あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

秋の味覚

2015-03-29 | 
クライストチャーチの家に帰ってきてからの日課は犬の散歩である。
近くの公園まで朝と晩、自転車に乗っていく。
常にビニール袋は携帯して、人さまの家の前で糞をしたら拾い、そうでなかったら公園の中でゴミを拾う。
最近は犬も分かってきたのか糞はいつも牧場の中でする。
近頃公園に駐車場ができて車が入りやすくなった。
こうなるとすぐにゴミが増える。
マクドナルドのゴミが多いのは、それを食べる人の性質に関係があるのかもしれないな。

先日牧場の中を歩いているとマッシュルームを見つけた。
ビニール袋がそのまま収穫の袋となる。
マッシュルームはわりと固まって生えるので、一つ見つけるとその近くにいくつも生えている。
秋はきのこ狩りの時期だな。
今日で3日連続、毎日かなりの量のマッシュルームが採れる。
野外で食べ物を収穫する作業は楽しい。
人間の本能に基ずく行動なのである



このマッシュルームがとても旨い。
店で売っているものとは味が違う。
シンプルにバターで焼いただけのものがご馳走である。
しかもタダ。
散歩のついでにこんなのが採れるなんて、なんと良い環境なのだろう。
普段公園のゴミを拾っている自分にご褒美だな。
大地の恵み、ありがたくいただきます。
ありがたや、ありがたや。
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作る喜び

2015-01-05 | 
昨日仕込んだビールがコポコポと息をしている。
今回はドラフトビールにモツエカ産のホップを加えた。
どんな味になることやら。
前回仕込んだダークビールもそろそろ飲めるころだ。
ニュージーランドでは自分で飲む分なら自家製ビールを作ることが許されている。
街でもそういうのを専門に扱っている店もあり、それ用のキットも売っている。
さすがDIY、 do it yourselfの国だ。
というより自分で飲む分を自分で作ることが違法ということがそもそもおかしい。
アメリカでは家庭菜園で野菜を育て種を収穫するということが違法になるそうな。
庭でシソを作って、こぼれ種からそれを増やしている僕は犯罪者だ。
バカな世の中になったものだ。
幸いなことにニュージーランドではそんなバカげた話は出ない。
売れば違法だが、自分用にビールでもワインでも蒸留酒でも作れる。
僕も何故今までビールをやらなかったのだろう。
たぶんその時ではなかったのだろうな。
物事にはきっかけが必要でそれをタイミングと呼ぶ。
今年の夏は街中のフラットでタカとトモという若い夫婦と一緒に住んでいる。
タカはマッサージ師で日本では山伏だった。
僕の知らないことも知っており、深いところでいろいろと繋がっている。
そのタカがビール作りのキットを持っていて、作り方を習いながら自家製ビールを一緒にやっているわけだ。
樽から発酵した空気を抜くコポコポした音を聞いていると、ビールも生きているんだなあと思う。
「美味しいビールに育ってくださいね」
僕はビールに話しかける。
愛情がわく。
これぞ作る喜びなのだな。

そのビールの息づかいを聞きながら、鳥を捌く。
今晩のご飯は定番チキンライス。
これはタカとトモの結婚式の時に作っていったら大層喜ばれた。
トモは臨月で予定日は明日。
自宅出産をするということだが、未だ産まれる気配全くなし。
こんな時にフツーの人だったら心配でオロオロするのだろうが、トモはあっけらかんと散歩なぞしている。
母体が健康ということが大前提であり、自分の体調は自分が一番よく分かる。
予定はあくまで予定であり、いつ産まれるかどうかは赤ん坊が決める、というような考えを夫婦でもっているのが好ましい。
今日はトモのお母さんも出産に合わせ、日本からやってくる。
僕に出来ることといえば、美味しいご飯を作ってあげることぐらいか。
今日の仕事は午後に空港出迎えが一つあるだけなので、朝から鳥を捌きガラでスープを取る。
コツは丁寧に灰汁をとること。
澄んだスープでご飯を炊くのだ。
こういう作業は嫌いではない。
どちらかというと好きだ。
面倒くさいと思う時もたまにはあるが、楽しくストレス解消になることも多い。
好きなことをやり皆が喜んでくれる。
これぞ作る喜びであり、そういう作業を無心でやることが禅の教えでもある。
愛に基づく行動はそこに居合わす人が全て幸せになる。
誰も不幸せにならない。
ビールもここで生まれて幸せなんだろうな、とビールの息を聞きながら考えた。

