孫の姉の方が、妹のしていることにちょっかいを出す。それで妹が頷けばいいのだが、不平を言う。すると姉は、屁理屈を並べて、何があっても譲らない。そこで小競り合いが起きるのだ。妹は、できないことをどうしたらいいかわからない。姉は、わかっているのである。
こちらから見れば、たわいのないことだが、本人らにとっては、縄張り争いへ発展しかねない。しかし言っていることは、大人の縮小版だから、メディアの影響の大きさに仰天する。暫し仲裁も忘れて聴いてしまう。感心すること仕切りだ。半分苦笑いになってしまう。
父の納骨が今週にあるのだが、何やら不遜な空気の動きが感じられる。厭な雲行きだ。三途の川を渡ったものの、行先が定まらないのだろうか。母とは遭っているようなのだが、落ち着き先が決まらないのだろうか。父の生きてきた人生を邂逅する時、胸が痛んでしまう。
父に、充分なことはできなかったかもしれないが、傍に居てくれたら、せめて怒鳴り上げたりはしなかったのに。贅沢はさせてあげられなかったけれど、心をこめてあげられたのに。その申し出を聞き入れなかった兄を、妹を、呆れ果てての思いでしかない。
毎朝、テーブルに置いている湯飲みに、お茶を供える。母にしていたのが、父も加わった。銀河にもやっている。お位牌も、お膳もないけれど、心で感じることはできる。毎朝に手を合わせてあげられる幸せを思うよ。
何かを戴く時に、父や母に食べさせたく、湯気の立っている内は置いておく。果物が好きだった母には、最初に供えてからいただく。匂いや香りを感じてもらう。時々、指先が見えることがある。お墓にも持って行く。今日あるは、母や祖母のお蔭。ご先祖のお蔭です。
今年の、鈴生りの枇杷葉の実。母の処にも持って行った。とてもうれしそうにしていた。
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