まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

悩みつつ紫式部の花の陰

2020年09月24日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は、湿った空気の影響で曇り、夕方からは雨が降るらしい。気温は22.5度から26.7度、湿度は86%から74%、風は1mから2mの北西の風が少しばかり。明日の25日のさぬき市地方は、低気圧や前線の影響で曇り、昼前まで雨が降る見込みらしい。

 

 106/51/79 36.5c-96% 60.6Kg 25.9c-63%-1014hPa こういう記録も、もう必要がないように思う。でも、心不全は治らないのだから、死ぬまで、この記録は必要なんだろうか。新しい心臓に交換できたら、これも必要なくなるのだろうが、それは無理というもんだ。

 

 朝の4時半に起きたら、6時前の朝食が待ち遠しい。その間に、FBFの大塚先生はNHK-BSのワールドニュースを見ているというので真似してみたが、英語ばかりで何が何やらわからん・・・。

 

 さて、奥方が何を思いだしたのか、「石屋さんに連絡しておいたから、ムレさんから電話があるから出歩かないでよ」と言い残して出掛けて行った。何をどうするんじゃろうかと聞いたが返事もないままに出掛けて行った。

 

 わたしの師匠に聞いた話だが、お墓に行っても、「南無阿弥陀仏」がなければ拝まないとか、「倶会一処」と刻まれていなければ拝む必要がないということだった。真宗は「阿弥陀一仏信仰」だからということだった。だから、我が家のお墓は拝めないということになる。だから、拝んだことはない。

 

 それだし、真宗のお墓は「法名碑」というものが大事で、我が家のように「霊標」というのは誤りだという。昭和の40年代かにお墓を建てることが流行したとき、母方の祖父が強引に建てたものらしくて、その頃の流行だったのかも知れない。だから、わたしはこの我が家のお墓には入らないと決めているし、奥方もそれに同意している。

 

 そういう相談かどうかは聞いていないが、今あるお墓を建て直すことは高価だし意味がないので捨ててある。お参りしたい人はお参りしてもらっている。

 

 「その電話があるから、家から出ないで」というので、県立病院のドクター用に闘病記を作り直していた。このドクター用には表紙が違う。内科のドクターに「天使がいた。」などという甘っちょろい表題は似合わない。

 

 うん、タイトルが違うだけだ。中身は全くおなじ。こうでもしないと、あのドクターは読まずに捨ててしまうかも知れないし、ゴミ箱行きかも知れないと思って。

 

 そうそう、医大付属病院の二人の看護師にも闘病記を郵送しておいた。これで、闘病記はおしまいになった。

 

 今日のお昼は暖かい「ぶっかけうどん」にした。いつものサンマの味噌煮が乗っている。それにしても石材屋からの連絡はない。せめて時間帯、朝か昼か晩かくらいは決めておいてもらいたいものだ。

 

 昼からは、来月頭にある6日の大窪寺班勉強会の資料の準備にかかった。秋の最大のイベントである「さぬき市88ウォーク」も中止になったし、ガイド養成講座も中止になった。はてさて今回は何をやろうかと思案中。

 

 簡単な英語でのガイドができるようにと、英語版のガイドマニュアルでも作ろうかと思案中。でも、「本尊」とか「錫杖」とか「霊場」とか「札所」とかをどう表現するのかが難しい。この場合には「Fudasho」となっているが、それでいいのか?単に「Temple」でいいのか。でも、後の「Temple」とでダブってしまう。

 

 この字は「薬」に似ているが「薬」ではない。これを、どう説明するのか。

 That is, the character of "medicine" of Yakushi Nyorai is incomplete.
The pilgrimage is a never-ending journey.
A new beginning. It seems that the meaning is put.

 というらしいのだが、わたしは英語がまるきしダメなのだ。ま、要するに、「薬」の字が未完成なのは、遍路が終わりなき旅であり、新たなる始まりであるという意味が込められている・・・ということらしい。この、「pilgrimage」が「遍路」ということである。「ピルグリミッジェ」みたいな音である。

 

 今日の掲示板はこれ。「人間必ず死ぬ 病気にもなる この身の事実から目をそむける事 それを迷いという」というもの。生まれたものは必ず死ぬことになっている。しかし、死ぬために生まれてきたのではなく、死ぬために生きているのでもない。 未来のために現在があるのではないし、現在のために過去があったのではない。その時の「今」こそかけがえのない「いのちの時」である。過去に縛られることなく、未来を追うことなく、過去によって成り、未来を生む「今」を大切にしたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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