(承前)
道内を代表する彫刻家のひとりだった岡沼淳一さん(十勝管内音更町)が今年6月13日急逝した。
いまだに信じられない。
岡沼さんはその直前まで全道展の審査に出席していたし、大作を搬入もしていたからだ(冒頭画像)。
筆者は5月末か6月初めに手紙をもらい、返信を書こうとしていた矢先だった。
葬儀は身内で執り行った由。
十勝の有志が7月31日、帯広の「インザスイート」でしのぶ会を開くというので、レンタカーを借りて日帰りで往復した。
一人娘の方(後志管内倶知安町の医師)の最後のあいさつに、ほろりときた。
以下、聞き間違いなどもあるかもしれない。ご容赦ください(ご指摘もお願いします)。
岡沼さんは奥様を長い介護生活の末に亡くされてから一人住まいだった。
ただ、筆者も昨年秋おじゃましたが、70代の男やもめ(という言い方は古めかしいが)とは思えないほど、家の中はきちんと片付いていた。そういうきちっとした方なので、玄関に新聞がたまっていると、配達の人や近所の人が「おかしい」と思ったようだ。
娘さんが警察の連絡を受けて倶知安からかけつけ、自宅に入ってみると、ベッドの上に眠るように亡くなっていたという。
しかし、彼女は美術畑の人ではないし、また父親のケータイのパスワードもついに分からず、交友関係が判明するにはいささかの時間を要した。しのぶ会が7月末になったのは、そういう事情もあったようだ。
彼女は
「父親のことは意外と知らないものなのだな」
という感懐を繰り返していた。
ところで、岡沼さんが山登りの経験のあることは聞いていたが、北海道学芸大函館分校では山岳部に属していたと、彼女のあいさつで知った。
そして、同部の登山隊が大雪山系旭岳で11人のパーティーのうち10人死亡という凄絶な遭難事故にあい、当時1年生で函館に残っていた岡沼さんは、やはり生き残った副部長とともに、行方不明になった部員たちの捜索に長いころ取り組んでいたという。
その副部長も、山で命を落としている。助かる道もあったのに、弱った仲間を見捨てることができなかったらしい。
娘さんは、この経験が父の生き方に大きな影響を与えたのではないかという。
病気の妻の介護を独力でずっとやってきたことについて岡沼さんは
「母さんを置いてひとりで下山するわけにはいかないんだよ」
と言ったそうだ(ここで涙腺決壊)。
岡沼さんの作品はいつでも全道展の会場でいちばん大きい部類だった。
だから、彼がつきっきりで奥さんの介護をしていたといっても、にわかには信じられない人もいるだろう。
作品によっては、ごく小さな正方形の板を積み重ねたものもある。それならベッドサイドでもあいた時間を見つけて少しずつ作っていくことができる。
でも、それは、言われなければわからない。作品はスケール感に満ちていたからだ。
奥さんが年に1、2度検査のため入院することがあり、そのタイミングと全道展の審査を合わせていたとのことだ。
柔和な笑顔と物腰からは想像できないが、岡沼淳一さんはあっぱれな芸術家だったのだと思う。
長年連れ添った妻を見送り、道立近代・旭川・函館・帯広の4美術館に作品を納入した初めての作家となり、作品集発刊の準備をほぼ済ませ、誰にも迷惑をかけずにすっと逝ってしまう。その生涯が、すでに芸術であるといっていい。
音更から帯広の美術館に向かう途中、筆者を助手席に乗せて、ステアリングを握りながら
「でも、娘も医学部に進ませたし、こうして彫刻を作って、ぼくはけっこう幸せ者だったのかもしれないなあ」
と笑った岡沼さん。
いや、そうやって総括するのは、まだ早すぎるのです。
「いろんな人の助けがあって、ここまでやってこられた。あんな大きい作品、ひとりじゃ運べないしね」
寂しいなあ。
なお、岡沼さんの芸術については、下のリンク先をご覧ください。まだ、書き足りない部分は多々あると思うが。
参考までに『北海道大百科事典』を引用しておく。
関連記事へのリンク
岡沼淳一さんのこと
■ 岡沼淳一工房展 (2018年9月14日~10月8日の9日間、十勝管内音更町)
【告知】「岡沼淳一工房展」(2018年9月14日~10月8日のうち9日間)と「神田日勝と道東の画家たち & 岡沼淳一木彫の世界」(9月15日~12月2日)
■ひがし北海道:美の回廊 (2003、画像なし)
■旧ミマンミニコレクション展(初回)=2003年
■遠藤ミマン・岡沼淳一二人展(2002)
■2002 北の彫刻展(画像なし)
道内を代表する彫刻家のひとりだった岡沼淳一さん(十勝管内音更町)が今年6月13日急逝した。
いまだに信じられない。
岡沼さんはその直前まで全道展の審査に出席していたし、大作を搬入もしていたからだ(冒頭画像)。
筆者は5月末か6月初めに手紙をもらい、返信を書こうとしていた矢先だった。
葬儀は身内で執り行った由。
十勝の有志が7月31日、帯広の「インザスイート」でしのぶ会を開くというので、レンタカーを借りて日帰りで往復した。
