少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

TC-1でリバーサル

2004-12-13 22:26:08 | 写真
借りてたTC-1はクラッセが帰ってきたので返した。

その間一本だけベルビアで撮ったフィルムを現像に。

会社の敷地内の椿とかそんなものをとったやつ。

どんな風にしあがってくるかな。久しくモノクロばっかりだったのでカラーも楽しみ。

カメラ日和(雑誌)の中にはリバーサルのネガをそのままカーテン越しに飾ると言う大胆なこともやっていた。でもとてもきれいだったし、僕もやってみようかな。

デジカメ写真

2004-12-12 15:44:06 | 写真
カメラ日和にちょっと触発されてデジカメを引っ張り出してきた。

カシオのQV-4000という古い機種だが、400万画素でレンズはF2.0と結構明るく、写りもまんざら悪くない。ちょっと野暮ったい格好をしているので持って歩く喜びみたいなものはないけど。

窓際にいけてある花を三脚を立てて撮影。天気が悪く外の光だけでは暗くて手持ちは無理。

ちょっと横にあったクリスマスツリーの光を当てて撮ってみた。

久しぶりのデジカメだけど、それはそれで結構楽しいね。

ブログと写真について

2004-12-12 09:29:18 | 写真
このブログはあまりコメントやトラックバックはないけど、普通はそういう他人とのリンクがブログをブログたらしめる。自分だって、誰かにこの文章が見られていると思っている意識の上で書いてる。誰も読まないものを書いても仕方がないのだから。

自分が誰なのかを知るためには、他人と何らかの関係を持つしかない。それは言葉の単語の意味がそれ自身では定義できないのと同じだ。言葉は他の言葉との関係によってのみ定義しうる。言葉それ自身は、符牒に過ぎない。だってそうでしょう。

でも、たとえば花と言う言葉の持つ響きやその文字の形の持つ印象、そういうその言葉本来が持っている意味と言うものも否定できないかもしれない。それは言葉ではもう説明できない。きわめて主観的なものだけど。

それは主観的という意味において「自己満足的」な事柄に過ぎない。
写真だってそうかもしれない。撮った写真を他人に見せて何かを伝えることが、写真に意味をもたらすのだろうけれど、一方で自己満足でもある。

部屋を素敵な写真で飾ったり、デスクの上にオリジナルのカレンダーをおいたり。みんな自己満足。

なぜそんなことをするんだろう?だって、そうでもしてなきゃやってられないから。。じゃない?

僕もこのブログをもうちょっと飾り付けたくなってきたなあ。最近あまり使ってないデジカメ。このブログ用に取り出してみようかなと思っている。

カメラ日和

2004-12-11 22:15:10 | 写真
本屋に行ったらなんだかいい感じの本を見つけた。

カメラ日和というちょっと女性向けかなって気がする本。

カメラで写真をとって生活を豊かにしようってことかな。

写真をとってカレンダーを作ったり、灯篭のようなものを作ったり、おしゃれなコットンバッグに入れたりして楽しむ。

こういうのすごくいいなあ。肩に力をいれずに写真のある毎日を楽しむこと。

デジカメで写真は撮ったけど、もうちょっと写真を楽しみたいなら、この本お勧めです。


写真を上手くなる方法

2004-12-10 23:01:10 | 写真
どうやったら写真が上手くなるのだろう。

以前は、被写体をよく見るとか、素直にイイナアと思うとか、いろいろ考えた。

もちろんフレーミングや露出のコントロールも大事だ。

でも、もっとも大切なことはそんなことではない気がしてきている。

えっ、何?って思うだろう。

今私は、写真が上手くなるための推進力は写真が上手く撮れないということだと思うのだ。

写真が上手く撮れない限り、写真は上達し続ける。そういうことだ。

逆に言うと、もうこんなもんでいいと思ったとき、上達は止まるのだ。

この法則はきっと人生すべてにおいていえることだと思う。

自分の目の前にある事柄に満足したら、もうその人に明日はない。

いや、明日はあるかもしれないけど、それは今日と全く同じだ。

今日と全く同じ明日。そんなことってあるだろうか。時間が止まったといってもいい。

時間は止まるのだろうか。

そういえば写真というのは時間を止めることかもしれない。

時間が止まるのは写真と言うバーチャルリアリティの中だけにある。

誰の時間も止まりはしない。すべての人にとって時間は刻一刻と進んでいくだけ。

だから、誰でもみんな進歩し続けるのだ。すべてに満足する人なんて決していない。と思う。

写真を発酵させる

2004-12-09 20:00:36 | 写真
撮って、現像してできた写真の何枚かはフレームに入れて飾ったりする。

人の写真は、もちろんさしあげることもある。

それ以外の写真やしばらく飾ってはずした写真たち。どうしてますか?

