枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

幕は上がっている

2021年01月02日 | Weblog
 人生の舞台の幕は、何時上がって下りるのだろう。生きていくことには、たくさんの哀しみもあれば、歓びにも出遭う。或いは心を病んでしまうことや、やさしい言葉に救われることもあるのだ。下を向く日もあれば頭を上げて歩ける日もあり、だからこそ生かされていることへの感謝ができる。自分にはない何かが相手にあれば祝福し、持っていれば分けよう。

 それが物でも金銭でもいいし、愛であれば尚更に素晴らしいことを、人類は眼に見えるものだけを尊ぶ。元旦は静かにすばると過ごし、今朝は弁当の日であるので用意をする。海老は塩焼きに鰤は照り焼きで、人参と大根の膾、出し巻き卵と里芋の煮物に酢牛蒡とした。鰤に紅生姜を乗せて見栄え佳く。以前は、子ども等が孫と来ていたが今年は自粛で止めた。

 お節も沢山作れば残ってしまい、捨てる訳にもいかないから延々と続くので困る。三が日はお雑煮があれば好いので、何時もと変わらぬ内容になってしまう。カレーも少なくした心算が本日までひびく有様。冬場でもあり、気温も低いので腐らずお腹に。歳を重ねてくれば脂っこい物が閊える。卵かけご飯はすばるも好物なので、右手をかけて頂戴をしてくるが。

 早朝には雪花が舞っていたが、天気は回復のようである。然し、気温が一桁になっており寒い。弁当を配達しての帰路、上空を揺らぐ白龍に遭遇する。絵に描かれれば睨みつけた面差しだが、龍はやさしい眼をしている。人間が恐れるには業に因る。自然への畏怖は持ち合わせているが、疚しいことがなければ恐るる莫れ。物の怪は人間が作り出す心なのだ。

 昨夜は、危うく緊急事態になるところだったが、枇杷葉のエキスがあって事無きを得た。だからこそわたくしの身を案じて、無事であることへの確認に現れてきたものだろう。新暦ではお正月と言っても、未だ霜月ではあるので、よくよく身体の管理を怠るべからずと諭して。Aさんちの水が飲めなくなって、体調不良になることも増えたが、任すしかないなぁ。

 Aさんちには水龍が居て、備前焼の大鉢に鎮座していたのが、どうにも棲み難くなったからと去って行った。そのことを話していたので、水が出なくなった理由も納得しているものの、これ程影響があるとは驚きでもあるのだ。火曜日までは弁当を作らなくても良いので、明日からがのんびりとできる予定なの。庭を見廻っても寒さで早急に室内に避難してます。

 クリスマスローズが咲いてきているのと、これからなのと彩映えするのが待ち遠しい。我が家に合ったのか、種が零れて発芽するし発育もしている。枇杷葉苗を移植してやらねば、日陰でちっとも大きくならない。プランターに移植して置いてから、地植えにしようと計画中なのだ。近日中に暖かければ実行するかな。今年は手足が霜焼・凍傷に塩で揉んでる。

 すばるとふたりでの和やかな日が、静かに過ぎていく幸せに感謝するばかりだ。他所様へのブログ訪問も出来てうれしいばかり。写真や文章には正直にボタンを押すが、好みも全く違うのであるからそこはご容赦願いたいものです。誰かの心を捉えるという窮極の選択は、やはり訪問する者にも縁ろう。感動させるのではなく、魅了するのには何かが存在するのだ。

 
コメント
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