枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

恵みの雨に・・・

2012年01月19日 | Weblog

 朝、べそをかいて拗ねているようだった空が、とうとう忍び泣きに変わった。どんなに宥めても泣き止まない。まあ、泣きたい時もあるさ。心ゆくまで泣いていたら好い。明日の昼頃までは、泣き止まないかな。しくしく36時間。小さな声だから、大きな被害はないでしょう。

 自然の恵みに感謝する。カラカラ天気だったから、クリスマスローズの水遣りには注意していたが、寒風に水分が蒸発してしまうのだ。先日には糠も入れた。寒中の虫を追い出せるよう、ダイジストンも撒いた。昨年の、ツマグロヒョウモンガ若年幼虫の発生に仰天したため。

 この時期には、カイガラムシの駆除とある。月桂樹の木にいることが多い。夜盗虫や芋虫もいる。あまり濃度が高いと、蛙が危ない。ミミズも螳螂も、危険に晒される。今日の雨で薄まったかな?と、思ったりもする。

 鼻の皮が剥けた。なぜかって?洟をかむからだ。つまりは、テェッシュに負けてしまう。何度も洟をかみ、そこだけがアレルギー反応を起こす。悲惨な結果が待っている。洟紙の質にもよるのだろうか?いやいや鼻がデリケートなのだ。

 久々にリエさんに電話する。運よく本人が受話器を取った。体調崩しているとのことだったが無事で何よりです。PCの調子が悪く、メールに時間がかかることとか、また遭いたいね。と、いうようなことを話す。鬼の集まりしないのかな。

 白鳥は、空のあお海のあおにも、そまづ漂う。庭で、枇杷葉をじっと見ていたら、澄んだ宇宙に溶け込みそうだった。青い宇宙に染まりそうだった。

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お手紙ついた。

2012年01月18日 | Weblog

 上司の子どもさんは、本が大好きという。何かに付け、読んでもらいたい本があればお渡ししている。前回は電話をもらい、今回は手紙をもらった。色紙に私の似顔絵が描いてある。そっくりです。頭の上に髪を、おだんごのように乗せている格好も、とてもよく見ている。

 本が好きな児を見かけると、つい興味が湧く。そういったアドバイスは、サンタさんからもらったり、私の独断と偏見で選んだりする。断っておくが、上司は決して、子どもに本が買えない人ではない。あくまでも私の勝手であるのだ。

 図書館があるから、自分で借りに行ければいい。本を読むときめきを知ってほしい。本の楽しさを見つけて欲しいからでもある。私が子どもの頃には、満足に読める本などなかった。祖母がしてくれる寝物語が、唯一の楽しみだった。

 小学校には、学級文庫があったが、雑誌の類が数冊。小学館の学習雑誌は、兄にしか買ってもらえなかった。小学校の高学年になって、着任した村医者が寄贈して、やっと図書室ができた有様。中学生になり、『中学コース』を買ってもらえるようになった。

 アシモフの『子守ロボット・ロビー』は衝撃的な出会いだった。初恋は、エイトマン。幸子さんが羨ましくてならなかった。友達よりも、勉強よりも、本が読めればよかった。授業をサボっては図書室に行った。そのせいか、放課後しか図書室に入れなくなった。

 本。書籍。そういった類の物は、いつでも好きな時に、何処ででも広げることができる。況してや繰り返して読める。テレビでは感じられない、じっくり考えることができる。一つのことを、大勢でも一人でも楽しむ事もできる。

 りささんの枇杷葉。葉の緑が美しい。とても綺麗な濃い緑の、硬い葉をつけている。寒中の枇杷葉を、焼酎に漬けました。

 

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梅の蕾が・・・

2012年01月17日 | Weblog

 庭の花木に寒肥を入れながら、ねこ柳と梅の蕾に気づいた。ずいぶんと膨らんできている。未だ咲くほどにはないが、春を待つ準備に余念がない。人間にはあまり真似のできそうもない所業である。自然の掟には、適うべくものはない。

 原発が停止しても、電力が不足することはない。庶民は皆、節電に努め、本より無駄使いはしない。お金があり、権力を嵩に着る者とは、基本が違う。然し時たま、そういった権力者に上手く取り入り、反対に使われて闇に葬られることもある。

 何事も、上を見れば限がない。かといって下ばかり見ていては、周りが何一つ見えないから危険でもある。或いは、見えていても知らん顔ができたり、云わないでいる方がいい。触らぬ神に祟りなしである。口は災いの元です。

 また今日での、些細な変化を見逃さず、自分を大切にすることで、他人への思いやりを持地、明日への歩みに変えよう。人間は、自然への敬いを忘れ、一人でも生きていけれる、との思い上がりを持ったが故に、神の怒りをかったのだから。

 昨年、ふと鉢の中を見たら、こんなにたくさんの芽が出ていた。へぇ~、何時の間に種が落ちていたんだろう?

