こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

二年目の春ーそして・その3

2015年03月01日 00時41分28秒 | 文芸
 去年の畦焼き中に腹の痛みを堪え切れず、家に慌てて取って返し便所に飛び込んだ慎三は、この池の土堤焼きに結局立ち会えなかった。
「こいつは慎重にかからにゃヤバいでのう」
 慎三の隣にいる初老の男がいった。慎三が見返ると、その気配に誘われでもしたのか、男も慎三を見た。にやりと笑った。
「おまはん、初めてやったのう」
「はあ」
「そらごっついで。火が勢いつけて走り上がりよるでのう。ヘタしたら山火事やぞ」
 相手は慎三のことを、よく知ってようだった。どこか記憶にある顔なのだが、いまの心臓に顔と名前を結びつけるのは無理な話だった。その気になってムラの連中と付き合わない限り、いつまでも顔と名前は覚えきれまい。分かってはいても、まだその気になれない慎三だった。
 ムラの役員たちが、如雨露やバケツに水を満たして土堤の両端に陣取ると、掛け声とともに一斉に火が放たれた。根が付いたままで立ち枯れた雑草は焼いても火は走りにくいが、去年に刈り払われた土堤の雑草はよく乾燥していて、火は舐めるように土堤の斜面を登った。無風に近かったのが、燃え上がる炎が風を呼んだ。白い煙が左の方へ流れた。
 誰が命令するわけではないが、ムラの連中の動きは無駄がなかった。動きはのろく見えても、それなりの役割をきちっと果たしている。それを見ていると、慎三が入り込める余地はないように思えた。やはり慎三はまだ余所者でしかなかった。
 ひとしきり燃え上がった炎は土堤の脇に生え茂った笹竹を舐め、パチパチと派手な音を響かせた。ムラの連中の間にピーンと緊張の糸が張った。バケツを下げた若い衆が小走りに斜面を移動し、いつでも消火出来る態勢に陣取った。両腕が持つバケツの水は、いささか心もとない気がする。誰かが怒鳴った。
「用心せいや~!油断すんなよー!」
 数日前の新聞に、他地区の畦焼きの火が山火事を呼んだとの、皮肉な記事が掲載されていたのを思い出した慎三は、緊張で身体をこわばらせた。
「大丈夫やい。風邪は弱うなっちょるぞ!笹竹はすぐに燃え尽きるわい。心配いらへん!」」
 年嵩の男が、年を感じさせぬ大声を張り上げた。何年か前までやり手の区長としてムラを牛耳っていた男だった。老いてもさすがに貫録は充分で、その声はムラの連中に安堵感をもたらした。
 男の言葉通り、激しく燃え盛った笹竹の火も、本体を燃やし尽くすと、みるみる勢いをなくした。
(続く)
(1994年10月29日神戸新聞掲載)

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