折角の好天には恵まれたが、明日はゴルフコンペだし午前中には所用も
あったので近場の探訪に出かける。行先は旧榛名町の低山「湯殿山」。
近場といっても片道25K。
切っ掛けは「牛伏山岳会」氏の去年のHPで「頂上に標識二枚」とあったから。
一枚は多分かって爺イが取り付けた物、だが人に知られていないあの藪山に
もう一つ付けられているとすれば、見に行きたくなる。それに城址痕跡も
確めるため。
湯殿山、出羽三山の一つにも同じ名があるが、実際に所縁がある。爺イの
悪い癖の昔語りが長くなってしまうが。
南北朝期の初期の頃、此の辺も南朝方・北朝方に分れて戦乱の巷。1349年頃、
北朝方の吾妻行盛は、南朝方・新田一族の里見義時に攻められて討ち死。里見氏は
鎌倉時代の新田義重の息子から興きている事から当然義貞系の南朝。
行盛の嫡子・千王丸は安中の斎藤氏の許に逃げ、後に養子となって「斎藤憲行」。
この憲行が岩櫃城を構築して後の斎藤一族繁栄の元を創ったのであるが、
成人した「斎藤憲行」、1357年頃に上杉憲顕の助力を得て父の仇・里見氏を
討ち、その奉賽のために月山・羽黒山・湯殿山の三権現を勧請したという。
例の「嵩山」における「虎王丸」の悲劇の200年も前の話。
古い記録には「山上洞窟あり、三石祠ありて羽前三山神を祀る」とある。
肝心のこの山は斎藤氏が開いた山岳宗教の道場跡と云われ、斎藤氏が宿敵
里見氏に備えて山伏を置き監視・探索に当らせたらしい。山崎一の古城塁祉では
南北を掘り切り東西に曲輪をつけた簡単なもの、方60Mの小保塁としている。
さて、山の話に戻ろう。
406号で室田四つ角を直進して間も無く旧倉渕の「落合」近くのところに
「湯殿山トンネル」、ここの手前にも出口にも左折道。僅かな距離で合流する
三叉路。この広場に駐車して東南への下り道に入る。
爺イのルートは100㍍下の堀切利用の古い林道だが、今日は「牛伏山岳会」氏の
ルートを使うので三叉路から僅かの二本目の電柱脇から小尾根の笹藪に入る。
恐らく人が通る事も稀のため、酷い藪だし蜘蛛の巣も煩い。が、薄い踏み跡が
あるのでそれを辿ると堀切にぶつかって爺イルートと合さる。
堀切を突っ切って目の前の尾根の藪に再突入。暫くで踏み跡があり、人間一人
通るだけは開いているのでかなり楽になる。右は断崖、樹間から烏川と
406号線が良く見える。ほんの僅かの登りで頂上着。2枚目の標識はこれ。
同タイプは五万石・伯耆・三つ峰・小地蔵で見ているが何れも文字が消え
かかっている。黒塗りの板と文字の塗料が馴染まないのか?若しかすると
白文字が水性?
こんな15㌢角の石柱、刻印はないので古い境界杭の類かな。
もう一つ細い石柱、上面に十字のついた金具がねじ込まれている。これが
標高点かな。
この道の権威「重鎮」さんの記録にも二本の石柱の頂を「湯殿山」としている
からここなんだろう。
僅かな隙間から風景写真を撮る。
地形図には370mとあつて標高点の黒ポッチが付いている。しかし、変な事
に気づいた。我がポケナビ君の標高は361mを指している。ここでは3Dの
データ―が取れているからそんなに誤差は無い筈。それに未だ尾根から
上がったとっつきに居るのだから、地形図の黒ポッチ位置ではない筈。
念の為、位置を確認したら下図の様に地形図の黒ポッチ位置はここから
西南112mだ。確かにその方面に一山見える。
早速、藪の稜線を西南へ。谷越えに見えるが実際は尾根が巻いているので
そのまま進める。途中で前方を見て驚いた。向かっているピークは北半分が
崩落で無くなっている。幾つか埋め込まれている境界杭も中には落下
寸前のものも。
崩落で思い出した。地質学上で有名な事項で「湯殿山巨大地滑り活動歴」。
だが此れは烏川右岸の事でここから1.5k強南の場所、しかも22.000年前の
痕跡だから関係無いか。
やがて半分になったと思われるポイント着。ナビ計測でも370mで
位置も地形図の黒ポッチ標高点の位置。だが、周辺を探しても人工的なものは
何一つ無い。山頂一部の崩落で滅失したのか。何が何だかわからないが
さっきの標高点と思える石柱が本物なら地形図の黒ポッチは位置も標高も
違っている事に成るし、この今は何も無い370m峰が標高点の場所なら
さっきの写真の細い石柱は標高点の印しではないし、湯殿山はこの山頂
崩れの山であり、標識もこっちに付けるべきなのかな?
とは云うものの、三角点も標高点も測量目的であって、山頂標識では
ないから構わないのかな?