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今年の見通し・・・

2012年01月16日 | Weblog

 新しい年も早や半月経った。毎年の繰り返しだが、今のところ、新たに予定もない。寒中の寒肥遣りは済ませた。枇杷葉の焼酎漬けも進行中。ドクダミ掘りは大寒にしよう。季節に添った農事でなければ失敗をする。月の満ち欠けと、満干潮にもよるのだ。

 昨年にした失敗は、できれば避けたいもの。メモ書きを注意しよう。枇杷葉にもドクダミも、他の物にも焼酎は欠かせない。まとめて買うのは梅の時期だ。年間に使用する量を確保しておくのだ。枇杷葉のエキスは、花木に遣る。殺菌力が凄い。

 日常の中で、手荒れや擦り傷、切り傷に打撲症状にもいい。湿布することをお薦めしたい。咽喉のイガイガにも効く。鉈豆、あけびは云うに及ばず。乾燥させるか、焼酎に漬け置くかは状況や症状にもよります。

 水虫には、枇杷葉エキスが威力を発揮します。下手に何度も繰り返すより、瞬時の解決に実行です。枇杷湯は、年中浸かっていれば、肌の乾燥を防ぎ、冬場に肌荒れはしませんし、粉も噴きません。痒くならない。

 枇杷葉茶を飲んでいると、尿集が消えます。体臭も消えていきます。加齢臭とは、らないばです。これですと、病気の初期がよくわかる。排泄物に異様な臭いがするので、健康のバロメーターの役割を果たします。

 体調維持には非常に役立ちますが、外科的な要素には直接無関係です。これも年齢的なことが否めません。外科的な処置と、転倒骨折とは、ちょっと距離があると思えます。地球には、引力あり、物には重力があり、遠心力も加わるのです。

 こういったことで、事故は起きてしまうのです。何等枇杷葉には責任はないように感じます。あるとすれば、体が動き易くなって、年齢や体力を超えた行動をしてしまうことでしょうか。私など腰痛を忘れることが多いです。

 庭の南西にある、地植の枇杷葉苗。花木店だと¥2,980 はするみたい。

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寒さ厳しき折り・・・

2012年01月15日 | Weblog

 朝の出勤時には、指先まで凍りつくようだ。タイムカードを押すのももどかしい。手洗いと枇杷葉茶での嗽をすると更に冷たい。その手で介護となると、気の毒な有様。リエさんからのクリスマスプレゼントでもらった、手袋をしているのだが、体温が低い関係で中々温まらない。

 それでも10時を過ぎると何とか温もってくる。エンジンがかかるのが誠に遅いのだ。勤務時間中は、室内ということもあり寒さは感じない。洗濯を干すのも吹き曝しではないから我慢できる。散歩に行くのはジャンパーを着るが、体が温まってくるので負担ではない。

 帰宅すれば、蒟蒻を温め腰に当てる。足には湯たんぽがある。手には指先の出る手被いをする。それでも寒さが押し寄せてくれば、電気ストーブを点ける。部屋が暖まったら切る。友人の類は冬には呼ばない。きっと寒さに逃げ出すであろう。

 まあ、テレビに出ているような格好で来られた日には、眼も当てられない。炬燵は、銀河が居なくなったのでしない。テレビをじっと観ないから必要がない。パソコンも暖房完備は無駄だ。快適な暮らしの基準が違うのでわからないが、野外でなければいい。

 野外にわざわざ出かけることは少なくなったが、この季節に夜空を見上げるのは圧巻だ。プレアデス・ヒアデス星団、オリオン座、大犬座、子犬座。カシオペアもアンドロメダも、大熊・小熊も輝いている。木星に金星が素晴らしい。

 どんな光を以ってしても、その輝きには及ばない。その億光年の彼方から、届いてくるメッセージは、どんな形になっていくのか。人工の物にはない数多の輝きに見惚れる。つい見過ごしてしまう壮大な宇宙への想いに、在りし日の父母を偲ぶ。