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クレソン万歳

2014-11-25 | 
クレソンの存在に気がついたのは去年ぐらいだったろうか。
ルートバーンに行く途中の水路にびっしり生えている植物を見て、あれはクレソンじゃないか、と思ったのだが何となく止まることもなくシーズンが過ぎ去ってしまった。
だが今年は違う。
シーズン始まってそうそう、仲良くなったお客さんに尋ねた。
「あの、すみません、5分、いや3分だけ時間をもらえますか?」
「どうしたんですか?」
「いやね、実はここにクレソンが生えていましてね、いつか機会があったら採りたいなと思っていたんです。」
「どうぞどうぞ、やってください」
僕は水路にかがみクレソンを取った。
だが岸からでは手が届きにくい。
ドサッと取るには足を水に入れなくてはならない。
靴を濡らすのか。迷うこと2秒。靴は乾かせばよいことだ。
僕は水に足を踏み入れた。
一歩踏み入れてしまえば、あとは取り放題。
引っ張れば根っこごとスルスルと抜ける。
そうかクレソンは水草なんだな。
根っこはその場でちぎって捨て、あっというまにビニール袋いっぱいのクレソンが取れた。
その場でお客さんにも味見をしてもらう。
「本当だ、クレソンだ。美味しい~。いいですね、こんなのが簡単に取れるなんて。」
「でしょう。豊かとはこういう事なんです」
「うちにもちょっと貰ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ、大地の恵みはみんなでね」

さて、どっさり取ったクレソンをどうしようか。
知り合いや友人に配ってもまだまだたくさんある。
最初にやったのは白あえ。
豆腐が残っていたのでね。
クレソンはちょっとした苦味があるが、白あえにしたら臭みも消え、絶品。
次に試したのは鍋物。
これだと何の野菜か分からなくなってしまうな。でも旨い。
鳥の唐揚げを作った時にはどっさりと付け合わせ。
なるほど、これは肉料理に合うぞ。
生のシャキシャキ感と微妙な苦味が肉と一緒に食べることで中和される。
ううむ、やるなクレソン。
他にも、さっとゆでてゴマ味噌あえ。
これもうまい。

人間の欲とは果てしないもので、毎日のようにクレソンをたっぷり食べても、仕事の行き帰りに水路にびっしりと生えているクレソンを見ると採りたくなってしまう。
そろそろワラビも取れる時期で、今年はたくさん取って塩漬けにして保存しようと目論んでいるのだが、仕事が忙がしくなってきてブログの更新もままならない。
たかだがこれだけの文を書くのでさえ、気がついてみたら一週間以上もかかっている。
これからはもっと忙がしくなりそうで、ブログの更新もできなくなるかもしれないが、みなさん気長に待っていてください。
僕はクレソンを食べながら元気にやってます。
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カレーパン

2014-07-08 | 
パン作りというのが僕の鬼門だ。
何回か試してみたが上手くいかない。
レシピどおりにやっても美味しくない。
いや、本物の材料を使ってやっているから味はまずまずなのだが、膨らみが足りなくて旨くない。
味覚というのは食感も含めての感覚なのだと気がついた。
出来上がったパンが旨くないと、家族も食べてくれない、自分もあまり食べる気にならない。
鶏と犬が喜んで食べてくれるが、それもちょっとなあ。
というわけでパン作りからしばし遠ざかっていたのだが、最近ピザの台を自分で焼いてみたら旨くできたので再びパン作りに挑戦。
それもカレーパン。
何故カレーパンかと言うとカレーが余っていたから、ただそれだけ。



パン作りで重要なのは発酵である。
いつもはこれがうまくいかないが、最近はオーブンを使ってやるコツを覚えた。
こういった物作りは何回か自分でやって色々試して自分でコツを掴むというのがよい。
最初は人のレシピ通りのやってみるが、そこから自分なりにアレンジするのだ。
以前、ある人がパンを焼くのを見ていたが、分量なんぞ目分量で適当にバサバサとやってそれで美味しいパンが出来上がった。
これはその人の経験から来る業であり、その人に「どうやってやるの?」と聞いても「適当にやればいいのよ」という返事が返ってくるだけである。
僕の場合、最初はパン焼き機、ホームベーカーというヤツからスタートした。
これだって旨く焼ける人はいるが、僕はこれで何回か失敗して挫折した。
その時に感じたイメージは、自分の場合は自分の手で粉をこねて焼くのが良さそうだ。
漠然とそんなイメージが湧いたが、今はその時ではないとも感じた。



