二十四節気 雨水 冬の氷水が、陽気に溶け、天に昇り、雨水となって降る、の意で、雨水と言う。毎年、二月十九日頃である。分厚いセーターだと汗ばむ。一気に陽気を感じることもあり、梅も綻び満開になっていく。我が家のも、白梅が咲き始めた。
予期していたとは言え、やはりショックは隠せない。末吉暁子さんに次ぐ、佐藤さとるさんの訃報に言葉も無い。毎年、お贈りさせてもらう、枇杷と桃を、殊の外美味しいと、食べてくださり、楽しみにしていたファンとして、心の中にぽっかりと穴が開いた。
鬼通での集まりに、一緒に写真を撮ってもらい、有頂天になってしまった。昨年、著作を贈ってくれ、サインを入れてくれていたのに、枇杷が大好きな箇所があって、お礼の電話には、にこにこと奥さまの傍で微笑んでいらしたそう。お耳が遠いのである。
九日。何も無い筈の場所で、深夜にドスンと大きな音がした。お別れに来てくださった気がする。最近、眠れなくて、草木も眠る丑三つ時にも、起きていたから。不安を掻き立てる波に、打ち消してはいたんだが無念でならない。たくさんの教えに感謝!
新聞での訃報に接し、一日勤務を怠けてしまった。遣っていることは同じなのに、空虚な想いに駆られて、力が入らないのだ。この世に未練はなくなった。愛する者への献身をするべくも、居なくなって淋しい限りだ。心の張りを失ったことは大きい痛手。
それでも、たくさんの想い出は、わたくしの宝物だから、何時でもお遭いすることができる。本を開けば、その時の顔が浮かんでくる。鬼通での集まりでしかないが、穏やかな話し方や、はにかんだ姿を想い出せる。児童文学世界も巨大な星を失ったもの。
哀しみが大き過ぎて、克服していく力が湧かない。若い時なら、生きる支えもあるというものだが、歳を重ねてくるとそうもいかない。歓びよりも、哀しみの方が増えてくるんだ。一日をやっとの状態では、無理をしてしまう。頑張れないし、そうすることに疲。
枇杷葉の花が咲き始めた。薄茶色の苞を破って、純白の花弁を覗かせる。白い五枚の花弁と芳香に。