クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

小浅間山周遊 H-29-10- 8

2017-10-09 08:32:43 | 倉渕・長野原・草津・嬬恋

漸く小浅間向きの日和に恵まれた。朝から雲一つない快晴。
高崎市街地から倉渕地区を長々と走行して「はまゆう山荘」から
二度上げ峠越えが始まる。起点と思われる場所にこんな道標。
峠まで8.7Km、標高差550mを約70回のカーブで乗り越えるのだ。



ほんの僅かに紅葉の気配を感じさせる樹葉に包まれながら
峠着。何時もの様に停車して浅間方面を眺めたら意外にも
中腹から下に雲の帯。これには参った。この雲が取れない限り
小浅間から浅間の全景を眺めることは不可能。



何故なら両山の位置関係はかって航空自衛隊が発表した
写真で分かるように(赤矢印)1655mの小浅間からは
2568mの浅間の中腹に雲があったら部分的にしか見えない。



峠から下った所は「長野原町北軽井沢」。長野の軽井沢町と
紛らわしいがこの地は元々は長野原町大字地蔵川、それが
北軽井沢となつたのは1980年の事。
北軽信号を左折してR-146(長野原・軽井沢線)を南下する。
北軽井沢から一瞬だけ嬬恋地区を走ると左に太平洋クラブ入口
があるところから軽井沢町に入る。やがて前方に大きな信号、
西の「鬼押ハイウエイ」と東の「白糸ハイランドウェイ」の交点。



この信号先の「峰の茶屋」駐車場に入り、フロントに行って
駐車料金を支払い、その領収書を車外から見える場所に置いて
出発。時間が遅いのか?退避壕付近の空き地も登山道の中までも
駐車車両がびっしりなのでここに停める他に方法はない。



登山道に入る前に今まで見逃していた一等水準点探し。この
点名「10823」の水準点は標高1405.93mで東大地震研究所の
敷地内にある筈。敷地の外側から目視で探索すると、それらしき
ものは直ぐ目についた。一寸敷地中に入ってタッチしたが
頑丈な容器に入っていて蓋は開けられず中は見られない。



余計な寄り道を済ませてから登山道に入る。ほぼ直線で軽い登り。



所々に既に紅葉していて青空に映えて気分爽快。



変化が少ないダラダラ登りに飽きが来る頃、ショートカット道の
手前で目印の四本白樺が健在。



直ぐ先に右手に入る細道、近道との紹介だが途中にザラ場の
急登があるということなので爺イのこなせるルートではない。



何とか右急旋回の警報器前を通過。既に三組のグループに
追い抜かれ。



右に曲がったら直ぐに目の前の台地に移る。



其処には初めて小浅間への道標。正面の山は小浅間の西峰。



傍の岩にも山頂への矢印。



左を見ると二本のルートがある。左の道が浅間への登山道と
思われる。かって警戒レベルがもっと厳しかった頃、ここで
出会った御仁がスタスタとこの道へ進まれたので呆気に
とられて見送ったことがある。



ザラ場でズルズルと滑る西峰の南斜面を右へトラバース気味に
登っていく。



漸く西峰の東南に回り込んだ。



東峰の南斜面が見えてきた。成程、登山道が延々と迂回して
作られている理由が良く理解できる。



振り返ると肝心の浅間の上半分が見えなく残念。



再び道標。山頂を示すものが一本だけ。どうやら、かっての
西峰・東峰の区別表示をやめて二山ひっくるめて小浅間山、
そして高度のあるかっての東峰が唯一の山頂ーーと云う
ことらしい。これでは西峰は抹殺?されて行く人も居なくなる。



