クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

藤岡・甘楽 桜巡り R-3- 3-29

2021-03-30 12:27:41 | 高崎・甘楽・藤岡方面
今日は毎年の恒例になりつつある藤岡・七輿山古墳の
桜見物。
高崎からr-30で南進、鏑川を渡って上落合南を右折すれば
難なく七輿山古墳の駐車場。折からの好天で人出は多い。

七輿を回る前に本日は何時もパスしている北方400mに
ある伊勢塚古墳を見学する。この古墳は6世紀末の
建造と推定される径27mの小型の円墳だが石室の
作り方が模様積と云われる珍しいものなので見学。

七輿駐車場から真北に伸びる農地の一本道を進み
案内板にあった400m地点で周囲を眺めると
樹木の茂った小型の墳丘は直ぐに見つかった。



南側に玄室入口が解放されていて



中に入ると極めて狭くこんな感じ。



石室は暗くて良く分からないが所々にやや大型の
自然石を配し、その周辺に細長い結晶片石を差し
込んでかすり模様にしている。成程、これが
模様積石室かと一人で合点。
後で調べたら石室はドーム型とされていたが
暗い中でそんなのには全く気付かなかった。



早々に退出して再び七輿へ戻り本格桜見物。
途中で見えた浅間山の雪も大分解けてきた。



七輿は今が満開の時と思わせる重厚な花々が
巨大な墳丘を覆っている。
七輿の名前はよく知られているように日本三大
古碑の1つ、多胡碑に「羊」と記されている人物と
同一とされる多胡羊太夫の伝説に基づいている。
奈良時代に多胡郡郡司となった羊太夫は、のちに謀反を
図っているとして朝廷から討伐軍を差し向けられ、居城の
八束城から逃れた羊太夫の一族が落ち合った場所が「
さっき通過した「落合」という地名になり、羊太夫の
妻女ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬った
ので「七輿山」という名前になったという。
多胡碑に記される多胡郡郡司の任命は8世紀初頭の
ことで、古墳築造推定年代の6世紀前半とは合致しないーー
なんて野暮な詮索は伝説を暖かく受け入れる地元
には無用の事だ。

七輿古墳の桜花


大きな墳丘を一回りしてから再び車上に戻ってr-173を
南進しゴルフ練習場近くの農道の隅に車を止めて
白石稲荷山古墳に向かう。
ここは5世紀前半につくられた大型前方後円墳。
頂上に稲荷神社跡の石碑があるから稲荷山古墳と
云われるらしい。桜の木の本数は少ないが枝張りが
凄いので遠望しても堂々の風格を持つ。

白石稲荷古墳桜花


古墳周りが終わって未だ時間も早いので「白石」まで
南下してR-254に乗り換えて一気に西進して小幡。
名物の桜並木を期待したが生憎の事に未だ5-6分咲きで
写真になりそうも無いので素通りで宝積寺。
ここは枝垂れさくらを含めて絶頂の満開。多くの参詣者や
観光客で賑わっていた。

桜満開 宝積寺


一回り楽しんで小幡に戻り道の駅で遅い昼食を食べて
のんびり走行で帰宅。

何時も気になるのだがここは国峰城に君臨した小幡氏の
菩提寺なのに歴代の墓は誠にお粗末。確定されたものは
一基のみと聞くと同じ滅亡組の箕輪の雄・長野氏の扱いと
余りに違うので暗然とする。
武田氏が箕輪城を落城させると小幡氏は武田家臣として西上野衆を
率いる立場となり、小幡の赤備え軍団として三増峠の戦い・
三方ヶ原の戦い・長篠の戦いなどに参戦、武田騎馬隊の主力として
活躍した。しかし武田家滅亡に伴い、小幡信貞は織田信長配下の
森長可に降状する。そして本能寺の変後は後北条氏に属すが、
天正18年(1590年)小田原征伐に伴って国峰城も落城した。
小田原に篭城していた信貞は旧友の真田昌幸を頼り信濃に亡命、
52歳で病死する。
徳川家康関東入部後、その配下の奥平信昌が小幡を領することになり、
上州小幡氏は本領を失うことになった。
そして1615年には小幡には織田氏が入り一時期はこの寺を
織田氏菩提寺にしていたことも有り1767年の山縣大弐事件に
連座して出羽に入封されるまで152年間も治めたから
織田の城下町の意識が定着し民衆は小幡氏の勇猛を忘れ去ったの
かも。或いは西上州は何時も武田に痛めつけられていたから
武田旗下の小幡に好感が持てないのかな。

ご来訪の序に下のバナーをポチッと。
登山・キャンプランキング
2勝1敗2分 (3/31現在)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 華蔵寺公園散策 R-3- 3-27 | トップ | 高崎市内 桜巡り R- 3- 3-31 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

高崎・甘楽・藤岡方面」カテゴリの最新記事