武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

秋の暮れ

2010年10月21日 | Weblog


シベリヤから白鳥が来たそうだ。

秋の夕暮れはなんともさびしい。これが日本人のこころをくすぐってきた。
「秋は夕暮れ。夕日さして山の端いと近うなりたるに・・・・」とか思い出す。

「秋の暮」という言葉は、ずーーと前は暮れていく秋・・・・・つまり晩秋をさしたそうです。いつ頃からか「秋の夕暮れ」をイメージして、夕暮れに使うようになったとか。
言葉も時代にそって変わっていくものだ。
「ぜんぜん・・・・・・」ときたら文末は否定の言葉がくるはずだったが、現在はそうでもない。
テレビなどでも年配の人が「ぜんぜん、大丈夫」とか言ってる。

ジョセフ・ヒコと6月

2010年10月20日 | Weblog
ジョセフ・ヒコという方はジョン・万次郎より有名ではないかもしれない。ジョン・万次郎と同じく船が難破しアメリカ船に救助され日本人として最初にアメリカに帰化した人だ。
後に通訳として横浜にくらしていたらしい。

そこで知り合った岸田、本間という方と西洋にある「新聞」なるものをやってみようということなりはじめたのが元治元年6月28日。そして第一号を発刊した。中身は「西洋新聞」を手に入れヒコが訳し、他の二人がそこに日本の事情を加え日本文にした。最初は手書きであったが、部数を増やすに「版画」を使った。器用な医者岸田が板に彫り、月3,4回・100部発刊したという。ほとんど文字だから、彫るのもさぞかし大変だったでしょう。とにかくこれが日本の新聞の元祖なのです。

今日10月20日から「新聞週間」がはじまります。なんで6月じゃないかといえば、10月にアメリカに「ニュースペーパーウイーク」というのがあります。戦後まだアメリカが占領していた頃アメリカと同じ週間を作れということで設置されたのです。
この週間はヒコとは関係ないことがしゃくですね。まったく。



富山の薬屋さん

2010年10月19日 | Weblog

富山の製薬は有名であるが、江戸時代から「先用後利」というシステムで富山の薬は栄えた。品物を先に渡し、後で使用分をいただくシステムだ。それと人気は「おまけ」であった。全国津津浦浦田舎まで杜山の売薬さんが飛び回った。
戦後わたしの小さい頃、車もはいれない辺ぴな我集落にもきて、わたしの家で一泊して商売をしていた。こどもとしては持ってこられる「おまけ」が楽しみだった。紙風船など紙で作られたものが多かったけど、遊び道具のない時代では貴重だった。それを版画の図柄にとりいれてみました。
歴史をみると、最初江戸時代は「版画」がおまけだったとか。きれいな色刷りがもらえた。江戸の浮世絵のとは違った地方の浮世絵があったのだ。絵師も刷り師も富山にいたという。ここに刷られるのが当時の世相・・・戦争画とか流行した芝居とかであったので情報源として田舎では人気だったらしい。
要求にこたえる新しいのを作るのも大変で、新聞などの出現で衰退・・・以後湯のみとか扇子の時代があって戦後、紙風船の時代が来たらしい。ナ二ヌネノの版画です。


雪男はいるか?

2010年10月18日 | Weblog

タ行の版画である。
タ・チ・ツ・テ・トだ。
ここで問題は雪男は実在するかである。クムジュン村のラマ寺院に保管されている雪男の頭蓋骨を調べたらインドのプラマ牛のこぶとそっくりだったという。また頭皮なるものはヒマラヤカモシカのそれによく似ていたという。・・・・・・・どうかなあ。

 


コスモス街道

2010年10月17日 | Weblog



コスモスがきれいに咲いている。よく見れば色模様の変わったのもある。日本中ににぎやかに咲いているが、もともとはメキシコからきた花だ。


アワダチ草も我が物顔で咲いている。あれやこれや外国から来た植物が多い。江戸時代などの植物は今に比べたら色も静かだったろうと思われる。

ま、そういうことで秋も深まっていく・・・・・・

 


敗戦記

2010年10月16日 | Weblog

「ゲゲゲの女房」なるドラマが終わり、店頭から静かに関係本が消えていく・・・・・・・・・・
そのうちなる「敗戦記」を読む。
戦争を体験した方の書かれたものだ。そこらへんの戦記物とはちがう。

