結婚式エピソード
「エッ!!?ウッソー、こんなとこでするの?」
友人たちがいっせいに驚きの声をあげた。
豪華な結婚式が普通の時代に、町の集会室での披露宴。料理は仕出し屋さんからの出前。集会室の畳も気のせいかすり減っている感じ。
でもお金のない私たちを配慮した夫のご両親の手配された会場に不満などありません。そして、夫の友人のみなさんの心温かい進行役、もう最高でした。
「あなたたちは幸せですよ。形ばかり派手な最近の結婚式では味わえない、人の温かい心に囲まれた、こんないいお式で祝って貰えて」
短大恩師の祝辞に、素直にうなずいていた友人たち。
あれから9年、式場に似たあったかみのある夫婦生活。幸せいっぱいの私です。
(パンプキン掲載・平成3年10月1日号)
朝は一日のはじまりだよ!
「お前、よう起きられるなあ。俺、あかん」
寝坊助の」夫は、いつも口癖のように、そう言う。そして自分はまた寝床にもぐり込んでグーグーだから、開いた口が閉まらない。
でも、朝早く起きるのはわたしの役目。母親の役目と思っている。3人のわが子らが朝ごはんを待っていると思うだけで張りが出て来る。
時々、手抜きをしてトーストとジュースなんて時もあるけれど、やっぱり手作りの朝ごはんを用意してやると、この上なく喜んでくれる。子供たちのしあわせいっぱいって表情をみると、母親冥利に尽きる。
だから、少し低血圧気味で朝に弱いわたしもきちんと目が覚める。
わたしは一人っ子、貧乏暇なしの両親のもとで、毎日のように一人ぼっちで食事をしてきた。
その寂しさを知っているだけに、いかに忙しくても、わが子と囲む食卓をおろそかに出来ない。
わがままで自由気ままの夫も引っ張り込んで、家族みんなでワイワイと賑やかで楽しく食べる食事は、どんなに豪華で美味な外食よりも、特別なご馳走なのだ。
(平成6年婦人会文集より)
文通の記憶
高校生の頃、文通を始めた。学年雑誌の『文通相手を求む』欄に投稿して掲載されると、なんと何百通もの手紙が。それも全国各地から。もう驚きだった。当時はスマートフォンも携帯もない時代。同世代のコミニューケーション作りの主役は手紙だったのだ。
読んで返事を書く。それが何百通もあるともう大変。それでももらさず返事を書けたのは、若さの賜物だったのだろう。最終的に文通が続いた相手は五名。趣味が同じ、高校生活における悩みの共有……と理由はいろいろだったが、手紙を書き、返書を読むのがすごく楽しかった。学校から帰るとすぐ郵便受けを覗くほど、手紙が待ち遠しかった。
内向的な性格で周りに友人を作れなかった私の暗い青春を救ってくれたのは、その手紙を通じて生まれた友情だったのは確か。
最近は滅多に手紙を書かなくなった。勿論届く手紙もダイレクトメールぐらい。パソコンに向かいながら、物足りなさを感じている。
節分の風景
「年の数だけ豆を食べたら、この一年幸せに暮らせるんやで。さあお食べ」
父の言葉に従って、兄と競って大豆の炒ったのをボリボリ食べた。ふと父が豆を食べないのに気づいた。いま考えれば、四十何粒もいっぺんに食べるのはむちゃくちゃなのに。でも、幸せを約束してくれる豆なのだ。
「どうして食べないの?幸せになれないよ」「おとうさんは鬼になるからええんや」
とボール紙で作った鬼の面をかぶった父。赤いクレヨンで書きなぐった赤鬼はかっこよかった。「ウォーウォー」と手を上げて襲いかかる真似をする父から、「キャッキャッ」と逃げ回った。豆は家の外にまいた。鬼の面をかぶった父も一緒になってまいた。
「鬼は外!福はうち!」
最近豆をまく光景は身近に殆ど見かけない。恵方巻きの丸かじりに凌駕された感がある。どうも物足りない。鬼とはしゃぎ回ったあの行事は家族の絆作りにつながったのに。
「エッ!!?ウッソー、こんなとこでするの?」
友人たちがいっせいに驚きの声をあげた。
豪華な結婚式が普通の時代に、町の集会室での披露宴。料理は仕出し屋さんからの出前。集会室の畳も気のせいかすり減っている感じ。
でもお金のない私たちを配慮した夫のご両親の手配された会場に不満などありません。そして、夫の友人のみなさんの心温かい進行役、もう最高でした。
「あなたたちは幸せですよ。形ばかり派手な最近の結婚式では味わえない、人の温かい心に囲まれた、こんないいお式で祝って貰えて」
短大恩師の祝辞に、素直にうなずいていた友人たち。
あれから9年、式場に似たあったかみのある夫婦生活。幸せいっぱいの私です。
(パンプキン掲載・平成3年10月1日号)
朝は一日のはじまりだよ!
