今回は坂東札所三十三箇所に納経し、無事結願できた御礼の参拝になる。
札所めぐりの大締めとも、納経帳や掛け軸の仕上げとも言える旅になった。
結願御礼の寺: 長野市 定願山 善光寺 本尊 一光三尊阿弥陀如来
本尊は仏教の伝来とともに渡来したと伝わり、日本最古の仏像と云われる。
大和朝廷内の崇仏廃仏論争と政争の末に、難波の堀江に打ち捨てられた
ものを、信濃の住人本多善光が郷土飯田にお連れして奉ったと伝えられる。
642年現在地長野に遷座し、勅願により伽藍造営されて名を善光寺とした。
戦乱や火災で荒廃したが、江戸時代に現在の金堂などが復興されている。
善光寺対の寺: 別所 北向観音(本坊常楽寺) 本尊 千手観世音菩薩
善光寺の南向きに対し、対の北向きに建っている事から北向観音と呼ぶ。
平安初期に慈覚大師が創建したと伝わり、969年に堂宇が造営された。
木曽義仲の兵火で消滅したが、源頼朝と塩田北条氏によって再興された。
善光寺は来世の利益をもたらし、こちら北向は現世の利益が得られると云う。
善光寺だけの参拝は片参りと言われ、北向観音との両参りが推奨される。
真言宗豊山派大本山:音羽 神齢山 護国寺 本尊 如意輪観世音菩薩
高速道路とビルに囲まれた都心に、真言宗豊山派の大本山護国寺がある。
天和元年(1681)、徳川五代将軍の綱吉公が生母桂昌院のために開山した。
桂昌院の持仏を本尊に、上野国碓井八幡宮の別当亮賢僧正を招いて創建。
徳川家の篤い信仰と寄進を受けて、多くの堂宇と文化財を寺宝としている。
観音堂は元禄時代の建築で、落ち着いた寺域は江戸の面影を残している。
梅雨あけの19日は長野の寺を車で、翌日は東京の寺を電車で参拝した。
車での参拝は、届いたばかりの新車のならし運転と安全祈願の旅になった。
牛の角に布がかかり、それを追って善光寺をお参りしたという逸話がある。
「牛と布ではなく、朱印に魅し新車を慣らす御礼参りだ」と、ひげ爺の独り言。
掛け軸の朱印も36ヵ寺となり、最上段の真ん中には菊の紋章もいただけた。
札所めぐりの大締めとも、納経帳や掛け軸の仕上げとも言える旅になった。
結願御礼の寺: 長野市 定願山 善光寺 本尊 一光三尊阿弥陀如来
本尊は仏教の伝来とともに渡来したと伝わり、日本最古の仏像と云われる。
大和朝廷内の崇仏廃仏論争と政争の末に、難波の堀江に打ち捨てられた
ものを、信濃の住人本多善光が郷土飯田にお連れして奉ったと伝えられる。
642年現在地長野に遷座し、勅願により伽藍造営されて名を善光寺とした。
戦乱や火災で荒廃したが、江戸時代に現在の金堂などが復興されている。
善光寺対の寺: 別所 北向観音(本坊常楽寺) 本尊 千手観世音菩薩
善光寺の南向きに対し、対の北向きに建っている事から北向観音と呼ぶ。
平安初期に慈覚大師が創建したと伝わり、969年に堂宇が造営された。
木曽義仲の兵火で消滅したが、源頼朝と塩田北条氏によって再興された。
善光寺は来世の利益をもたらし、こちら北向は現世の利益が得られると云う。
善光寺だけの参拝は片参りと言われ、北向観音との両参りが推奨される。
真言宗豊山派大本山:音羽 神齢山 護国寺 本尊 如意輪観世音菩薩
高速道路とビルに囲まれた都心に、真言宗豊山派の大本山護国寺がある。
天和元年(1681)、徳川五代将軍の綱吉公が生母桂昌院のために開山した。
桂昌院の持仏を本尊に、上野国碓井八幡宮の別当亮賢僧正を招いて創建。
徳川家の篤い信仰と寄進を受けて、多くの堂宇と文化財を寺宝としている。
観音堂は元禄時代の建築で、落ち着いた寺域は江戸の面影を残している。
梅雨あけの19日は長野の寺を車で、翌日は東京の寺を電車で参拝した。
車での参拝は、届いたばかりの新車のならし運転と安全祈願の旅になった。
牛の角に布がかかり、それを追って善光寺をお参りしたという逸話がある。
「牛と布ではなく、朱印に魅し新車を慣らす御礼参りだ」と、ひげ爺の独り言。
掛け軸の朱印も36ヵ寺となり、最上段の真ん中には菊の紋章もいただけた。