まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

思い出を 積み上げていく 朝の霜

2015年01月13日 | たまには真剣な研究なども

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は4度から9度、湿度は72%から62%、風は2mから2mの北北西の風が少しばかり。明日の14日は、気圧の谷が接近するため雲が広がり、夜遅くには雨の降る所がある見込みなんだとか。

  

 1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。咸臨丸はポーハタン号の別船として、旧暦1月13日に品川港を出帆、旧暦1月19日に浦賀を出港、旧暦2月26日(太陽暦3月17日)にサンフランシスコに入港した。

 

 船将は勝鱗太郎(正確には勝海舟は「軍艦操練所教授方頭取」、木村摂津守は「軍艦奉行」であったが、中浜万次郎は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通した。)。福沢諭吉やジョン万次郎らも乗船していた。万次郎以外の船員は大半が船酔いで、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉他、アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった。(Wikipediaより)

 

 さて、法然上人に関するレポートは片付いたので、昨年からの宿題の「種田山頭火」のまとめに入った。昨年の2月から白内障が進み、10月には完全に失明したので作業を中止していたもの。

 

 おへんろつかさの会で、さぬき市内の歴史や文化などを調べている内に、さぬき市内には数多くの山頭火の句碑があることに気がついた。そこで、それらを調べてまとめて本にしたいと考えたのだ。

 

 このように、ワードで文章を作り、画像や地図を貼り込んでゆく。

 

 で、こういうものができあがって、その校正作業途中で眼が見えなくなったのでお休みをしていたもの。

 

 この句碑は、さぬき市多和兼割地獄谷にあるとされるもの。ある本では「八丁石付近」と書いてあって、これを探すのにずいぶんと山の中を歩き回ったのだが、いまだに発見されていない。顕彰会の会長さんに聞いても「さぁ、どこやったかいなぁ・・」というばかり。

 

 多和から大窪寺に向かう遍路道に八丁石がある。この細い川の下(南)側が地獄谷、上(北)手が極楽谷だと聞いた。そのあたりを歩き回ったが見つからない。

 

 今日、校正を兼ねながら資料を繰っていると、「赤松家奥揺らぎ石手前」という言葉をみつけた。先の地図あたりには「赤松」という家も「揺らぎ石」というものもない。何かの間違いだと思って見過ごしていたのだが、子供の頃に大窪寺に行くときに歩いた東かがわ市からの遍路道にも「八丁石」があったことを思い出した。

 

 地図を見ると確かに「赤松家」がある。大窪寺の南面の地獄谷である。八丁石もある。

 

 阿波からの旧遍路道である。結願を前にして行き倒れた遍路の墓である。赤松さん横の六丁石から十二丁石まで歩いてみたが、それらしきものはない。行ったり来たりしながら歩いていると、

 

 見逃すような小さな石。高さ35センチ、幅25センチ、山頭火の句碑中、日本一小さな句碑らしい。「夜が長い 瀬音とほくもちかくも」と刻んである。その字も小さくて細い・・・。やっと、見つけたぞ。

 

 あとは、宗林寺の境内と、竹屋敷という食堂兼宿泊施設の中である。ここは他人さんの敷地内だから自由に調査ができないのがつらい。

 

 今日の掲示板はこれ。「他人が変わるのを期待してもがっかりするだけ 受け止める自分の心を変えるのがいちばん」というもの。相手を変えようとしない、相手に期待しない、適度な距離感を保つ、当たり前だという気持ちを捨てる。人間関係では、それでいがみ合ってしまったり、人を恨んだり・・・こんなことなら付き合わなければよかった・・・と思うことだってある。人間関係を良くしたいと思ったら、相手を変えようとするよりは、まず自分から変わるしかないのかも、知れない。親しき仲にも礼儀あり・・・というように、どんな関係になっても相手を尊重すること・・・それは相手に対して踏み込み過ぎないということでもあると思うことである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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