うちでは、金属製のお煎餅のカンにいれてとってある。

このカン、もちろん何の仕掛けもないのだけれど、しばらく入れておくと写真が発酵する。

写真を発酵させるために必要なのはズバリ時間だけ。

しばらく置いておくだけで、写真は意味を持ってくる。間違いなく。

何気ない景色や人の表情でさえ、その時はあまりにありふれていて何も思わなかったその写真が、時間の流れを経ることによって特別な感情を呼び覚ますようになる。

なぜだろう?

写真と言うのは、撮ったそのときには分からないたくさんの意味が埋めこまれている気がする。

写真を撮ったとき、人はその映像をそのままのビットイメージとして取り込むわけではない。写っている人は人、建物は建物の概念の相関関係のネットワークを意識として理解する。その映像を意識はある見方で切り取っているに過ぎない、それは絶対的な認識ではないのだ。あくまでも主観的な認識なのだ。

だから、後から写真を見るとその画像の認識の仕方がいろいろと変化することは当然ありうるのだ。

だから写真は発酵するのだ。




クラッセ退院

2004-12-08 22:43:19 | 写真
修理が終わってクラッセが帰ってきた。修理は裏蓋を取り替えて税込み8500円也。

部品代が3000円ほどであとは技術料。値段どうこうより直って帰ってきたことがうれしい。

裏蓋は多少手垢で汚れていたのが、新品になってなんとなく気分も良くなった。

とにかくこれで一本とって、今の現像タンクで処理をしてみるつもり。

これでも傷がつくようだと、やっぱりタンクの問題と言うことになる。さてどうなりますか。

メーカーと言うのは、新しい製品を世の中のに送り出す一方で、こういう地味な修理にもちゃんと対応しなければいけない。富士の対応が特別良かったかどうかはよく分からないが、ちゃんと修理した人の名前の入った紙に何を直したかを書いたものをつけてカメラは帰ってきた。こういう態度というのが、実はとても大切なことだと思う。

マックホルツ彗星

2004-12-07 23:05:03 | 天体観測
写真とは関係ないけど、今日マックホルツ彗星というほうき星を見た。

三ツ星で有名なオリオン座の下にあるウサギ座からちょっと右に行ったあたり。

光害の激しい都会では肉眼では全く無理だけど、望遠鏡ならなんとか見えるくらい。

ほうき星といってもまだ、ほうきはさっぱり見えずボーっとした光の塊にしか見えない。

大体彗星と言うと太陽の近くで明るくなるので夕方の西の空に現れることが多いと思っていただけに、こんなに暗くなってからのんびり見れるのは結構うれしい。

鉛筆で簡単にスケッチして今日は終わりにした。もっと尾が伸びて本当にほうきのように見えるように祈ろう。

流れ星じゃないけど、願い事も忘れずに。きっとかなうから。

めぐり合わせ

2004-12-06 22:09:15 | 写真
ちょっと前から気分のサイクルが大きくマイナスに傾いてきた。気分のコントロールが上手くいかない。

コントロールと言うより気分が高揚しないと言った方が的確かもしれない。

写真を撮る気持ちも今ひとつ盛り上がらない。

でもこういう時って誰でもあるだろう。そう思いたい。

こんなときこそ目の前にある自分のできることを一歩ずつ進むだけ。

そしてまた日が昇ってくる日を待とう。また日は昇る。きっと。

オフィスや家に飾ってある写真は,その大部分がマット紙に入れてあるだけだ。やっぱりフレームに入れたほうが見栄えがする。ちょっとずつでも作品を素敵にしていこう。

いま僕にできること。ちょっとでも前に向かって進むために。

なぜ?なぜ前に進むのか?…いい質問だね。誰か教えてくれませんか?