過日、訪れた堺宿院の「美々卯」。
ご先祖は耳さんという姓だ。創業者薩摩平太郎は堺の料亭「耳卯楼」の四男坊として生まれた。
「伊勢長」「瓢樹」「つるや」などの名店で庖丁修業。その後、堺の「ちく満」で蕎麦を教わり、
大正14年、南区久左衛門町でそば・うどんの店「美々卯」は産声をあげた。
うどんすきを考案したのは昭和3年ごろっていうから、うちの母とほぼおない。
素材は吟味し、穴子などは堺の深清から地物を運ばせた。
一籠1円50銭。今の価格で1万円ほどになったという。
それでも客の人気は増すばかりだったそうだ。
料理や器に見るべきものがあるのは、創業以来。
平太郎は目の肥えた数寄者でもあった。
大阪の実業家たち常連の中には、画家の菅楯彦や吉井勇、谷崎潤一郎などの顔もあった。
妻きくさんの、気取りのない細かい気遣いが大層評判だったという。
本店のある御霊神社裏は、心斎橋が賑わう以前の繁華街。
神社内に人形浄瑠璃があり、船場の旦那衆はここいらで酒食を楽しんだ。
「一宝」の前身・天寅も、かき揚げで有名だった「梅月」もこの界隈にあった。
だが戦災ですっくり焼失。戦後すぐ平太郎は没し、名物女将キクは80歳まで生きた。
冬だってのに、凍結酒なんぞをいただく。
キクは晩年、本店から徒歩圏内にあった隠居所の前に小机出し、
ビニール袋に天かす、穴子の頭を入れて無人で売っていたそうだが、
ボクは母に連れられて見たその光景を、かすかに記憶している。
「半助アリマス」。
鰻や焼き穴子の頭を豆腐や葱などと一緒に炊くと、いいだしが豆腐に沁みる半助豆腐となる。
美々卯の大女将のくせにケチくさい…と思うなかれ。
始末のこころ、最期まで使い切る、無駄を出したくないという気持ちを持ち続けたということだ。
天ぷらもカラリと揚がり、実に結構である。
さて、美々卯の看板、登録商標のうどんすきが登場。
炊き込んでも伸びないように調整されたうどん。
寒い時はこれに限る。
かつて堺の実家で配達をたのんだら、材料を鍋ごと持ち込んでくれた。
今は知らない。
仲居さんが見た目もきれいに、鍋の面倒をみてくれる。
客に任せたら、グチャグチャになったりする。
だしも最後の最後まで飲み干したい。
ひとつだけ自慢させてもらうが、過去に薩摩卯一会長に取材させていただいた際、
すっぽん入りのうどんすきを食べさせていただいた。 すっぽんだぜ、あなた。
これはもう、むちゃくちゃ美味かった(接待用の特別誂えだろうが、要予約で食べられる筈だ)。
精がついてどエライことになりそうだが、なぜか、くしゃみが始まり、洟が止まらなくなり、
アレヨアレヨという間に風邪をひいてしまったという、みっともない体験がある。
食べ慣れないものは身体によくない。