「どこへ行っとったんやいな?」
灰皿を出して来た母は訊いた。
「うん、ちょっとな。懐かしなって、そこらを歩き回ってた」
「ほうか。この辺りもすっかり変わってしもたでな」
母がちょっと寂しい顔を作った。
「ああ、ビックリしたわ。ちっこい田圃が、みんなドでかい田圃になってしもとんやからな。時代やな。俺の記憶にある故郷なんかかけらも残っとらんかった」
「こっちへ滅多に帰ってこんくせに、そない勝手な言い草はないもんや。故郷が怒りよるわ」
「うん。…そやな」
龍悟は笑った。母もうんうんと頷きながら、目を細めた。こんなとりとめもない母と子の会話はいつ以来だろう。龍悟は煙草の煙を見やって、遠い記憶を何となく探っていた。
母は知らない。龍悟が父の名前を知った、あの日から、しょっちゅう東畑崎を眺めるようになったのを。知らないでいることが、母にとっては幸せなのかも知れない。母の昔に思いを走らせては、そう結論付けるしかなかった。母が生きた時代は差別が罷り通っていたのだ。その時代の急流に棹をさす格好になった母は、結局流れに巻き込まれて溺れた。
(いや……)
龍悟は、よく思う。差別は今だって全く変わってはいない。むしろ昔よりタチが悪くなっている。表向きは誰も彼もが「差別なんてとんでもない。許すな!」って顔をしているが、彼らの心に根強く残っている差別意識は消えるどころか、益々助長されているのは確かだった。
(オレが、そのいい証拠だな)
龍悟は自嘲してばかりである。
あの事実を知った日から、龍悟は父の家がある東畑崎を強く意識するようになった。その反面、人前では打って変わって東畑崎を殊更に無視するようになったのも、また事実だった。
龍悟の周囲が『』と呼んで東畑崎をどうみているかは、よく知っている。それだけに自分が、その東畑崎の者と血縁関係にあると知られるのが怖くなった。だから、なお一層、東畑崎を避ける言動になった。
それこそが、龍悟の心に染み付いている差別意識の赤裸々な証明でもあった。差別する側に置かれた差別される側という輻湊した立場を、龍悟は差別される側を隠してでも差別する立場を選ぼうとしたのだ。
母はそんな龍悟に何も言わなかった。母としては、むしろ龍悟の選択をよしとするものがあったに違いない。彼女の辛い体験は、差別を悪としなければならない正義に裏切られたとの思いをもたらせているのは容易に察せられた。
龍悟の妻も、夫が、そいう生まれであることを知らない。一般的なサラリーマンの家庭に生まれて苦労知らずに育った彼女は、たぶん被差別の存在を意識したこともあるまい。意識しないことが、どれだけ差別に加担しているかが理解できない世間の常識の中で暮らしているのは間違いない。勿論、龍悟だって2.0そうだ。知っていながら、それに頬っ冠りを決めている分、余計タチは悪い。
神社は近辺の住人を集めて、かなり喧騒としていた。普段はひっそりと誰も見向きもしないであろう、古ぼけた神社が、今日ばかりは輝いていた。露店も二つだけだが、軒を並べていた。そこに息子龍一の顔があった。
「お父さん、やっと来たね」
龍一は父親に底抜けの笑顔を見せた。余程、浮かれているのだろう。
「楽しんでるか?」
「うん1」
龍一の傍に二人の男の子の顔があった。
「友達か?」
「そうだよ。ここで知り合った、小寺くんと草水くん」
「え?」
龍悟は思わず息子の新しい友達らの顔を見直した。「どうしたの?お父さん」
「いや、懐かしい名字を聞いたからな」
「そうか。ここはお父さんの故郷だったんだよね」
「ああ、そうだ」
龍悟は笑って頷いた。
「そうだな。小寺くんは白羽のもんやろ」
「うん、そうや。よう分かったなあ、おじさん」
「おじさんは君らと同じ渡瀬小学校に通ったんやで」
「へえ、本当なん?うちのお父さんと同級生やったんか?」
「たぶん……」
龍悟は遠い記憶を探った。
「ほなら、オレ、どこのもんや当てられるか?」
草水と紹介された男の子が、ちょっと胸を張って訊いた。
「うん、そうだな。草水くんやったら、畑崎やな」
「残念!おお外れや、おじさん」
龍悟は面喰った。草水姓はこの辺りでは東畑崎にしかなったはずだ。
戸惑う龍悟を面白がって、小寺くんの方が言った。
「おじさん。ケイちゃんは清土団地や!」
(続く)
(のじぎく人権文芸賞平成十年度入選作)
