勝ってばかりではいられない。いつかは負けるのが勝負の世界だが、何としてもバリバリと勝つところを見せて欲しいのが江夏投手。阪神を追い出され南海に新天地を見つけた江夏が散った。その日の風景である。
4月13日、甲子園球場の銀傘に歓声がこだまし今シーズン初めての阪神巨人戦に大観衆が熱狂していた同じ夜、京都・西京極球場のマウンドで阪急相手に苦悩に顔をゆがめる江夏の姿があった。関西地方は雨がいつ降り出してもおかしくない怪しい雲行きだった。外野スタンドに沿ってこんもり繁った樹々が青白いカクテル光線に照らされ輝きを増して、いかにも古都の郊外球場の雰囲気を醸し出していた。そんな雰囲気とは異質の声が響いた。「お~い野村よ、早く江夏を代えてやらんかい。マウンドで泣いとるやないか」パ・リーグの球場は大観衆が詰めかけて声を掻き消すセ・リーグとは違ってスタンドのファンの野次がダイレクトに両軍ベンチに届く。
また場内アナウンスが他球場の試合経過を知らせる。「阪神の投手は古沢から上田卓…」本当なら今頃は俺が大歓声に送られて王さんや張本さんをキリキリ舞いさせていた筈だ・・そんな思いが江夏の脳裏をよぎったかどうかは分からない。だが現実は自分でも理解できないほど江夏の左腕は縮み、往年の快速球は影を潜めていた。阪急とは3月28日、大津でのオープン戦で江夏は対戦していた。その時は3イニング・7安打・2失点。「ビデオで投球を録画されている。それが分かっていたので本来の投球が出来なかった。本番になれば今日とは違う投球内容になる(江夏)」と自信を見せていたのだが。
ペナントレースが始まりこの日が両軍の初顔合わせだった。6連勝し波に乗る阪急相手に野村監督は前日に2時間に及ぶミーティングで対策を練った。「この辺で止めないとこのまま阪急が走ってしまう。頼むぞユタカ」が野村監督がミーティングの最後に発した言葉だった。期待を背負った江夏だったが試合前に外野をランニングする姿はどこか気怠そうだった。捕手役の醍醐コーチが盛んにハッパをかけるが江夏の士気は上がっているようには見えなかった。先発に起用された捕手は野村監督ではなく和田だった。和田は江夏より3年前に阪神入りしていた元同僚である。あれから9年、2人はユニフォームを変えて再びバッテリーを組んだ。
しかし前日のミーティングで強調された福本に出塁を許すなという忠告を江夏は守れなかった。初回いきなり福本を四球で歩かすと大熊には左前打されピンチを招くが、後続をどうにか抑えて失点は逃れた。2回は森本の遊撃内野安打に続きウイリアムスの左中間二塁打や中沢の右前打などで3失点。5回には大熊に四球を許した後に高井に左中間本塁打を浴び、92球で降板した。オープン戦では打者の胸元を突く速球を投げず、変化球中心の探りを入れるような投球内容には賛否があった。「あえて速球を隠して本番に備えているんだ」「かつてのような速球はもう投げられないんだ」など評価はまちまちだった。
阪神時代には" 扱いにくい " " 反逆児 " などのイメージが定着していたが、南海に移籍後は努めて明るく振舞ってナインの和にも積極的に溶け込もうとする姿があった。南海での最初の登板は開幕シリーズの対太平洋3連戦。佐藤投手からバトンタッチして初セーブを記録した。ちょうど近鉄戦に勝ち越した直後の上田監督がこの江夏の起用法を見て「なるほど野村監督は江夏をこういった使い方をするのか」と感心した。初勝利は1万4千人が詰めかけた大阪球場での近鉄戦だった。8回 1/3 を 128球・3安打に抑える好投を見せて一部にあった不安視する声を自らの手で払拭した。
それだけにストップ・ザ・阪急を託されたが期待に応えることは出来なかった。用意周到に準備された筈の阪急戦だったが全てにリズムが狂い、持ち味の速球は遂に見られないまま5回で降板した。試合が6回を迎えた頃、西京極球場の三塁側ダグアウト裏にある薄暗くて窓ひとつない小部屋で江夏は記者からの取材を受けた。重苦しい雰囲気の中で江夏は「嫌な事は聞かないでくれよ」と自嘲気味に会見を始めた。「今日は南海に来て4試合目で初めて味わった屈辱や」とショートホープを燻らしながら喋り始めた。「福本さんに気を使い過ぎて投球内容が窮屈になってしまった。事前に用意しておいた対策を試す余裕すらなかった」と。
ポツリポツリと試合を振り返る。初めての球審で外角のきわどいコースはストライクにしない癖を見抜くのに時間を要した事。ダメ押しツーランを打たれた球は低目のボールになるフォークボールだったが、予想以上に高井選手の打撃技術が高かった事など極めて冷静に淡々と語った。現状の江夏の速球では阪急打線を抑えるのは難しいだろう。同じ投球フォーム、同じ腕の振りで球速を変えて投じる江夏特有の上手さを所々で垣間見せたが全体を通しては球速の衰えは隠せなかった。一塁走者のマルカーノを刺した牽制球などプレートさばきは流石だったが、芸術的と評される江夏の投球術を見ることは出来なかった。
この野郎!とカッカと熱く燃えてこそ江夏は真価を発揮する。なかなか暖かくならず満開になる前に散ってしまった今年の桜のようになって欲しくない。かつて阪神の監督として江夏を起用した村山実氏はこう話していた。「能ある鷹は爪を隠すと言うけれど江夏は今のうちに速い球をもっと投げ込んでおかないとイザという時に思い通りの速球を投げられなくなる」と。これは村山氏自らの経験から滲み出た忠告と聞こえたが、江夏がこの忠告をどう判断したのかは分からない。江夏の完全復活こそ今季のパ・リーグを熱く面白くする要因であることは間違いない。そんな思いをはせた未だ肌寒い夜風を感じた京都の夜だった。
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