一人娘の方(後志管内倶知安町の医師)の最後のあいさつに、ほろりときた。
以下、聞き間違いなどもあるかもしれない。ご容赦ください(ご指摘もお願いします)。
岡沼さんは奥様を長い介護生活の末に亡くされてから一人住まいだった。
ただ、筆者も昨年秋おじゃましたが、70代の男やもめ(という言い方は古めかしいが)とは思えないほど、家の中はきちんと片付いていた。そういうきちっとした方なので、玄関に新聞がたまっていると、配達の人や近所の人が「おかしい」と思ったようだ。
娘さんが警察の連絡を受けて倶知安からかけつけ、自宅に入ってみると、ベッドの上に眠るように亡くなっていたという。
しかし、彼女は美術畑の人ではないし、また父親のケータイのパスワードもついに分からず、交友関係が判明するにはいささかの時間を要した。しのぶ会が7月末になったのは、そういう事情もあったようだ。
彼女は
「父親のことは意外と知らないものなのだな」
という感懐を繰り返していた。
ところで、岡沼さんが山登りの経験のあることは聞いていたが、北海道学芸大函館分校では山岳部に属していたと、彼女のあいさつで知った。
そして、同部の登山隊が大雪山系旭岳で11人のパーティーのうち10人死亡という凄絶な遭難事故にあい、当時1年生で函館に残っていた岡沼さんは、やはり生き残った副部長とともに、行方不明になった部員たちの捜索に長いころ取り組んでいたという。
その副部長も、山で命を落としている。助かる道もあったのに、弱った仲間を見捨てることができなかったらしい。
娘さんは、この経験が父の生き方に大きな影響を与えたのではないかという。
病気の妻の介護を独力でずっとやってきたことについて岡沼さんは
「母さんを置いてひとりで下山するわけにはいかないんだよ」
と言ったそうだ(ここで涙腺決壊)。
岡沼さんの作品はいつでも全道展の会場でいちばん大きい部類だった。
だから、彼がつきっきりで奥さんの介護をしていたといっても、にわかには信じられない人もいるだろう。
作品によっては、ごく小さな正方形の板を積み重ねたものもある。それならベッドサイドでもあいた時間を見つけて少しずつ作っていくことができる。
でも、それは、言われなければわからない。作品はスケール感に満ちていたからだ。
奥さんが年に1、2度検査のため入院することがあり、そのタイミングと全道展の審査を合わせていたとのことだ。
柔和な笑顔と物腰からは想像できないが、岡沼淳一さんはあっぱれな芸術家だったのだと思う。
長年連れ添った妻を見送り、道立近代・旭川・函館・帯広の4美術館に作品を納入した初めての作家となり、作品集発刊の準備をほぼ済ませ、誰にも迷惑をかけずにすっと逝ってしまう。その生涯が、すでに芸術であるといっていい。
音更から帯広の美術館に向かう途中、筆者を助手席に乗せて、ステアリングを握りながら
「でも、娘も医学部に進ませたし、こうして彫刻を作って、ぼくはけっこう幸せ者だったのかもしれないなあ」
と笑った岡沼さん。
いや、そうやって総括するのは、まだ早すぎるのです。
「いろんな人の助けがあって、ここまでやってこられた。あんな大きい作品、ひとりじゃ運べないしね」
寂しいなあ。
なお、岡沼さんの芸術については、下のリンク先をご覧ください。まだ、書き足りない部分は多々あると思うが。
参考までに『北海道大百科事典』を引用しておく。
学芸大函館分校隊、旭岳遭難 1962年(昭和37)年12月、発達した二つ玉低気圧に伴う強風で、大雪山系旭岳登山でビバーク中の北海道学芸大函館分校山岳部11人の雪洞が吹き飛ばされ10人が死亡、1人が重傷という事故。12月30日低気圧の接近を知った一行は、ベースキャンプを安全と思われる旭岳(2290m)東斜面の雪洞に移動、午後8時夕食の準備中、突然「ゴー」という異様な音とともに天井に一条の黒い線が走り、それが見る見るうちに大きな割れ目となり、ついには天井が吹き飛ばされ、一行は吹雪の荒れ狂う暗夜の雪上にほうり出された。31日一行はブリザードをついて旭岳石室に向かったが、空腹と疲労、寒さと視界不良のため5人が隊列を離れて行方不明(遺体で発見)残りも次々と死亡、翌年1月1日野呂リーダー1人が凍傷で棒のように硬くなった両足で勇駒別白雲荘にたどり着いた。(以下略)
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岡沼淳一さんのこと
■ 岡沼淳一工房展 (2018年9月14日~10月8日の9日間、十勝管内音更町)
【告知】「岡沼淳一工房展」(2018年9月14日~10月8日のうち9日間)と「神田日勝と道東の画家たち & 岡沼淳一木彫の世界」(9月15日~12月2日)
■ひがし北海道:美の回廊 (2003、画像なし)
■旧ミマンミニコレクション展(初回)=2003年
■遠藤ミマン・岡沼淳一二人展(2002)
■2002 北の彫刻展(画像なし)
(この項続く)