もうちょっと本質的な話をすると、ファインアートがこれまでみたいに
「武士は食わねど高楊枝」
を偽装しとくことが、ほんとうにいいんだろうかってことになってくる。
偽装は言いすぎか。でも「食っていかなくちゃいけない」ことに関しては、作るものがなんであれ、人間が生きていくことからは切り離せないはずだ。でも、その部分には目をつぶってきたんじゃないの? っていう気はする。
もちろん、20世紀のファインアートが「芸術のための芸術」をかかげたことは、すごく意味があった。ひとつは、他の芸術によりかかるのではなくて、美術として自立したってこと。
もうひとつは、これはもうはやんない議論かもしれないけど、商業主義から表現をまもること。うらがえして言えば、「売れないからこの作品はダメ」なんて理屈がまかりとおっちゃえば、表現上の進歩(というか変化)なんてありえないわけで。でも、まあ、加藤登紀子がテレビの歌番組に出たというだけで糾弾された時代は遠く過ぎ去ってしまい、商業主義だからダメという論理もほとんどきかれなくなってるけどね。
ただ、そういう、常に表現上の変化を求める姿勢が、アートと、ふつうの人の生活感覚の乖離(かいり。かけはなれること)を生んでしまったことは否定できない。
医療や福祉の現場だけじゃなくてアートの世界でも「Quality of life(生活の質)」が取りざたされる時代。現代美術は、またわたしたちの生活の局面みたいなところに戻ってきているような感覚はあるし、ワークショップとかを通じてふつうの人との回路をつくりだす作業は大都市を中心に活発化しているのはたしかなんだけど。でも、「色や形態に純化していくことが見る人の日常生活とどう関係あるんだ」という視点を失ったままで行っちゃえば、アートの未来は明るくないんじゃないかな。
じゃあ作品の水準を下げろとか、大衆に媚びれとか、クライアントの言うなりになれ-って言ってるわけでは、もちろんない。ただ、文学や映画、演劇などでは当然存在する「人の『生』との接点」を、なくさないでほしい、っていうことだ。
CDが普及してもライブコンサートが衰えないように、ネットが行き渡っても一点モノの美術品の価値はなくならないかもしれない。しかし、ネットが表現者の主戦場となっていく可能性も否定できない。そのときに、現在のファインアートのメディアである公募展とかギャラリーとかはどうなっていくのか。ファインアートも、数あるコンテンツの一つに組み込まれ、従来の商業美術との境界線を低くしていくのだろうか。
未来は誰にもわからない。ファインアートの生命線である「複製不可能性」への対応がどうなっていくかが、予想できないからだ。
ただ、現在が、写真の印刷製版が可能になった20世紀初頭に匹敵する(あるいは、それをしのぐ)視覚表現にとっての過渡期であることは、間違いないだろう。
「武士は食わねど高楊枝」
を偽装しとくことが、ほんとうにいいんだろうかってことになってくる。
偽装は言いすぎか。でも「食っていかなくちゃいけない」ことに関しては、作るものがなんであれ、人間が生きていくことからは切り離せないはずだ。でも、その部分には目をつぶってきたんじゃないの? っていう気はする。
もちろん、20世紀のファインアートが「芸術のための芸術」をかかげたことは、すごく意味があった。ひとつは、他の芸術によりかかるのではなくて、美術として自立したってこと。
もうひとつは、これはもうはやんない議論かもしれないけど、商業主義から表現をまもること。うらがえして言えば、「売れないからこの作品はダメ」なんて理屈がまかりとおっちゃえば、表現上の進歩(というか変化)なんてありえないわけで。でも、まあ、加藤登紀子がテレビの歌番組に出たというだけで糾弾された時代は遠く過ぎ去ってしまい、商業主義だからダメという論理もほとんどきかれなくなってるけどね。
ただ、そういう、常に表現上の変化を求める姿勢が、アートと、ふつうの人の生活感覚の乖離(かいり。かけはなれること)を生んでしまったことは否定できない。
医療や福祉の現場だけじゃなくてアートの世界でも「Quality of life(生活の質)」が取りざたされる時代。現代美術は、またわたしたちの生活の局面みたいなところに戻ってきているような感覚はあるし、ワークショップとかを通じてふつうの人との回路をつくりだす作業は大都市を中心に活発化しているのはたしかなんだけど。でも、「色や形態に純化していくことが見る人の日常生活とどう関係あるんだ」という視点を失ったままで行っちゃえば、アートの未来は明るくないんじゃないかな。
じゃあ作品の水準を下げろとか、大衆に媚びれとか、クライアントの言うなりになれ-って言ってるわけでは、もちろんない。ただ、文学や映画、演劇などでは当然存在する「人の『生』との接点」を、なくさないでほしい、っていうことだ。
CDが普及してもライブコンサートが衰えないように、ネットが行き渡っても一点モノの美術品の価値はなくならないかもしれない。しかし、ネットが表現者の主戦場となっていく可能性も否定できない。そのときに、現在のファインアートのメディアである公募展とかギャラリーとかはどうなっていくのか。ファインアートも、数あるコンテンツの一つに組み込まれ、従来の商業美術との境界線を低くしていくのだろうか。
未来は誰にもわからない。ファインアートの生命線である「複製不可能性」への対応がどうなっていくかが、予想できないからだ。
ただ、現在が、写真の印刷製版が可能になった20世紀初頭に匹敵する(あるいは、それをしのぐ)視覚表現にとっての過渡期であることは、間違いないだろう。
広告表現が、クライアントの意向のみならず、消費者の意識を、当然にも入れているがゆえに、開かれた感性を提出していると、思うときもあります。現代にピントがあっているというような・・・。そして、仕事への対価もあります。
しかし、実際の制作の場面で、だいだいこの辺ではないかという落とし所が、的確で鋭いときと、凡庸な表出になってしまう場合があります。そして、どちらであっても、報酬が同じ時もあるような気がします。
さらに、非常に優れた表現が、クライアントの要望によって、繰り返し、若干カタチをかえて、制作者を変えて、媒体に乗ってしまうことです。これは、作り手の意欲を減退させる小さくない条件だと思います。
にも関わらず、作者を通した世界表現に、近づきうる領域を今も持っているような気がします。ただし、とても、おいしい領域なので、既得権を持った人々が、簡単に後進に道を譲らないようにも見えます。
今日、コンチネンタルギャラリーから案内がきて、来月、2月1日アートディレクターの葛西薫さんと、プロデューサーの安東孝一さんの講演会があるようです。聞いてみたいと思っています。
これまでファインアートは「複製不可能性」の上にアグラをかいてきた部分もあるんじゃないかという気がします。
「クリエイター」というくくりで、いろんなことをしている人たちを見ると、いまのファインアートをやっている人は、「ワン・オブ・ゼム」でしかないのでは-という素朴な疑問が、エントリーの発端になっています。
ネットが普及すれば、「複製不可能性」はさほど重要でなくなるかもしれないし・・・。
詩朶容子さん、今後ともよろしくお願いします。