 初冬の空に伸びる枇杷葉。その枝のどれもに、花芽が鈴生りになっている。

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討ち入り・・・

2012年01月14日 | Weblog

 時を遡ること310年前。赤穂浪士46名は吉良邸に討ち入った。月は満月を越えていて、明かりはなく探すは唯一人、吉良上野介。表門と裏門とに別れ、合言葉は『山』『川』。昼行灯と陰口を敲かれながら、主君の汚名を晴らさんとした、大石内蔵助の心情は易かばかりであったか。

 江戸時代。時は元禄。戦のない世の中に、半ば気持ちの緩みが生じる頃。貧困の差は有れども、太平な時代でもあったろう。あだ討ちとは自分のためではなく、忠誠を誓った主君への心にある。直して、死を覚悟しての決行。

 折りしも雪の舞うなかで、浪士たちの思いは、この世との決裂の覚悟。また清々しい万感のものであったろう。だが、残された者にとって、その心中は計り知れない。元禄時代に行くことはできないが、当時への思いになら、物語では往ける。

 忙しいという字は、心を亡くすと書く。介護の仕事をする上で、決して言ってはならない言葉だし、そういった行動をとってはいけない。だが、その思いとは裏腹に、しなければならないことが怒涛のように迫ってくる。

 無論、人命が第一である。次に優先順位。これが意外と難しいのだ。ここでの判断の甘さが、その後の展開を、微妙に食い違わせていくこともある。時間があってなく、ないようで存在するのだ。精神的な苦痛を伴うこともある。

 どんなに父や母のように思っても、決して親子にはなれないし、家族など思い上がりでしかない。見えないものほど掴みようがなく、形のある物にはならないものだ。人間であるが故、確執は否めない。自分を変えられることも限度がある。

 冬の陽射しに咲いていた撫子。淋しげなのに、鮮やかな色である。

 

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当たり前のことが・・・

2012年01月11日 | Weblog

 人間という者は、その殆んどが、自分のことを棚に上げ、他人のことを論う。年長者が言う分には、それなりの思いもあるが、その反対のことが間々ある。高齢者に対しては、しつこいくらいの馬鹿丁寧さで言い、それ以外は冷ややかだ。

 人間の価値は、どのような場合にも同じである筈だが、都合よくなる者への接し方に首を傾げたくなる。子どもならいざ知らず、いい年をした大人であると、呆れ尚驚いてしまう。こういう人種は、誰憚ろう遠慮なしで大手を振っている。

 お金があったり、地位が有るほど、姿勢が低くなるものだが、最近はそういった人は希少価値に値する。まあ、こちらは金品の一切がなく、誉められた人格も持ち合わせていないのが幸い、物事の基本ができていないと、苦言を呈している。

 枇杷葉に寒冷紗をかけた。生葉を採って、焼酎に漬けた。ドクダミを掘るのは、今度の休みにしよう。体に着ているし、蒟蒻も貼っているのだが、長時間の作業には無理がある。嫌々寒いのだ。空っ風が堪えるのよ。

 この連休で、必要な作業はしたが、肝心の寒中見舞いが書けぬ。年賀状をもらったのはいいが、喪中につきだった。何だか次第に書く事が億劫になっていく。かといって、布団に潜っていることもできない。貧乏性である。

 昨年の十三夜。旧暦で撮ったので、月の光が眩しい。冴え冴えとした洸は、体に染み通っていくよう。

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正月休み・・・

2012年01月10日 | Weblog

 年末年始は勤務だった。ちょっとした休みは、4日にあったが、疲れきっていて半日ぼんやりしていた。ここで2連休をもらい、溜まっていた家の用事を片付けた。枇杷葉の花芽欠きと、寒冷紗かけだ。寒かったが、防寒してやった。

 花芽茶も、これで幾らかできた。リエさんが飲むくらいはありそう。外出したいが、体調維持が心配でできない。今週末にずれこみそう。寒肥も入れなければならない。外でごそごそしていたら、野良猫がやってきてまとわりつく。

 にゃあにゃぁ、とうるさい。煮干をやったのに、食べないでいる。牛乳をやったら、飲んでいる。何んだよ、ぜいたくな野良だ。花芽を欠いている間、足に擂り寄っていたが、寒くなったのか、いつの間にか居なくなった。ねぐらは山の裾らしく、、祠の辺りをうろつくのを見かけた。