かってこの場所にあった道標。



表示の無い西峰への道は左に伸びている。



東峰への比高は大したこともなく等高線で三本程度。
但し軽石の堆積したズルズルの道は歩き難いと同時に
浅間山塊に来ているという実感が十分。



何組かの家族連れが集まっている山頂に到着すると
心配した通り肝心の浅間の上部は雲に隠れてツイていない。
そんな中で本日の爺イ。



本当はこんな景観を眺めたかったのだ。



それでも周囲の景観は十分に堪能できる。



一寸下の図根点に挨拶してから最高点にある三角点に向かう。



北に進むとここにもさっきと同じ開けた場所。



目印の大きな台石の所で再び一枚。



直ぐ左の叢に半分埋もれた三角点。三等で点名は「小浅間」
1655.21m。



ストックで掻き出してもこの程度。



昼食・休憩後、こんなアングルを見ながら西峰へ。



西峰への急登は距離は短いが極め付きの難路、兎に角
脚力の無い爺イは踏ん張りが弱く、ずり落ちて中々前に
進めない。



あと一息の所で呼吸を整え、左が底なしの坂なので転ばないように
注意して一気登り。



登り着いたら軽石礫以外何もない傾斜のある台地。ケルンの
残骸が空しく残る。



かつてはケルンが三基あって唯一山頂らしい雰囲気が
あったのに。



それでも東峰では見られない北西の山々が楽しい。



苦労しながら西峰から下山。改めて東峰の南麓の凄さを実感。



再び西峰の南縁を回って進む。未だ今から登ってくる
家族連れが続く。



ブラブラ歩きで駐車場所、ほぼ満車だが駐車料金請求の
張り紙をされているのは一台のみ。



未だ、時間も早いので帰路沿いにある「桜岩地蔵尊」による。
ここは有名な嬬恋の「鎌原地蔵尊」とは別物なのだが
天明の浅間大噴火に関係することに於いては同列。
場所は北軽井沢信号から1㌔程度の所。
入口にこんな表示。説明看板も懇切丁寧。



説明版の要約
「かつての浅間山麓は無人であり、その高原を往来する旅人の
平安鎮護のために地蔵尊が上野、信濃の国の国境(群馬県・
長野県境付近)に作られた。しかし、天明3年の浅間山の
大噴火により、地蔵尊が流され、行方がわからなくなっていたが
後に地蔵川原で発見され、桜岩の地に移され桜岩地蔵尊と命名。
その地蔵尊堂と内部の様子。



この区画には多数の観音像が並んでいる。



これが六里ケ原の道しるべ観音で説明をそのまま要約すると
 「浅間山噴火(1783年)の後、六里ヶ原は草木も生えず、
冬は一面の銀世界。寒風が吹きすさび、道に迷った旅人が
凍死してしまうことも珍しくなかった。
旅人の窮状を見かねた分去茶屋の助四郎という人の勧化により
文化5年(1808)に作られたもので、道しるべのためにl00体の
地蔵が寄進された。沓掛、狩宿、大笹の3方向へ各33体
の地蔵を1丁(約110メートル)ごとに並べ、その中心に
基点観音を置いた。しかし、100体あった道しるべ観音も、
長い年月の間にかなりの数が姿を消し現在は、桜岩地蔵堂の
参道の両側に集められたものが残るのみーーー」
これがその基点観音で列の先頭に置かれている。



観音像配列の様子。



全て終了で再び二度上げ峠越えして今日も無事に帰宅。

余談だが「二度上げ」の名前の由来はハッキリしないが、余りの急峻に荷を二度に分けて
運んだとか、倉淵側から来ると途中に峠と見違える箇所があり、二度も峠を
登る錯覚が生まれるとかーーだか良くは知らない。
だが、ネットでは間違った記述もある。其の代表が「ここは昔、草軽電鉄が
通っており急坂を越えるのに二度もスイッチングしたのでーーー」という
もので笑い話にもならない。
草軽電鉄は戦前から戦後に掛けての軽井沢を巡る東急・五島慶太と西武・
堤康次郎との熾烈な闘いの産物。軽井沢を制し草津までのバス路線を確保した
西武に対して軽井沢から草津までの軽便鉄道の敷設を以って東急が一矢を
報いたもの。1915年から1962年までの稼動。当然、二度上げ峠などは
通っていないが、始発から9個目の駅に「二度上げ駅」が
あり、三箇所のスイッチング箇所の一つだった。国境平から三原に向かう
途中である。
駅の二度上げと峠の二度上げを混同しているらしい。


もう一つ、蛇足。但し、著名サイトからの借用。北軽井沢とは?
1927年(昭和2年)ごろ、この付近の土地の所有者が避暑地として
最適なこの周辺の土地を、同じく避暑地として知られ隣接する「軽井沢」の
北に位置することから、北軽井沢と便宜的に呼び始めた。それに倣うように
草軽電気鉄道の駅名も、昭和2年に「地蔵川駅」を「北軽井沢駅」へと改称。昭和35年に、
草軽電気鉄道が廃止された後も便宜的な地名として定着して呼称されていた。

長野原町の成立後は、「北軽井沢」という名称が旧北軽井沢駅舎付近を中心に、この
地区のほか鬼押出し園のある嬬恋村東南部等も含めた総称として使われている
ことや、1980年代のバブル期にリゾート地として売り出された背景などもあり、
長野原町の正式な字名となったとのこと。

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六里ヶ原道しるべ観音
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