井上靖著 わが母の記を漸く読み終える。母というよりも、人間を描いていると思わざることに愕然とする。人間の死に向かう数年を、何と克明に書いていることか。介護の仕事をしている者として、その必死さも、健気さも、また無償の愛にも気づくのだ。それでも、他人とわが母とは異なるとも思えるが。
そんなに大勢との関りではないが、それでも何人かには向き合ってきた。皆、一様に家に帰りたい、と言う。家族は、厄介者としか見ず、家には愚か、面会にも来ない。自分を産んでくれた親である。自分が今日あるのは、この世に産んでくれたお陰であろうに、そんな事実さえ無いとばかりに突き放す子だ。
仕事としてやっていて、何か府に落ちない想いがあったが、この文章に接して、目から鱗が落ちた。そうなんだ、と納得した。これは、女であるが故に、その年齢から遡って往き、人生を終えようとしている生涯でもあるのか。忘れていくのではなくて、消えていくのだと書かれている。そこに一線を引いて。
DVDでは、捉える場面があるから、本文とは違ったが、概ね人間の壊れていく様でもある。言葉での、文章での現わしようには、とても慎重な書き方で、未だ、認知症とも言われず、痴呆とされていた時代、こんなにも丁寧に、然も、自然体に人間を書いていたとは。今の作家には到底書けはしない文面でも。
わが母の記だけを読みたかったが、井上靖全集の第七巻の中に収められていた。無論のこと、図書館で借りた。他にも短編を含んだ、分厚い書籍だ。読んでいて手が痺れる重さで、何度も挫折しそうになった。介護の資格等、吹っ飛んでしまう内容に、かの文豪が細やかに記していたのも感動した。読んで正解。
今朝は、氷が張っていなかった。毎朝、両親と銀河にお茶湯をしているが、野外に置くので気温で変化する。これを時々、近所を徘徊する猫がちょろまかす。縁台の所なので、野鳥かも知れないが、空っぽなことがある。古里にちょくちょく行けないので、せめてお茶湯はと続けている。夢に出て来て礼を云う。
藪入り。閻魔参りであるが、江戸時代の頃には、庶民の休日は藪入りだけで、年2回の休みを楽しみに、奉公していた。それから比べると、巷に溢れる物に囲まれて、贅沢なことだ。品質はどうかとも思えるが、デザインも品数も豊富だ。あり過ぎて選ぶのに悩む。個人的には、終活に入っており増やさないが。
勤務に行けば、ロッカーに何やら怪しげな物がぶら下がっている。感染の立場からだそうだが、これでは悪い菌をやっつけるだけでなく、良いのまで萎れてしまう。ありのままでいいのにと、厭きれてしまう。室温を上げて、半袖でもいいような環境にすることが、そもそも間違っている。自然のままでいいのよ。
宿根草のサルビア。冬の間には枯れたように見えるが、季節を忘れずに咲いて来るのが可憐。