のプレートが昭和8年の10m、上が15mと書いてあります。
国道を通ると市街地への入り口には昭和8年の津波の遡上地点を示す標識があります。
(この写真は市街地側から撮ったもの)
今回の被害はそれよりはるかに陸側まで広がっています。
これが防潮堤。陸側からの写真ですが、津波に乗り越えられて手摺が曲がっています。
防潮堤の上から。
左が海側で右が陸側ですが、ともに建物が撤去されてなにもない状態です。
港。瓦礫撤去はほぼ終わってますが、鉄骨類の分別集積をやっているところです。
港から市街地を見る。
手前の防波堤は完全に破壊されています。
建物も残っておらず、奥に見えるたろう観光ホテルくらいです。(地図を見ていただくとそこまでけっこう距離があることがわかると思います。)
漁港にある冷蔵倉庫。写真で見ると冷蔵倉庫の裏の崖に過去2回の大津波の到達点を示したプレートがあります。
たろう観光ホテル。この場所で3階の高さまですごい勢いで津波が襲ったことがわかります。
おまけですが、携帯電話の基地局(ドコモ?)
かなり海に近い場所にあるのですが、基礎がしっかりしていてしかも地上部が細かったので押し波引き波による被害を逃れたようです。(根元のところに何かがぶつかった跡があります。)
防潮堤は津波を完全に防ぐことはできませんでしたが、防潮堤がどれだけ津波の被害を減少させることができたのかを検証して、今後の防災対策に生かしてほしいものです。
※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。