そして昨日、パンの神様が僕の所へ降りてきた。
物事は全てタイミングである。
上手く行く時はとんとん拍子で、材料も全て家にある。
子供は冬休みで家にいるので、一緒に作る。
ああ、こういうのいいですな。
結果から言うと、大成功。
油がそんなに古くないので油の切れもよく、外はカリっと中はもっちり。
そして中からよく味のしみこんだカレーがとろーり。
カレーがちょっとゆるいけど、晩御飯として食べるには上出来。
「お父さん、すごーい」と父親の株も上がる。
女房が出張中なので食べさせてあげられないのが残念だ。
今までの失敗はこの時のためにある。
失敗は成功の母とはよく言ったものだ。
「お父さん、写真撮ってあげる。ブログ書けば?」
とまで言われたらネタにしない手はない。
というわけで、初体験カレーパンの話でした。
ちゃんちゃん♪。

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喫茶古

2014-06-18 | 
今年も実家から新茶が届いた。
♪清水みなとの名物は~ お茶の香りと男伊達。
というぐらい僕の故郷は茶所である。
家の近所にもお茶畑はあったし、お隣さんと筋向いはお茶屋さんだった。
漫画ちびまるこちゃんで、新茶の時季に先生がホームルームで新茶を飲んだ話をするシーンがあり、娘が「お父さんの学校でも先生が話した?」と尋ねた。
「そんなの覚えてねーよ」と身もふたもロマンのかけらもない会話をした。
お茶という物が子供の頃から当たり前にある環境だったのだが、子供の頃にお茶を飲んで感動した思い出はない。
それよりも今こうやって地球の裏側でいただく新茶。
今もお茶を飲みながら書いているのだが、感動がある。
この一杯のお茶に人間の英知が詰まっている。
たかだか木の葉っぱを煎じて飲むだけのことだが、先人の知恵や試行錯誤というものが今のお茶を完成させた。
そしてたかだかお茶を飲むだけのことが日本では道となった。
これが文化というものだと思う。
そしてそれを感じ取るかどうかはその人次第なのである。



家ではお茶も飲むがコーヒーもよく飲む。
我が家ではコーヒーは豆で買ってきて、淹れる直前に豆を砕く。
手でゴリゴリと回すミルがありそれで砕きプランジャーかフィルターで淹れる。
ニュージーランドではエスプレッソマシーンが主流で、どこのカフェでもこれでコーヒーを淹れるのだが、店によっては薄くて不味いコーヒーが出る。
人気のお店はやっぱりコーヒーも美味いし、賞を取るようなバリスタの淹れるコーヒーは美味い。
何故ここまで?というぐらいに不味い店と美味い店で違いがある。
最近は日本人のバリスタが賞をよく取るらしいのだが、何となくそれは分かる気がする。
それは淹れる人の気持ち、心の持ち方ではないか。
お茶やコーヒーを淹れる手順なんてそうそう変わるわけではない。
だがその一杯を美味しく淹れようという気持ちがあれば、本当にちょっとしたところでコツがあるのだろう。
それが決定的な味の差になって現れる。
茶道の真髄はおもてなしの心だ。
たかが一杯の茶を淹れるだけだが、媚を売るのでなく相手を喜ばせようと気遣いをし、自分が手に入れられる最高の物を用意する。
活躍している日本人バリスタは本人が気づいているかどうか知らないが、心の奥に茶の湯の心を持っているのだと思う。



実家から送られてくるお茶は、僕よりも味にうるさい父親が選んだもので、日本では最高級のレベルの物で当然値段も高い。
僕は一番高いお茶から順に飲む。
高い物を勿体ないから取っておこう、というのではない。
高い物だから美味しいものだから新しいうちに飲むのだ。
お茶はある程度は保存が利くが、時間が経てば品質は落ちる。
旨い物を旨い時に飲むのはその物に対する礼儀、そしてそれを作っている人に対しての礼儀だと思う。
よくありがちなのだが、美味しい物をいただき、ありがたさのあまり戸棚の奥に入れてわすれてしまい、賞味期限が切れてしまったり、古くなって香りが飛んでしまったり。
これはどこの家でもあると思う。
日本でもあると思うが、海外に住んでいると日本食が貴重なのでその傾向は著しい。
「普段飲むのに、そんなに良い物はもったいない」という声にはこう返そう。
普段飲むものだから、美味しいものを美味しい時に飲むのであり、毎回毎回、一期一会の心でお茶の味を楽しむのだ。
「お客様が来た時のために取っておきたい」という声には、来るか来ないか分からない人の為に良質の物を無駄にすることはない。
そこに見栄はないか?媚はないか?
来客があれば、その時その場にある最高の物をお出しするのが茶の湯の心である。
その場に最高級のお茶があればそれを出すし、それが無かったら次のランクのお茶を出す。何も無かったら水を出す。
とことんシンプルだ。




