枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

鏡開き・蔵開き、中潮

2019年01月11日 | Weblog

 新暦での行事には、早く速くと急き立てる嫌いがある。子どもの頃には、学校に行く前に、小川の渕に集まって、お飾りを燃やし、書初めをはやし、鏡餅をあぶった。これを口にすれば、一年中健康でいられる。そういうのは大人の考えであり、子ども心には、書初めの優劣をつけられるのが厭で、顔つきが厳しくなっていた。お正月の二日には、必ず書かされた。

 当時は、硯に若水を注ぎ、墨で摺らなければならなかった。足は痺れるわ、手はかじかんでしまうわの散々さであった。最近の事情からは、察することも難しい。暖房を点け、墨汁を入れれば済むし、適当に親が書いたりもする。書道も茶道も、様々な分野が、職業として認められる背景には、苦難の道があったことだろう。自分に可能なことに精進すればいいよ。

 日日是好日を読み終える。ここに何時も書いて来たが、雨の日には雨を愉しみ、晴れの日には、その作業をすればいい。晴耕雨読とも思える。雨を嫌がるのは、どうしてのだろう。洗濯物が乾かず、蒲団が干せないからからでもあるが、基本的には、読書に勤しむことを愉しむ。晴れた日には、枇杷葉の様子を見て回り、育ってくれることに祈り、感謝する気持ち。

 その日の天気には、一日として同じ日はない。風の向きも通りも違う。雲のさまにも異なりが観える。宇宙の様子にも、変化が訪れて来る。二度と同じ時間は来ないし、元に戻せもしない。自然からの恩恵には、必ず意味があるように、人間もまた異なる使命を持って生まれている。誰もが同じでなく、皆其々の生き方がある。枇杷葉に囲まれていて、悟れた心だ。

 旧暦で暮らしていると、少しはゆったりとした気持ちが持てる。無論、それは休日のことで、勤務時間にはそうもいかない。手当てにも、神経を集中して遣るから、終わった後には心底疲れる。相反することもあったり、共鳴することも起きる。何れも、枇杷葉のエネルギーが、わたくしの身体に取り込まれてきて、放出するからだ。溜まっていたら電気が溢れる。

 友人がやって来て、枇杷葉の生葉を欲しいと言う。足の裏が痛いのだそうで、何枚かを採ってあげた。肩凝りには間に合わなかったようで、イタドリをコットンに浸して当てたそう。これもイタドリならばこその効果だろう。医者に罹らずに治すのは、自然治癒能力での範囲なので、自力でしなければならない。でも、手を当てていれば治るのよ。不可能はない。

 寒中の行事に、枇杷葉茶を作ったり、焼酎に漬けたりするが、寒中の水には濁りがないから、一年中の枇杷葉茶も可能になる。冷暗所に保管していれば、そのまま保存出来る。水道水よりは硬水の方が好く、風通しの良い場所があれば最高。昨年作ったのが、何ともならずに残っている。味噌を作るのも、この時期には最適である。2年物や3年物は美味しさが違う。

 外に行きたいのだが、網戸が遮る。それでもまだこの時期には、警戒心が解けずに部屋に居た。身体も一回り大きくなって。

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