こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

まちの図書館

2016年10月18日 00時16分25秒 | 文芸
やっと三分の二畝作りが完了。区画に分けて少しづつ野菜を植え付けています。



明日はまちライブラリーの見学とお話を聞きに、加西市観光課の案内で伊丹の図書館『ことば蔵』や大阪のまちライブラリー一号を見学する予定が急きょ入った。

 この間のウオーキングの時、途中立ち寄った播磨横田駅で知った『まちライブラリー』の情報。早速ネットで訊ねるとすぐに返送メールが。提唱者とのお話に加西市から来訪の予定だとか。こんな偶然またとあるものじゃない。市の観光課から電話を受け、すぐ見学の一員に入れて頂きました。



 我が家の一室に山と積まれた書籍や歴史資料、画集などの豪華本、希少本が、もしかしたら有効活用できるかもしれません。19歳で働きだした書店。給料の三分の一近く毎月本を買い漁っていました。もともと本が好きで選んだアルバイトです。面白くて、大学を目指す浪人の立場を忘れ正式に就職。店売員として充実の日々を送ったのです。

 断捨離を考え付いたときに、一番の問題が本の山でした。捨てるに捨てられず、今に至っていたのです。

 しかし、まちの図書館企画に出会ってしまいました。もうやる気満々。とにもかくにも、先輩施設を見学、体験話を聞く。そこからスタートです。また忙しくなります。ワクワクドキドキを再び味わえるかもと期待で胸が膨らみます。



 明日のために今夜は早寝です。そこでまた思い出の原稿で失礼させて頂きます。


先生との出会いに感謝して

 その夜、夜勤に出る支度をしていた私に電話が入った。
「遅くに悪いな。どうしても電話したくてね」
 その声を耳にしただけで、O先生の底抜けの笑顔が私の頭に浮かんだ。数日前に公演した私の舞台を観劇したとのことだった。
 O先生は、出会った当時、小学校の先生だったが、別に私はその教え子というわけではない。
 私が先生と最初に会ったのは舞台を通じてである。その頃、加古川の本屋に勤めていた私が知人に薦められて足を運んだ地元のアマチュア劇団の公演舞台に、O先生は出演されていた。初めて観る生の舞台は新鮮で感動的なものだった。O先生の演出だと後で知った。
 当時の私は大学受験に失敗し、仕方なく選んだ仕事である本屋の店員だった。工業高校の電気科を卒業した私には何ともそぐわぬ選択だったが、(どっちでもいいや)という投げ遣りな気持ちだったのは確かである。
 そんな形でついた仕事に真剣になれるはずはない。それに、生来内向的な性格の私に本の販売など向いているはずもなかった。もともと高校時代に落ちこぼれた格好の私には、なかなか前向きになるきっかけが掴めなかった。
 心滅入る日々を送る私は、目の前の感動的な舞台に引き込まれてしまった。観劇後、優柔不断な私には珍しく、パンフレットにあった『劇団員募集』にすぐ申し込んだ。
 アマ劇団の稽古場だった加古川市の青年会館の会議室で、私を笑顔で迎えてくれたのがO先生だった。それでも初体験とあって不安に駆られながらO先生と対峙した。
 私に劇団へ入団を志望する動機を聞かれたO先生は、何度も頷いた後、口を開かれた。
「演劇をやるぞ!って難しく考えないで楽しくやりましょ。やることを、仲間を、とにかく好きになるのが一番。好きこそ物の上手なんてたとえがあるけど、あれ、本当だよ。それに仕事も同じ。好きになったら、どんな仕事でも楽しいものになる。アマチュアって、仕事と両立させてなんぼのもんやから、君も頑張って今の仕事好きになることやで。うん」
 別に説教めいた口調ではなく、まるで友達と談笑するようなO先生に、私の緊張と不安はみるみる消えた。
「これ、美味いで。僕の好物なんや。どうぞ」
 とO先生が出してくれた饅頭を私は遠慮なく頬張った。普段の私には考えられない行動だった。O先生を前に私は自分の殻を脱ぎ捨てていた。いつも曇りがちの心が不思議にすっきりとなっていたのが、すぐには信じられなかった。ここならやれるとの思いがした。
 本屋を辞めて加古川を離れるまでの三年間、私はO先生に演劇のイロハと、先生が永遠のテーマにされていた人権を通じて、人間愛の素晴らしさを教えて貰った。そして、先生の言葉通り、私は仕事への考え方を改め、いきいきと働くようになっていた。
 三年目に、O先生が創作された脚本の舞台で全国青年大会に兵庫県代表で参加することとなった。三日も休みを貰えるかどうか、オズオズと本屋の社長に申し出ると、心配とは裏腹に、
「仕事のことは気にせんと頑張って来たらええ。兵庫県の代表なんて名誉やし、齋藤くんは日頃、よう仕事してくれてるよって、骨休みやがな。それにO先生からも丁寧な電話を頂いたぞ。君はえらい頼りにされているんやな。大したもんや。休みは三日でええんかいな」
 と、社長は喜んで休みを許可してくれた。
「仕事をないがしろにしとったら、アマチュアの活動は出来ん。仕事に懸命に励んでたら、自然と周りも認めてくれるんや。ええ仕事するから、ええアマ劇団の活動が出来るんやな」
 O先生の口癖だった。そんな先生の前向きな姿勢を私は見習って、あれ程イヤイヤ勤めていた仕事にやりがいを見出せるまでになった。その成果が、社長の理解を生んでくれたのだと、私には確信するものがあった。
 その後、姫路に移った私は、O先生とも無沙汰を余儀なくされてしまった。しかし、O先生に教わった演劇の魅力は、所変わっても私をしっかりと捉えて離さなかった。違うアマ劇団で頑張って、同時に仕事もそれに負けない程充実した。O先生の教え通りだった。
 十四年前、私は新しいアマ劇団を旗揚げした。私はリーダーとして、あのO先生と同じ道を走り始めた。O先生の教えを私は忠実に再現し、若い後輩たちに伝えた。
 落ちこぼれて自信を失い、劣等感に苛まれてビクビクしていたのが嘘みたいに、自信満々に生き始めた私の姿がそこにあった。
 出会いの日から三十年近い年月が経っているのに、O先生の声は、やはり若々しかった。
「いい芝居やったな。感動したよ。えらい頑張ってるんで、もう僕は嬉しくてね」
 O先生の声は弾んでいた。もしかしたら、先生は昔を思い出されていたのかも知れない。
 電話口に感無量の気配があった。
「これからも、先生に教わった感動創り、やって行きます。先生にそれ見守って貰わんと」
 私の言葉に嘘偽りはなかった。O先生の素晴らしい芝居創りを通じた人間教育、私はそれで再生したのだ。その再現を私の手でと、強く誓っている。
 O先生の電話が切れた後も、暫く立ち尽くす私の頭の中で、O先生への感謝の言葉が山彦のように響き続けた。出会えたこと、教えられたこと……その幸運と先生に、有難う!
                         (1998年掲載))
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