昨夜は、夕方から雨は降らないけれども、県北で稲光がしていた。
田舎ではお盆の三日間は、せめてもの休息と農作業は休む。いわゆる土用干しで、田に水を入れないでおく。
家では、親戚やら身内やらの来訪に、大忙しである。井戸水で冷やした西瓜、瓜、野菜類に、素麺から、ご飯の湯気で母はてんてこ舞いであった。じっとするなどとんでもない、息つく間も惜しんで立ち働いていた。
今朝、やっと自分の気持ちが固まった。どんな形にせよ、両親を看取ろう。多々の思いやさまざまなこともいまとなっては、還らないのだから。二人の望むままに看てあげよう。
そう決心したとたん、体中にオーラがたちこめてきた。
鉢植えの白枇杷も、健気に新芽を伸ばしている。視ると、ひと回り大きくなってきている。生命の不思議さをしみじみと感じ、今後の自分の生き方を視たようにも思う。
人間関係に嫌気が差して、家の中に籠もっていたとき、何も言葉として言ってはこなかったけれど、やさしい眼差しを向けてくれていたのではなかったか?
枇杷の木に成った実は粒こそ小さかったけれど、甘く果汁いっぱいで、とてもおいしかった。それを、両親に3回に分けて食べさせたら、よほどうれしかったのか、食べながら泣いていた。
デパートで買った高価な枇杷でもなく、手塩にかけてできた枇杷には、親のよろこぶ顔が見たい思いだけがあった。
白枇杷はネットでしか手に入らないので、(単に出不精のため)注文して食べさせた。
その種を植えておいたのだ。猫の額の庭だが、李や杏などの木も植えてある。
さて、さて。成ってくれるだろうか?
枇杷はびわっと(じわっと)効いてくるのよ。そうかもね。誰しも、自分の老後を想定はしていると思うが、それには必ずアクシデントがついてくる。
わかっていれば、ならないし、自分で対処できるのだ。出来なくなった者を、目の前にして、手を差し伸べられるのは、子である自分であるのだ。
してくれたから返す、してくれなかったからしないならそれもいい。たった数日の事が、とてつもなく先のない、時間に感じられた。と同時に、この感触を二人はいつもしているのだ。
心細さと不安と疑惑と、辛さできっと心が潰れていたのだろうね。
蝉の声がしている。鳴いている声には、少しずつうつろいで往く季節を感じた。