こういうのを力作というのだろう。わたしの叔父がニュウギニアで戦死しているので、よけいそんな気持ちになるかもしれない。
世は秋である。朱というおうか茜というおうか鮮やかな赤と華やかな黄色の季節だ。


ある夏の思い出

2010年10月15日 | Weblog

地下700メートルから生還した。チリのニュースでわいている。
この深さまで掘り進む仕事もすごいが、脱出もすごい。

小さい頃、廃坑に遊びに行って暗い穴で、行き先を迷ったことがあった。こうもりがバタバタと飛び。遠くに小さな出口が見えた時のことを思い出したが比較にならない。
このすごい恐怖感に耐えるすごさを感じる。
話は関係ないが、こどもの頃は家の遊び道具もないので、ノコノコ川や池や廃坑など遊びに仲間と行ったものだ。放水の川で流されて終わりかと思ったこともあった。こういうことは親には話してない。冬など山でなだれに巻き込まれ危なかった。
何を採ったか不明なれど戦前に操業していた鉱山跡があった。複雑な建物で冒険には適していた。今でいうホームレス、当時は「コジキ」と言ったおじさんが寝てたりしてた。大きな水槽があったので、そこでよく泳いだ。水は黄色で、泳ぐたびに濃くなっていた。何か精錬した跡だろう。あがるとパンツや身体が黄色くなっていた。えらいとこで泳いでいたものだ・・・・・・


日露戦争大勝利

2010年10月14日 | Weblog

日本が大陸に手を伸ばそうとする日清・日露戦争があった。大勝利とわく裏側は悲惨な事実もあった。たいたい戦争というものはそういうものかもしれない。
今朝の新聞に日清・日露戦争にかりだされた当時の農家の悲惨さを書かれていた記事もあった。
この戦争は戦死者よりも病死者が多かったという。結局飲水の衛生管理の悪さであったという。慣れない土地の水で胃腸をこわす兵士が多かったといいます。そこで開発された薬が「正露丸」でした。もともとはロシアをやっつけると言うので「征露丸」でしたが、

戦後、国際信義にかかわるというので「正露丸」と漢字をかえたとのこと。国際信義といえば「トルコ風呂」が「ソープランド」にかわりましたね。なお横の薬は木曽の「百草丸」です。
ゲンノショウコとかセンブリが原料らしい?
どちらも苦いので効く感じがする


肉食の歴史

2010年10月13日 | Weblog

 

最近のニュースは奥山から熊が出てくることだ。人間を襲ったりしてる。人間を食べにくるのでないので、人間にいきあって、びっくらして襲うのだろう。◎◎市に出たと言うから町場に出たと思ったけど、平成の大合併で▲▲村だったところが市になっているのだ。

熊の肉とか鹿肉も口にしたことあるが、めずらしいと思っただけで美味とは思わなかった。

日本人は明治になって肉食禁止令を解いてから食べるようになった。それ以前は仏教の関係からか肉は汚れているものとされていた。意識を変えるのも大変です。徐々に肉食がひろがって、やたらと牛肉店があり、焼肉店がある日本になりました。最初は牛一頭を殺すのも、青竹四本たてて御幣を結び、しめなわをはって処理したそうです。肉をとった後の骨や内臓は土にうめお経をあげたり大変だったようです。


M形の折りたたみ

2010年10月12日 | Weblog


一応ねらいは宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシェ」・・・・・・・・宮沢のM形にした折りたたみ。

33歳のT君にあった。と言うか訪問してきた。
Uターンして帰ってきて、10月から地元にようやく就職してセールスとして偶然我が家にきた。カベとか屋根とかの塗装会社の売込みだ。実績がないので、車は使えず上司が今日はここの団地に売り込めと・・・・夕方迎えにくるとのこと。ノルマはあるのか?と問えば月3件だそうだ。訪問すると皆警戒した顔で・・・・と嘆いていた。昼、グランドの横を通ると握り飯を食べている彼にまたいきあった。今日はいいけど、雨の日は昼を食べるのも大変だとか・・・・・・・・・
厳しいですね。
がんばれと声かけてきたけど・・・・