昨年の7月以来の被災地再訪です。
(前回については被災地に行ってきました(まとめ)をご覧ください。)
今回は駆け足で陸前高田から石巻までを回ってきました。
まずは陸前高田。
(昨年の状況はこちら参照)
市街地の中心部にあった市庁舎付近からの光景。
きれいに瓦礫が撤去され、残っているのは市庁舎やスーパー、病院などの3,4階建の鉄筋コンクリート造の建物くらいです。
しかも瓦礫はきちんと分別され、処理を待っている状態です。
土
コンクリートのガラ
鉄くず
後で他の町と比較して後で気がついたのは、陸前高田は建物の基礎まできっちりと処理していること。
そのために、平坦な市街地が津波でほぼ全滅してしまったことが強調されています。
さらに陸前高田はもともと大きな漁港や工場がなく人口も少なかったので、平坦な光景が復興のエンジン役を見つけにくいという悩みを象徴しているように感じました。
次は気仙沼
(昨年の状況はこちら参照)
三陸道から市街地に入っていくと、鹿折歩道橋の近くに鹿折(ししおり)復幸マルシェができていました。
そもそもは塩田さん(うどん屋のご主人)の発案で、商店主に声をかけ、土地探しと地主との交渉を行い、行政の補助が出ない整地作業は自ら重機の免許を取って作業をし、側溝の掃除はボランティアの協力を得て、と、プレハブの建物以外は行政の援助をほとんど受けずに立ち上げたそうです。
(鹿折復幸マルシェ完成までの道のりをご参照)
熱く語る塩田さん。
昨年7月の時点では鹿折歩道橋の交差点から南は通行止めになっていて、迂回したのですが、この鹿折歩道橋に流されてきた家や瓦礫がひっかかって火のついた瓦礫をせき止める役目を果たしたそうで、そのうちに風向きが変わって、延焼が食い止められたのだそうです。
歩道橋の階段に焼けた跡が残ってます。
気仙沼の中心部では
復興屋台村 気仙沼横丁が出来、気仙沼 お魚いちばも営業再開していて、にぎわっていました。
気仙沼は魚市場の建物が残っていたので、比較的早くから水揚げが再開し、取扱高は大きく減ったものの、昨年のカツオの水揚げは日本一を維持したそうです。
問題は冷蔵倉庫などが被災したために、水産加工業の復興が進んでいないこと。
昨年の7月の時点では市場から南は地盤沈下と津波で堤防が壊れて浸水が激しく、通行止めでした。
(当時の写真。運河ではなく道がつながっているはずのところです)
現在は、護岸の仮復旧も終わり市場の区まで通行が可能になっていました。
一番南には大型の冷蔵倉庫が集中していますが、それぞれ復旧工事が進んでいました。
南の部分は不思議なことに、埠頭の先端部分はよりも手前の方が道路も含めて地盤の被害が大きいこと。
場所によって被害が違うのは新浦安の液状化と同様で、埋め立ての時期によるのでしょうか。
そのため、埠頭の先端部分にある大型の冷蔵倉庫は比較的復旧が早いかもしれません。
逆にその手前の、おそらく昔からある中小業者の加工工場のところは、被害が大きく建物も残っていないので、復旧には時間がかかりそうです。
こんな感じ。
地盤の安定していた方のところに立っている宮城県合同庁舎
(上の昨年の写真の左隅の建物)
建物の左側、2階と3階の間にある青い印は、津波がここまで来た、という印。
気仙沼市内の主だった建物(取り壊さないで使う建物)にはこの印がつけられていました。
将来への教訓としても、また観光資源としてもいいアイデアだと思います。
漁港の対岸にある造船所。
火災の原因になった重油タンクが高台に移されています。
気仙沼は震災前から日本有数の漁港で被害も比較的少なかったことと、水産加工業や冷蔵倉庫には大手企業もあるので(ほてい、ヨコレイなど。地元でも阿部長商店という会社が水産加工業やホテル観洋など売上200億円規模の会社がある)、民間の力でも復興が進んでいるようです。
あとは市の復興計画がどれくらいのスピード感で進むかが、中小事業者や被災者の住宅問題のポイントになりそうです。
