くりまんじゅうの日記

世間より少し いやだいぶん遅れている
老シーラカンスです。

あの日から4年。

2015-03-11 | 日記
東日本大震災の起きた 3月11日から 4回目のこの日がきました。

4年前のこの日私は 2ヵ月後に迫った退職にむけ 引き継ぎ書を
作成しておりました。


この日は月一の 県外の部長職が集まり会議があった日で 私たち女性社員は
会議へ入ることなく 自分の席でPCの入力や 電話の対応などしておりました。

外線からかかった電話は同僚の奥さんからで 東京へ遊びに行った娘さんと
連絡がつかず心配とのことで ここで初めて 東北で大地震があり 東京でも
相当な揺れがあったことを知りました。

会議も終盤に入っていましたので 会議室に入り 東北で大きな地震があり 東京も
被害を受けたことを告げ 会議室のTVをつけました。

目に入った映像は 津波が押し寄せ 家も車も飲みこんでいくという 映画かドラマの
ような画像に 皆が息をのみました。

月一の会議の後は 月一の 親睦会みたいな宴会をしますが この日は 店へ予約を
入れていたためキャンセルできず 皆が黙って お酒を飲みました。

  
津波の犠牲者は 数百人から数千人にとふくらみ まだそれが どんどん増えていって
海から遠く離れた小学校でも 多くの児童が 亡くなったことを知りました。

津波の犠牲者が 信じられない人数になって それと共に 福島の原発事故が深刻な
問題になりました。

金融機関はすぐに義援金の窓口を開設し 役員 一般社員とそれぞれ金額が決められ
集金し振り込んで TV画面には連日 金子みすゞさんの詩が流れました。

あれから丸4年 4年経っても解決しない 原発問題と被災者の暮らし 身内を亡くした 
遺族の悲しみ 被災者の 目途の立たない将来への不安。


先日のNHKの番組で 福島第一原発から30㌔の村民が 避難解除が出て帰村したものの
以前の住民の半数しか戻らず それも60代から上の者ばかりで 若者は放射能への不安が
あるため帰らないという 今を知りました。

帰村した人たちも 野菜や肉までも 口に入る食品の総てを 放射線量を量ってからの
調理という現状で 子どもや孫には 帰って来いと とても言えないと住民は話します。

目に見えない放射能は あと何年待てば除去され 安心して住める村になるか分からない
もう 自分たちは終りに近いが 若い者に 戻って来いとは言えない 仲よく 3代の家族が
一つ屋根で送った日々は もう二度と戻らない と語ります。

あの日から4年 復興税が正しく使われ 被災者が一日も早く 元の暮らしに戻れますように。      

                             

 
                                                 
コメント (40)
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