(承前)
小川原脩(1911~2002)は、戦後の北海道を代表する洋画家のひとり。
後志管内倶知安町生まれ。東京美術学校(戦後の東京藝大)を卒業し、美術文化協会に属して、シュルレアリスムの新進画家として注目された。しかし戦争画を描いたことなどが同協会内で批判され、帰郷。全道展の創立会員として同展には毎年出品し、札幌でも個展を継続するが、中央の画壇とは距離を置いた。
彼の戦争協力については、宇佐美承の名著「池袋モンパルナス」(集英社文庫)が参考になる。
彼の戦時のスケッチが公開されたのは実は2度目で、2008年8月に1週間だけ、同じ美術館で十数点が展示されたのを、筆者は見に行っている。
当時、感想を何も書かなかったのは、正直かなり落胆したからだ。
小川原の戦争画として知られる「成都爆撃」などにはリアルに軍用機が描かれているのだが、そのときに公開されたスケッチはいずれも走り書きのようなものばかり。軍人や飛行機をきちっと描いたものはほとんどなかったように記憶している。
ところが、今回の展示は会期も長く、北海道新聞の後志版では5回にわたる紹介記事も掲載されていて、どうやら15年前とはだいぶ様子が異なるようだ。
会期最終日に早く目が覚めたので、思い切って行くことにした。
作品は29点。
「戦闘機」のみがコンテで、ほかは水彩か鉛筆。
みな、しっかりとした線で、兵士や風景、兵器などをとらえている。
逆に言えば、15年前の展示はいったいなんだったろうと思ってしまう。
作品は次の通り。
複葉機
座学
通信兵
砲兵
戦闘機 ※同第2展
歩兵 ※同題4点
(長沙郊外か)
長沙 白沙泉
長沙嗎頭より岳麓山を望む
(湘江畔のトーチカ)
(街頭のトーチカ)
泉渓市
トーチカ
(トーチカ 剛国軍)
衝陽西站
トーチカ群と木柵
塹壕
戦闘司令部より衝陽を望む
B24 20機の爆撃を受く
通信兵 ※同題2点
飛行兵 ※同題2点
兵士
寺田大尉
小川原は1940年、旭川の第七師団での教練招集をへて、41年7月~42年4月に満洲に渡っている。
また、44年6~11月には陸軍に招かれて、中支に従軍している。
スケッチはそれらのときに描かれたもののようで、現在159点が確認されているとのこと。
「戦闘機」は、旧ソ連の機体の写真を模写したものらしい。
全体の半数ほどが中国大陸の風景画で、従軍画家とはいっても、最前線での戦闘よりも、農村などを見る機会が多かったであろうことは想像に難くない。ただ、トーチカや塹壕の絵が散見されるのは、やはり戦争中らしい。
絵はがきなどの資料も展示してあった。
美術文化協会展の出品作は、第1回展が
雪
ナルシス
花
ただ「ナルシス」は時局に合わないとのことで、実際には不出品だった。
第2回展が
人
大北海道
飛行機
(満洲スケッチ)
「大北海道」は道立近代美術館所蔵の、小川原脩の代表作である。
第3回展は
秋
雪融け
転進
北海道に於ける馬鈴薯の供出
4点のうち1点が戦争もの、1点が銃後の記録ということになる。
美術文化協会は、1939年(昭和14年)旗揚げ、40年に第1回開催という、タイミングの悪い出発だったのだ。
絵はがきはほかにもあった。
バタン上空に於ける小川部隊の記録 ※国民総力決戦美術展 1943
陸軍アツッ島陣地猛襲(アッツ島爆撃) ※44年第2回陸軍美術展
農民連 ※第3回個展
大陸戦線 ※第3回個展
つはもの ※第2回新日本美術協会展
成都爆撃 ※1944年第3回陸軍美術展/戦争記録画展
「バタン上空に於ける小川部隊の記録」は、戦闘機群を横から見た構図で、なぜかカラーとモノクロの双方があった。
第3回個展と、第2回新日本美術協会展というのは、いつの開催かわからないようだ。
一般的に日本での画家の個展は1942年以降は激減していると思われる。
「新人画会」なんて、43年と44年に戦争と直接関係のない絵画展を開いたことがすごいといわれているのだから。
44、45年には団体公募展が事実上の解散状態に追い込まれ、一般的な画廊での展覧会もほとんどなくなっていたのに、陸軍などが主催する戦意高揚の展覧会はそれなりの頻度で開かれていたことが、あらためてわかる。
発表する機会がそういうものに限られ、しかも絵の具などが配給とあっては、戦争画を描いたり従軍画家になって大陸に渡ったりした美術家が多かったこともうなずける。
小川原のもとには1942年、倶知安中学(旧制)の同級生だった陸軍報道部の山内一郎が訪れ、協力してくれれば画材を融通すると持ちかけたらしい。
小川原脩は晩年、自らの戦争責任を隠さなかった。
彼の戦時のスケッチが処分されずにこの美術館に残ってあるのも、意思のあらわれだろう。
だからこそ、美術家の口がふさがれ、戦地へとかり出されるような歴史は、二度と繰り返してはならないと思う。
2023年2月11日(土)~4月16日(日)午前9時~午後5時、火曜休み
小川原脩記念美術館(後志管内倶知安町北6東7)
一般500円(JAF会員は400円)、高校生300円、小中学生100円
過去の関連記事へのリンク
小川原脩さんの訃報 (2002年8月29日の項)
『太平洋戦争名画集』(ノーベル書房) 編集顧問が14人もいるのに編著者の記載がなく、小川原脩の名を間違えまくっている変な画集 (2020)
2009年7月11日、倶知安から帰る
08年8月23-24日(4) 秘技・国富乗りかえの術