まあ、余命も残り少ない事だし余り深くは考えまい。
蛇足・今日の探索で初めて使ったこと。
緯度は平均的子午線を40.008kmとすれば、1度は111km、1分は1.85k
そして1秒は30.9m。
それに対して経度は横切りと云うか輪切りと言うか? 緯度の位置で長さが
違う。赤道では一秒が31m、此れに対して東京近辺の北緯35度付近
なら1秒当りの距離は21m、勿論両極では0m。
生憎、群馬辺の北緯36度の数値は分らないが、東京と大して違いは無い
から21mとしても大差は無い筈。
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あったので近場の探訪に出かける。行先は旧榛名町の低山「湯殿山」。
近場といっても片道25K。
切っ掛けは「牛伏山岳会」氏の去年のHPで「頂上に標識二枚」とあったから。
一枚は多分かって爺イが取り付けた物、だが人に知られていないあの藪山に
もう一つ付けられているとすれば、見に行きたくなる。それに城址痕跡も
確めるため。
湯殿山、出羽三山の一つにも同じ名があるが、実際に所縁がある。爺イの
悪い癖の昔語りが長くなってしまうが。
南北朝期の初期の頃、此の辺も南朝方・北朝方に分れて戦乱の巷。1349年頃、
北朝方の吾妻行盛は、南朝方・新田一族の里見義時に攻められて討ち死。里見氏は
鎌倉時代の新田義重の息子から興きている事から当然義貞系の南朝。
行盛の嫡子・千王丸は安中の斎藤氏の許に逃げ、後に養子となって「斎藤憲行」。
この憲行が岩櫃城を構築して後の斎藤一族繁栄の元を創ったのであるが、
成人した「斎藤憲行」、1357年頃に上杉憲顕の助力を得て父の仇・里見氏を
討ち、その奉賽のために月山・羽黒山・湯殿山の三権現を勧請したという。
例の「嵩山」における「虎王丸」の悲劇の200年も前の話。
古い記録には「山上洞窟あり、三石祠ありて羽前三山神を祀る」とある。
肝心のこの山は斎藤氏が開いた山岳宗教の道場跡と云われ、斎藤氏が宿敵
里見氏に備えて山伏を置き監視・探索に当らせたらしい。山崎一の古城塁祉では
南北を掘り切り東西に曲輪をつけた簡単なもの、方60Mの小保塁としている。
さて、山の話に戻ろう。
406号で室田四つ角を直進して間も無く旧倉渕の「落合」近くのところに
「湯殿山トンネル」、ここの手前にも出口にも左折道。僅かな距離で合流する
三叉路。この広場に駐車して東南への下り道に入る。
爺イのルートは100㍍下の堀切利用の古い林道だが、今日は「牛伏山岳会」氏の
ルートを使うので三叉路から僅かの二本目の電柱脇から小尾根の笹藪に入る。
恐らく人が通る事も稀のため、酷い藪だし蜘蛛の巣も煩い。が、薄い踏み跡が
あるのでそれを辿ると堀切にぶつかって爺イルートと合さる。
堀切を突っ切って目の前の尾根の藪に再突入。暫くで踏み跡があり、人間一人
通るだけは開いているのでかなり楽になる。右は断崖、樹間から烏川と
406号線が良く見える。ほんの僅かの登りで頂上着。2枚目の標識はこれ。
同タイプは五万石・伯耆・三つ峰・小地蔵で見ているが何れも文字が消え
かかっている。黒塗りの板と文字の塗料が馴染まないのか?若しかすると
白文字が水性?
こんな15㌢角の石柱、刻印はないので古い境界杭の類かな。
もう一つ細い石柱、上面に十字のついた金具がねじ込まれている。これが
標高点かな。
この道の権威「重鎮」さんの記録にも二本の石柱の頂を「湯殿山」としている
からここなんだろう。
僅かな隙間から風景写真を撮る。
地形図には370mとあつて標高点の黒ポッチが付いている。しかし、変な事
に気づいた。我がポケナビ君の標高は361mを指している。ここでは3Dの
データ―が取れているからそんなに誤差は無い筈。それに未だ尾根から
上がったとっつきに居るのだから、地形図の黒ポッチ位置ではない筈。
念の為、位置を確認したら下図の様に地形図の黒ポッチ位置はここから
西南112mだ。確かにその方面に一山見える。
早速、藪の稜線を西南へ。谷越えに見えるが実際は尾根が巻いているので
そのまま進める。途中で前方を見て驚いた。向かっているピークは北半分が
崩落で無くなっている。幾つか埋め込まれている境界杭も中には落下
寸前のものも。
崩落で思い出した。地質学上で有名な事項で「湯殿山巨大地滑り活動歴」。
だが此れは烏川右岸の事でここから1.5k強南の場所、しかも22.000年前の
痕跡だから関係無いか。
やがて半分になったと思われるポイント着。ナビ計測でも370mで
位置も地形図の黒ポッチ標高点の位置。だが、周辺を探しても人工的なものは
何一つ無い。山頂一部の崩落で滅失したのか。何が何だかわからないが
さっきの標高点と思える石柱が本物なら地形図の黒ポッチは位置も標高も
違っている事に成るし、この今は何も無い370m峰が標高点の場所なら
さっきの写真の細い石柱は標高点の印しではないし、湯殿山はこの山頂
崩れの山であり、標識もこっちに付けるべきなのかな?
とは云うものの、三角点も標高点も測量目的であって、山頂標識では
ないから構わないのかな?
まあ、余命も残り少ない事だし余り深くは考えまい。
蛇足・今日の探索で初めて使ったこと。
緯度は平均的子午線を40.008kmとすれば、1度は111km、1分は1.85k
そして1秒は30.9m。
それに対して経度は横切りと云うか輪切りと言うか? 緯度の位置で長さが
違う。赤道では一秒が31m、此れに対して東京近辺の北緯35度付近
なら1秒当りの距離は21m、勿論両極では0m。
生憎、群馬辺の北緯36度の数値は分らないが、東京と大して違いは無い
から21mとしても大差は無い筈。
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