(前回については被災地に行ってきました(まとめ)をご覧ください。)
今回は駆け足で陸前高田から石巻までを回ってきました。
まずは陸前高田。
(昨年の状況はこちら参照)
市街地の中心部にあった市庁舎付近からの光景。
きれいに瓦礫が撤去され、残っているのは市庁舎やスーパー、病院などの3,4階建の鉄筋コンクリート造の建物くらいです。
しかも瓦礫はきちんと分別され、処理を待っている状態です。
土
コンクリートのガラ
鉄くず
後で他の町と比較して後で気がついたのは、陸前高田は建物の基礎まできっちりと処理していること。
そのために、平坦な市街地が津波でほぼ全滅してしまったことが強調されています。
さらに陸前高田はもともと大きな漁港や工場がなく人口も少なかったので、平坦な光景が復興のエンジン役を見つけにくいという悩みを象徴しているように感じました。
次は気仙沼
(昨年の状況はこちら参照)
三陸道から市街地に入っていくと、鹿折歩道橋の近くに鹿折(ししおり)復幸マルシェができていました。
そもそもは塩田さん(うどん屋のご主人)の発案で、商店主に声をかけ、土地探しと地主との交渉を行い、行政の補助が出ない整地作業は自ら重機の免許を取って作業をし、側溝の掃除はボランティアの協力を得て、と、プレハブの建物以外は行政の援助をほとんど受けずに立ち上げたそうです。
(鹿折復幸マルシェ完成までの道のりをご参照)
熱く語る塩田さん。
昨年7月の時点では鹿折歩道橋の交差点から南は通行止めになっていて、迂回したのですが、この鹿折歩道橋に流されてきた家や瓦礫がひっかかって火のついた瓦礫をせき止める役目を果たしたそうで、そのうちに風向きが変わって、延焼が食い止められたのだそうです。
歩道橋の階段に焼けた跡が残ってます。
気仙沼の中心部では
復興屋台村 気仙沼横丁が出来、気仙沼 お魚いちばも営業再開していて、にぎわっていました。
気仙沼は魚市場の建物が残っていたので、比較的早くから水揚げが再開し、取扱高は大きく減ったものの、昨年のカツオの水揚げは日本一を維持したそうです。
問題は冷蔵倉庫などが被災したために、水産加工業の復興が進んでいないこと。
昨年の7月の時点では市場から南は地盤沈下と津波で堤防が壊れて浸水が激しく、通行止めでした。
(当時の写真。運河ではなく道がつながっているはずのところです)
現在は、護岸の仮復旧も終わり市場の区まで通行が可能になっていました。
一番南には大型の冷蔵倉庫が集中していますが、それぞれ復旧工事が進んでいました。
南の部分は不思議なことに、埠頭の先端部分はよりも手前の方が道路も含めて地盤の被害が大きいこと。
場所によって被害が違うのは新浦安の液状化と同様で、埋め立ての時期によるのでしょうか。
そのため、埠頭の先端部分にある大型の冷蔵倉庫は比較的復旧が早いかもしれません。
逆にその手前の、おそらく昔からある中小業者の加工工場のところは、被害が大きく建物も残っていないので、復旧には時間がかかりそうです。
こんな感じ。
地盤の安定していた方のところに立っている宮城県合同庁舎
(上の昨年の写真の左隅の建物)
建物の左側、2階と3階の間にある青い印は、津波がここまで来た、という印。
気仙沼市内の主だった建物(取り壊さないで使う建物)にはこの印がつけられていました。
将来への教訓としても、また観光資源としてもいいアイデアだと思います。
漁港の対岸にある造船所。
火災の原因になった重油タンクが高台に移されています。
気仙沼は震災前から日本有数の漁港で被害も比較的少なかったことと、水産加工業や冷蔵倉庫には大手企業もあるので(ほてい、ヨコレイなど。地元でも阿部長商店という会社が水産加工業やホテル観洋など売上200億円規模の会社がある)、民間の力でも復興が進んでいるようです。
あとは市の復興計画がどれくらいのスピード感で進むかが、中小事業者や被災者の住宅問題のポイントになりそうです。