灰皿を出して来た母は訊いた。
「うん、ちょっとな。懐かしなって、そこらを歩き回ってた」
「ほうか。この辺りもすっかり変わってしもたでな」
母がちょっと寂しい顔を作った。
「ああ、ビックリしたわ。ちっこい田圃が、みんなドでかい田圃になってしもとんやからな。時代やな。俺の記憶にある故郷なんかかけらも残っとらんかった」
「こっちへ滅多に帰ってこんくせに、そない勝手な言い草はないもんや。故郷が怒りよるわ」
「うん。…そやな」
龍悟は笑った。母もうんうんと頷きながら、目を細めた。こんなとりとめもない母と子の会話はいつ以来だろう。龍悟は煙草の煙を見やって、遠い記憶を何となく探っていた。
母は知らない。龍悟が父の名前を知った、あの日から、しょっちゅう東畑崎を眺めるようになったのを。知らないでいることが、母にとっては幸せなのかも知れない。母の昔に思いを走らせては、そう結論付けるしかなかった。母が生きた時代は差別が罷り通っていたのだ。その時代の急流に棹をさす格好になった母は、結局流れに巻き込まれて溺れた。
(いや……)
龍悟は、よく思う。差別は今だって全く変わってはいない。むしろ昔よりタチが悪くなっている。表向きは誰も彼もが「差別なんてとんでもない。許すな!」って顔をしているが、彼らの心に根強く残っている差別意識は消えるどころか、益々助長されているのは確かだった。
(オレが、そのいい証拠だな)
龍悟は自嘲してばかりである。
あの事実を知った日から、龍悟は父の家がある東畑崎を強く意識するようになった。その反面、人前では打って変わって東畑崎を殊更に無視するようになったのも、また事実だった。
龍悟の周囲が『』と呼んで東畑崎をどうみているかは、よく知っている。それだけに自分が、その東畑崎の者と血縁関係にあると知られるのが怖くなった。だから、なお一層、東畑崎を避ける言動になった。
それこそが、龍悟の心に染み付いている差別意識の赤裸々な証明でもあった。差別する側に置かれた差別される側という輻湊した立場を、龍悟は差別される側を隠してでも差別する立場を選ぼうとしたのだ。
母はそんな龍悟に何も言わなかった。母としては、むしろ龍悟の選択をよしとするものがあったに違いない。彼女の辛い体験は、差別を悪としなければならない正義に裏切られたとの思いをもたらせているのは容易に察せられた。
龍悟の妻も、夫が、そいう生まれであることを知らない。一般的なサラリーマンの家庭に生まれて苦労知らずに育った彼女は、たぶん被差別の存在を意識したこともあるまい。意識しないことが、どれだけ差別に加担しているかが理解できない世間の常識の中で暮らしているのは間違いない。勿論、龍悟だって2.0そうだ。知っていながら、それに頬っ冠りを決めている分、余計タチは悪い。
神社は近辺の住人を集めて、かなり喧騒としていた。普段はひっそりと誰も見向きもしないであろう、古ぼけた神社が、今日ばかりは輝いていた。露店も二つだけだが、軒を並べていた。そこに息子龍一の顔があった。
「お父さん、やっと来たね」
龍一は父親に底抜けの笑顔を見せた。余程、浮かれているのだろう。
「楽しんでるか?」
「うん1」
龍一の傍に二人の男の子の顔があった。
「友達か?」
「そうだよ。ここで知り合った、小寺くんと草水くん」
「え?」
龍悟は思わず息子の新しい友達らの顔を見直した。「どうしたの?お父さん」
「いや、懐かしい名字を聞いたからな」
「そうか。ここはお父さんの故郷だったんだよね」
「ああ、そうだ」
龍悟は笑って頷いた。
「そうだな。小寺くんは白羽のもんやろ」
「うん、そうや。よう分かったなあ、おじさん」
「おじさんは君らと同じ渡瀬小学校に通ったんやで」
「へえ、本当なん?うちのお父さんと同級生やったんか?」
「たぶん……」
龍悟は遠い記憶を探った。
「ほなら、オレ、どこのもんや当てられるか?」
草水と紹介された男の子が、ちょっと胸を張って訊いた。
「うん、そうだな。草水くんやったら、畑崎やな」
「残念!おお外れや、おじさん」
龍悟は面喰った。草水姓はこの辺りでは東畑崎にしかなったはずだ。
戸惑う龍悟を面白がって、小寺くんの方が言った。
「おじさん。ケイちゃんは清土団地や!」
(続く)
(のじぎく人権文芸賞平成十年度入選作)