枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

土用・中潮、阪神大震災・・・

2019年01月17日 | Weblog

 あの時の事は、鮮明に覚えていると思っていたが、既に24年経っているとは。何事が起きたのかという衝撃と、不安とが入り混じった中を、子ども等を送り出し、仕事に出向いた。その頃、我が家にはテレビがなかった。淡路島を中心にして、神戸の街が炎に包まれており、建物は尽く灰塵に帰していた。

 あれから24年である。街は復興を遂げ、以前のようには戻っているが、壊れた心や、消えた命は還らない。原発の被害が無かったのが、せめてものことと安堵していた。それが東北では、二度と起こしてはならない汚染にまで広がって、今も復興の兆しは厳しいようだ。それなのに防衛費は突出させるのだ。

 予算にも、国民の安全や安心、保証への使途なら、未だ気持ちも治まるが、戦争へと向かう資金には、甚だ疑問と暗鬼が膨らむ。それでも決めたことであるからと、何がなんでも遣る姿勢に、まるで小さな子どもが聞き分けないで、我儘を言っている感じを受ける。これが見た目は大人であるから、実に情けない。

 広島や長崎の惨状に、施設を訪れるだけでなく、書物を読み、実際に被爆された方から聴くことも大切だろう。わたくしは、その時の情景を感じるので行けない。心に受けるダメージが強過ぎ、身体も足が動かなくなる。金縛りに遭う。長崎には中学の修学旅行で、かの地を踏んだ。広島と沖縄には未だ行けず。

 沖縄の海を埋め立てて、基地を造れば更に、世界各地で地震や津波が引き起こされるのに、そのことに気付こうともしない。どうしても、何としても埋めねば、という間違った方向に向かうばかり。学識のある大人なら、止める決断もするだろうに、それすら考えない。地球の破滅を招く方向に向かっていくのだ。

 差別をなくす壁を取り払うのが、トップの判断であるのが、そういった間違いを冗長し、更なる被害にしている。気づいても止められないのではなく、無関心なのだ。民主主義という安全を盾に、嘘と誤魔化しで政治を行う。自分の身体も、腹も、痛くも痒くもないので、遣りたい放題、借金は嵩むばかりですね。

 明日は、施設の事例検討があり、休みでありながら出て行かねばならないようだ。夕方なので、参加できなくもないが、寒いので大儀なのだ。感染への接触も厭なので困る。手洗い・嗽にも、きちんとしていればいいが、案外いい加減な遣り方で、これなら最初から、難しいことを言わねばいいのに、とため息が。

 フェンスの場所にも、大きくなったのや、これからのや、枯れて復活したのやあるので、愉しみにも。

 

 

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