「お前、よう起きられるなあ。俺、あかん」
寝坊助の」夫は、いつも口癖のように、そう言う。そして自分はまた寝床にもぐり込んでグーグーだから、開いた口が閉まらない。
でも、朝早く起きるのはわたしの役目。母親の役目と思っている。3人のわが子らが朝ごはんを待っていると思うだけで張りが出て来る。
時々、手抜きをしてトーストとジュースなんて時もあるけれど、やっぱり手作りの朝ごはんを用意してやると、この上なく喜んでくれる。子供たちのしあわせいっぱいって表情をみると、母親冥利に尽きる。
だから、少し低血圧気味で朝に弱いわたしもきちんと目が覚める。
わたしは一人っ子、貧乏暇なしの両親のもとで、毎日のように一人ぼっちで食事をしてきた。
その寂しさを知っているだけに、いかに忙しくても、わが子と囲む食卓をおろそかに出来ない。
わがままで自由気ままの夫も引っ張り込んで、家族みんなでワイワイと賑やかで楽しく食べる食事は、どんなに豪華で美味な外食よりも、特別なご馳走なのだ。
(平成6年婦人会文集より)
文通の記憶
高校生の頃、文通を始めた。学年雑誌の『文通相手を求む』欄に投稿して掲載されると、なんと何百通もの手紙が。それも全国各地から。もう驚きだった。当時はスマートフォンも携帯もない時代。同世代のコミニューケーション作りの主役は手紙だったのだ。
読んで返事を書く。それが何百通もあるともう大変。それでももらさず返事を書けたのは、若さの賜物だったのだろう。最終的に文通が続いた相手は五名。趣味が同じ、高校生活における悩みの共有……と理由はいろいろだったが、手紙を書き、返書を読むのがすごく楽しかった。学校から帰るとすぐ郵便受けを覗くほど、手紙が待ち遠しかった。
内向的な性格で周りに友人を作れなかった私の暗い青春を救ってくれたのは、その手紙を通じて生まれた友情だったのは確か。
最近は滅多に手紙を書かなくなった。勿論届く手紙もダイレクトメールぐらい。パソコンに向かいながら、物足りなさを感じている。
節分の風景
「年の数だけ豆を食べたら、この一年幸せに暮らせるんやで。さあお食べ」
父の言葉に従って、兄と競って大豆の炒ったのをボリボリ食べた。ふと父が豆を食べないのに気づいた。いま考えれば、四十何粒もいっぺんに食べるのはむちゃくちゃなのに。でも、幸せを約束してくれる豆なのだ。
「どうして食べないの?幸せになれないよ」「おとうさんは鬼になるからええんや」
とボール紙で作った鬼の面をかぶった父。赤いクレヨンで書きなぐった赤鬼はかっこよかった。「ウォーウォー」と手を上げて襲いかかる真似をする父から、「キャッキャッ」と逃げ回った。豆は家の外にまいた。鬼の面をかぶった父も一緒になってまいた。
「鬼は外!福はうち!」
最近豆をまく光景は身近に殆ど見かけない。恵方巻きの丸かじりに凌駕された感がある。どうも物足りない。鬼とはしゃぎ回ったあの行事は家族の絆作りにつながったのに。