クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎近辺コスモス巡り H-29-10-11

2017-10-10 21:10:31 | 高崎・甘楽・藤岡方面
一寸、散歩がてらに高崎市内のコスモス名所を一回り。
「鼻高展望花の丘」から保渡田古墳群のある
「かみつけの里」へ。

展望花の丘は市街地の西、観音山丘陵の一角で休耕地を 利用して
「鼻高町をきれいにする会」と「鼻高町地域づくり活動協議会」の
方々が、春には菜の花祭り、秋にはコスモス祭りを開催している。

会場が近づくともう近辺の路傍には満開のコスモスが目立ち
花時期はずしの爺イも偶には当たるものだと嬉しくなる。

膨大な敷地に分散して中規模のコスモス畑が作られているので
大勢の見物の方々も畑の全面に散って散策している。

センターの入口のポールと周りのベコニアは相変わらず。



コスモスの咲き具合。



雰囲気はこのyoutubeで。

鼻高展望花の丘10月


花の丘を散策の後、次の予定地・保渡田に向かう。ここは保渡田古墳群で
有名なところ。
既に色々と解説されているこの地の歴史を資料から要約すると

「三世紀の頃、高度な農業技術を持った大集団が東海地方から海路で
東京湾に上陸、利根川を遡上して高崎周辺の低湿地帯に至り、その
灌漑技術によって現地の弥生人たちが為し得なかった湿地の水田化を
実現した。不毛の地が「毛野」に変貌した瞬間である。彼らの頭領たる
王はその死後、高崎・元島名町の「将軍塚古墳」に葬られたのが四世紀の事。
そして五世紀の後半、榛名山東南麓を開発する豪族が活躍する。
彼らは周到な計画を以って渡来人を多数招聘して先進技術を導入して、
農業・馬生産・手工業を興した。その大王たちはここの井出から保渡田に
至る古墳群に眠っている。その古墳は二子山古墳→
八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で相次いで建設され、この地に有力な
豪族がいたことを現代に伝えた。その名は上毛野氏の同族の「車持氏」。
だがこの地域はその絶頂期の五世紀末に火砕流を伴う第一回の榛名山
大爆発に見舞われる。火砕流は広範囲の森林・耕地・村々を焼き払い、
せき止められた自然ダムが決壊して土石流が山麓を埋め尽くし六世紀
中期には第二回の爆発で大量の軽石が山麓に数mも降り積もる。そして、
高崎に文明を開いたこれら豪族達は古墳を残して忽然と消息を絶つたーー」

駐車場の西側にある墳丘長108m、後円部径74m、高さ10mの「二子山古墳」の
周囲を満開のコスモス畑が囲んでいる。10/15の古墳祭りには最高の条件。



二子山古墳の東北には 墳丘長102m、後円部径56m、高さ現存約6mの
八幡塚古墳が発掘された多種多量の埴輪のレプリカに守られて立つ。



大体の様子は再びyoutubeで。

高崎保渡田古墳群


八幡塚古墳2


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