さぬき市地方は、朝方はどんよりと曇った天候だったが、やがてには高気圧に覆われて概ね晴れていた。20日から21日にかけては、高気圧に覆われて晴れるという予報になっている。気温は17度から25度、すっかりと、もう、夏という気温だ。湿度は94%から52%、風は1mから3mの弱風・・・。
さて、こんな日には何をすべぇ~かな・・・と考えていたが、FaceBook友人の立石さんから調査依頼の来ていた遺跡の調査に出かけることにした。最初は「紫雲山の遺跡・・・」ということだったので、「そんな広い山で、落としたマッチ棒を拾うみたいなことできるかいなぁ・・」と、全く、乗り気がしなかったのだけれど、再三の依頼で、ようやくに重い腰を上げた・・・と言う訳だ。
とりあえずは、高松市の北部、西宝町にある「西方寺」を目指して進んだ。近くに「花樹海」という大きなホテルがあるのですぐにわかった。その社員用駐車場に車を置いて・・・、このお寺に入ることにした。
この奥さん、鼻をかんでいる訳ではない。泣いてはるのだ・・。この観音さんは「紫雲観世音菩薩」というて、国鉄の連絡船「紫雲丸」沈没事故で亡くなった方の慰霊塔を兼ねている。そこにお参りして、故人を偲んでいて、遂に涙が止まらなくなってしまったのだ・・・。
この先の海で、修学旅行生らを載せた連絡船「紫雲丸」が霧のために衝突されて沈没し、168人の子供たちを含む犠牲者が出た。昭和30年(1855)5月11日のことであった。
この西方寺から細い山道を登っていくこと30分。看板には15分とあるが、急な坂道でもあって、なかなかには登ってゆけない。
写真を撮影しながら(本当は休み休みしながら・・)ゆったりと登って行く。
すると、右手にこんなものが見えてくる。これが203高地、東鶏冠山にあった露西亜軍のトーチカ(要塞)である。この周りは5mほどの深さの堀で囲まれている。これが「模造・旅順要塞」である。
この地は、明治37年五月、日露戦役に於いて、要塞203高地攻略に出兵した善通寺第十一師団の高松地区出身部隊が、祖国のため、民族のため、全滅させた東鶏冠山北保塁の陣地を英霊のために再現した聖地である。
慰霊塔碑文より
これが築造当時の写真。向こうに見えるのは屋島、手前が西浜港、その向こうが高松港。旅順港を眼下に見下ろす203高地を、ここに夢見たものだろう。この砲台部分が、今ではこうなっている。
この右手、手前、左手が堀になっている。上の写真で、白い手ぬぐいをかぶっている作業員がいるが、そこが弾薬庫。
この穴が見えているところ、レンガの構造物が少し見えるが、これがその「弾薬庫」。この上に、ロシアの大砲が据え付けられていたものらしい。
帰りはわずかに5分でお寺まで戻ってきた。戻ってきたが、さすがに汗まみれになっていて、しばらくはタオルで汗をぬぐうばかりだった。
で、今日のお昼はここになった。高松市国分寺町新居(にい)にある「こだわり麺や国分寺店」というセルフのお店。ここも、元はコンビニの店舗跡かな・・・。そういう雰囲気が残っている。
で、ここだけ限定メニューという「牛肉おろしうどん」小を注文した。これで480円。「お餅にしますか?、レタスにしますか・」と突然に言われても・・・。このおうどんに「お餅」を入れるか、レタスを入れるか・・と聞いているらしい。どちらもいらんような気がしたが、レタスを入れてもらった。ま、変わったメニューの割に普通の味だった・・・。
今日の掲示板はこれ。「晴れた日と雨の日があって 一つの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって私の人生が深くなる」というもの。 調べてみたら、「悲しみの意味」という星野富弘さんの詩集からのお言葉らしい。「 冬があり夏があり 昼と夜があり 晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって 私が私になっていく」というものらしい。周りの物に育てられながら、私たちも自然の花もその一生が深くなっていくものらしい・・・。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。