 この頃、時間の経つのが早く感じる。一日が速い。今年は、寒の入りに雪が降ったりしての荒れ模様である。加えて閏3月なのだ。昨年のことが脳裏から消えやらないが、今年の農事祭事には、先行きも見えない上に、暗雲を感じる。

 仕事も、真面目に取り組もうとすれば、軋轢が生じる。上っ面だけで接することは、ある意味虐待になり得る。資格があるのは当然だが、それ以前の人間的なことが欠けている。そういった基本的なことを、躾という。

 仕付け糸のできていない服を着たり、それを取って着る、ということがわからない。見るに見兼ねて注意しても、言われていることが理解できない。拗ねる、膨れっ面をする。あからさまにふてぶてしい態度をとる。親の顔が見たくなる。

 東側の枇杷葉。剪定したら、次々と新芽が吹き出した。生命力の強さに驚きながら、枇杷葉に援けられていることを感謝する。

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素材を生かす・・・

2012年01月08日 | Weblog

 大根である。役者ではないが、演じなければならない。本日の献立である。どうするかなぁ・・と、思案したが知恵が浮かばない。窮地に立って原点に還る事にした。素材をいかせばいい。大根を同じ大きさに切り、鍋に水を張って、昆布と共に入れた。

 そのまま沸騰するまで強火で煮る。沸騰させて味醂と醤油を入れ、味が満遍なく染み渡ってから鰤を泳がせた。鰤大根である。それから大根がやわらかくなるまで焚いた。味に煩い人が居て、一口食べて頷いてくれた。素材が大根なだけに、役者冥利に尽きる。

 イタリアに移住している友人は、マクロビオティックという、最近やっと耳慣れてきた料理をする人で、素材を生かしたシンプルな味に拘る。エトナ山の麓に、家族で暮す。ブログを読む限りでは、何だか畑に自生する草ばかり食べている。

 新年にメールが届いて、自給自足の生活にびっくりした。それまでの彼女は、都会暮らしに張り詰めていたようにも思える。器用な人ではないので、自分を上手く騙せないのだ。と言っても幸せでないのではない。運気が相殺されてしまう。

 運気は悪くないのに、外に向かって消え、還って来ない。日本でなく外国で暮らすのがいい。そういうとにこっと笑った。イタリアに程なく行かれ、結婚して二児の母親になられた。彼女の体から溢れる底力には、努力をした分だけ還るでしょう。

 苦しみは歓びになれば倍になり、困難であれば、数倍の価値になるでしょう。遠くイタリアの宇宙を想いながら、たくましく生きていかれていることに感謝します。あなたと出会えてよかったです。枇杷葉が取り持つ縁ですが、不思議な縁を感じます。

 満月と、東から南に寄った木星。現在は、天空辺りです

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七草

2012年01月07日 | Weblog

 新暦になってからの七草には、田の畦を探しても、中々見つからない。芹、なずな、すずしろ、はこべくらいはあるかも。ちょっとした日溜りに植えていれば、探さなくても摘める。旧暦になると何処かしらに必ず見つかる。

 子どもの頃の七草は、白粥か、小豆粥であったような・・・。当時は、餅に厭きての質素堅実で、塩味だけの簡単な物であった。今日のような、贅沢さに囲まれての食事ではなかった。常にお腹が空いていて、道端の石ころさえも、饅頭に見えた。

 冬になると手荒れが酷い。皸になる。指の辺りが切れる。洗剤に弱いためだが難儀である。メンソレータムを擦り込む。中々手強くあちこちが痛い。心底春をひたすらに待つ。こういう時にだけ、北国の人の思いがわかる。

 職場の交流会に、万葉の心を読む、とか。日本の伝統を守る会、とかはできないか。スポーツは、運痴の者には厳しい。突き指に始まって、転倒尾てい骨打撲、捻挫、筋肉痛は必至。そこいくと万葉集は、筆記用具で済む。

 現代よりも寒さは厳しかった筈だが、案外、季節の変化を納得して、愉しんでいたようにも思える。小さな花にも命が宿り、自然への畏怖の念が、生きていくことの歓びを、満足させていたようにも思える。

 東南に植えた白枇杷の苗。日当たりが良過ぎ、成長しない。リラの木が育ち過ぎたのもあるが。昨年、剪定したら、葉が出て来て、育ちだした。

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