歴史倶楽部の元会長小西様より、父の故郷の歴史「花見川掘割における庄内藩農民の尽力」について興味深いお話をお伺いする機会を頂きました。
その後、ご丁寧に次のようにメールを頂きました。
「庄内藩農民の墓所の位置は下の地図上に◎印をしました。
16号線の下横戸町の交差点から弁天橋・鷹の台GCに向かった狭い道路の三叉路にあります。
庄内藩農民の墓所図 庄内藩農民の墓所(下横戸町共同墓地内) 山形県の方のお墓がなぜ千葉市に?
印旛沼堀割普請を老中水野忠邦の天保改革として行いました。その時の話です。
遊佐郷大服部村(山形県遊佐町)の仁兵衛は 7 月 13 日に国元を出立して同 25 日に現地に到着し、9 月 24 日に病死しています。
57 歳でし た。墓は花見川区横戸町の共同墓地にあり、正面に「荘内大服部村仁兵衛墓」と刻まれて います。
向かって右側面には「下総印幡沼古堀筋御普請御用御手伝人夫の墓なり、天保十 四癸卯七月十三日羽州庄内を出て同九月二」、
続けて左側面に「十四日病死して爰に葬る、 後の人憐みてこれを発くことなかれ 法名観阿道哲信士」と刻まれています。
私がお墓を見たきっかけは、歴史が好きなこともあり佐倉市主催の「印旛沼の治水・花見川掘割」の散策に参加したことです。
また、私の生まれは、山形県鶴岡市(庄内藩・酒井氏)です。
徳川幕府隠居の家斉の庶子である川越藩藩主が財政困窮したことから老中水野忠邦が三藩国替え(川越藩→庄内藩→長岡藩→川越藩)を画策しました。庄内の地で大掛かりな
百姓一揆が計画され廃案となりました。
その跳ね返りが老中水野忠邦が考えた印旛沼堀割での庄内藩の普請となったようです。
そのようなことが、藤沢周平の『義民が駆ける』に表われております。参考になればと思います。」と頂きました。
以上に説明を頂きました後、13日(木)20:10~「ちば見聞録」に時間を合わせましたら、この度お話頂きました「新川、花見川を掘る~印旛沼を掘る~印旛沼堀割普請」についての内容でした。
「荘内大服部村仁兵衛墓」と刻まれた碑なども紹介され、本当に不思議なご縁に存じました。
故郷に流れる花見川の美しい風景を眺めながら「花見川掘割における庄内藩農民の尽力」などの長い歴史の足跡を初めて学ぶことができました。
konishi様、誠にありがとうございました。
次に千葉テレビで放映されました映像をHPに探すことができましたのでご紹介させて頂きます。
「新川、花見川を掘る~印旛沼を掘る~印旛沼堀割普請」の映像ご紹介 https://www.youtube.com/watch?v=6BCWZy53MZ8
又、千葉市小学校の社会科の孫の教科書にわかりやすく掲載されていましたので紹介させて頂きます。
「花見川を開く」は6ページで花見川と印旛沼の開発の歴史がテーマとなっており、次の6つの項目から構成されています。
●花見川サイクリングロードのたんけん・・・むかしは新川と花見川はつながっていなかった。
●昔の花見川のまわりと水がいの様子・・・印旛沼は水害に苦しめられた。
●人々のねがいと染谷源右衛門・・・新田開発と水害を防ぐため印旛沼の水を東京湾へ流そうとした。
●開発工事の様子・・・源右衛門は財産を全部売って大工事をした。
●花見川を開く計画とその後の開発・・・工事は引き継がれ、1843年の工事は84万人参加し、1968年に完成した。
●花見川・印旛沼とこれからのわたしたち・・・水田が増え、飲み水、工業用水としての利用、洪水を防ぐ。自然がいっぱいのいこいの場所。
題字は千代倉 信子先生書 画と文字は漫画家さとう 有作先生 (知人です)
弁天橋からの眺め
詳しくご説明頂きました先生です
庄内藩からは1500人もの人夫が集まった様子図
当時の人夫さんの姿図 働く人夫さんの姿図
弁天橋の下を掘ることが困難だった理由及び弁天橋の下の断面図
花見川と新川がつながりました
素晴らしい公園の歴史を知る人は・・・?
画と文字は漫画家さとう 有作先生
は千葉テレビより撮影させて頂き、断片的に並べただけですので内容はご紹介のアドレスよりご覧いただきたくよろしくお願いいたします。
説明頂きました鏑木行廣先生のお言葉「現在の素晴らしい風景を醸し出す美しい川に歴史の足跡を訪ね、先人の知恵と多くの方のご苦労、犠牲がありました事に思いを馳せて
頂ければ幸い。」と。
最初の提案者の現在の八千代市の染谷源右衛門氏から始まり、2回目の提案もかなわず、3回めにしても遅々と進まず、江戸時代から昭和まで250年という時代を超えて完了
するも、その間にも多くの方の苦労、犠牲がありました事の説明に今、緑に囲まれて美しく流れる川に父を偲び、先人の皆様に改めて感謝の思いを致しました。
yoshikazu様、ご覧いただきましてありがとうございました。