小川原脩(1911~2002)は、戦後の北海道を代表する洋画家のひとり。
後志管内倶知安町生まれ。東京美術学校(戦後の東京藝大)を卒業し、美術文化協会に属して、シュルレアリスムの新進画家として注目された。しかし戦争画を描いたことなどが同協会内で批判され、帰郷。全道展の創立会員として同展には毎年出品し、札幌でも個展を継続するが、中央の画壇とは距離を置いた。
彼の戦争協力については、宇佐美承の名著「池袋モンパルナス」(集英社文庫)が参考になる。
彼の戦時のスケッチが公開されたのは実は2度目で、2008年8月に1週間だけ、同じ美術館で十数点が展示されたのを、筆者は見に行っている。
当時、感想を何も書かなかったのは、正直かなり落胆したからだ。
小川原の戦争画として知られる「成都爆撃」などにはリアルに軍用機が描かれているのだが、そのときに公開されたスケッチはいずれも走り書きのようなものばかり。軍人や飛行機をきちっと描いたものはほとんどなかったように記憶している。
ところが、今回の展示は会期も長く、北海道新聞の後志版では5回にわたる紹介記事も掲載されていて、どうやら15年前とはだいぶ様子が異なるようだ。
会期最終日に早く目が覚めたので、思い切って行くことにした。
作品は29点。
「戦闘機」のみがコンテで、ほかは水彩か鉛筆。
みな、しっかりとした線で、兵士や風景、兵器などをとらえている。
逆に言えば、15年前の展示はいったいなんだったろうと思ってしまう。
作品は次の通り。
複葉機
座学
通信兵
砲兵
戦闘機 ※同第2展
歩兵 ※同題4点
(長沙郊外か)
長沙 白沙泉
長沙嗎頭より岳麓山を望む
(湘江畔のトーチカ)
(街頭のトーチカ)
泉渓市
トーチカ
(トーチカ 剛国軍)
衝陽西站
トーチカ群と木柵
塹壕
戦闘司令部より衝陽を望む
B24 20機の爆撃を受く
通信兵 ※同題2点
飛行兵 ※同題2点
兵士
寺田大尉
小川原は1940年、旭川の第七師団での教練招集をへて、41年7月~42年4月に満洲に渡っている。
また、44年6~11月には陸軍に招かれて、中支に従軍している。
スケッチはそれらのときに描かれたもののようで、現在159点が確認されているとのこと。
「戦闘機」は、旧ソ連の機体の写真を模写したものらしい。
全体の半数ほどが中国大陸の風景画で、従軍画家とはいっても、最前線での戦闘よりも、農村などを見る機会が多かったであろうことは想像に難くない。ただ、トーチカや塹壕の絵が散見されるのは、やはり戦争中らしい。
絵はがきなどの資料も展示してあった。
美術文化協会展の出品作は、第1回展が
雪
ナルシス
花
ただ「ナルシス」は時局に合わないとのことで、実際には不出品だった。
第2回展が
人
大北海道
飛行機
(満洲スケッチ)
「大北海道」は道立近代美術館所蔵の、小川原脩の代表作である。
第3回展は
秋
雪融け
転進
北海道に於ける馬鈴薯の供出
4点のうち1点が戦争もの、1点が銃後の記録ということになる。
美術文化協会は、1939年(昭和14年)旗揚げ、40年に第1回開催という、タイミングの悪い出発だったのだ。
絵はがきはほかにもあった。
バタン上空に於ける小川部隊の記録 ※国民総力決戦美術展 1943
陸軍アツッ島陣地猛襲(アッツ島爆撃) ※44年第2回陸軍美術展
農民連 ※第3回個展
大陸戦線 ※第3回個展
つはもの ※第2回新日本美術協会展
成都爆撃 ※1944年第3回陸軍美術展/戦争記録画展
「バタン上空に於ける小川部隊の記録」は、戦闘機群を横から見た構図で、なぜかカラーとモノクロの双方があった。
第3回個展と、第2回新日本美術協会展というのは、いつの開催かわからないようだ。
一般的に日本での画家の個展は1942年以降は激減していると思われる。
「新人画会」なんて、43年と44年に戦争と直接関係のない絵画展を開いたことがすごいといわれているのだから。
44、45年には団体公募展が事実上の解散状態に追い込まれ、一般的な画廊での展覧会もほとんどなくなっていたのに、陸軍などが主催する戦意高揚の展覧会はそれなりの頻度で開かれていたことが、あらためてわかる。
発表する機会がそういうものに限られ、しかも絵の具などが配給とあっては、戦争画を描いたり従軍画家になって大陸に渡ったりした美術家が多かったこともうなずける。
小川原のもとには1942年、倶知安中学(旧制)の同級生だった陸軍報道部の山内一郎が訪れ、協力してくれれば画材を融通すると持ちかけたらしい。
小川原脩は晩年、自らの戦争責任を隠さなかった。
彼の戦時のスケッチが処分されずにこの美術館に残ってあるのも、意思のあらわれだろう。
だからこそ、美術家の口がふさがれ、戦地へとかり出されるような歴史は、二度と繰り返してはならないと思う。
2023年2月11日(土)~4月16日(日)午前9時~午後5時、火曜休み
小川原脩記念美術館(後志管内倶知安町北6東7)
一般500円(JAF会員は400円)、高校生300円、小中学生100円
過去の関連記事へのリンク
小川原脩さんの訃報 (2002年8月29日の項)
『太平洋戦争名画集』(ノーベル書房) 編集顧問が14人もいるのに編著者の記載がなく、小川原脩の名を間違えまくっている変な画集 (2020)
2009年7月11日、倶知安から帰る
08年8月23-24日(4) 秘技・国富乗りかえの術
(この項続く)