喫茶古という禅の言葉がある。
「まあ、お茶でもどうぞ」という意味の言葉だがこういう話だ。
昔の禅僧、趙州和尚の所へ教えを乞いたいと修行僧がやってきた。

和尚 「あなたはここへ来たことがありますか?」
修行僧「はい、あります」
和尚 「喫茶古(さようか、ではお茶でもどうぞ)」

またある時、別の修行僧がやってきた。
和尚 「あなたはここへ来たことがありますか?」
修行僧 「いいえ、ありません」
和尚 「喫茶古(さようか、ではお茶でもどうぞ)」

この様子を見ていたお寺の院主が和尚に尋ねた。
「和尚さんはここへ来たことがある人にも初めて来た人にも『お茶をどうぞ』と同じことを言われますが、何故ですか?」
和尚はその問いに答えず「院主さん!」と呼ぶ。
院主が思わず「はい」と答えたその瞬間、和尚は「喫茶古(まあ、お茶でもどうですか)」

この時、院主ははっと悟ったのだという。
この何故悟ったかというのが禅問答の意図なのだそうだが、解釈はこうだ。
やってきた修行僧そして寺の院主と、立場が違う3人に対して和尚は「喫茶古」とだけ言って接した。
これは和尚の相対する分別、あちらとこちら、過去と現在、自分と相手、そういった全ての分けるという考えを切り離した境地。
そこには富んだ人も貧しい人もなく、男も女もなく、敵味方でなく勝ちも負けもなく、自分も相手もない。
一切の分別が無い、無心の境地からの「喫茶古」なのだと。
今の世の中に必要なワンネスの教えに通ずる物、というかワンネスそのものだな。
僕が自分に課している課題は「相手によって自分の態度を変えない」
誰に対しても無心で真心をもって接して「喫茶古、まあ、お茶でもいかがですか?」と言いたいものだ。



というわけでクライストチャーチ在住の皆さん。
今なら我が家で最高に旨い今年の新茶が味わえます。
ここらで一服いかがでしょう?
時間のある方はご連絡あれ。
「喫茶古」
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庭のニワトリは旨かったぜよ。後編。

2014-05-27 | 
さていよいよ楽しい調理の時間だ。
先ずは手羽を塩コショウでシンプルに焼いてみた。
感想は・・・・・・・・・固くて固くて。
肉が歯で噛み切れない。
ゴムを噛んでいるような、という形容があるがまさにそれ。
現代人のあごが退化して噛む力が弱くなったのか、それともやっぱり肉が固いのか。
僕はかろうじて一切れ飲み込んだが、娘も女房もギブアップ。
食べ残しはそのまま犬のココのご飯になった。





人間には知恵がある。
固い肉ならば食べやすいようにすればよいのだ。
残りの肉を骨から外しそれを包丁で叩いて挽き肉にした。
そこに卵としょうがとネギを加えつくねを作った。
最近寒くなってきたからな、こんな時はみんなで鍋をやりましょう。
というわけで友達のサムの家でつくね鍋。
サムはブロークンリバーのマネージャーをやっている人で日本人の奥さんに1歳の男の子がいる。
家の近所に住んでいて家族ぐるみでなんやかんやのつきあいがある。
ちなみに深雪がこの前日本へ一人で行くのに一緒に飛行機に乗って付き添ってくれたのがサムだ。
パケハ(白人)だが(というのも偏見なのだが)味覚は鋭く料理の腕も良い。
庭で野菜を作っていたり、ビールも自家製と、なにかと馬が合う人なのだ。
肝心のつくねの味は、これがもう絶品。
包丁で叩いてあるので固さはなく、肉自体の味が良くて変なくせもない。
骨からとったスープも旨く、野菜と鳥のシンプルですっきりした味だ。
野菜でも肉でも健康なものは味も良い。
結局5人で鶏2羽分の肉を食いきってしまった。





自分の鶏で楽しみなのが臓物。
薬とか人工的なものを一切与えていない、ヒナの時から育てた鶏の内臓である。
食べる前から旨いのは分かっているが、どうやって食おうかなと考えていた。
そんな時にオノさんからキャンプの誘いがあり、アーサーズパスに1泊のキャンプに行った。
そこはシェルターという避難小屋で、暖炉がありおおっぴらに焚き火ができる。
車で入れる場所なので、豪快に七輪で炭火焼バーベキューで食っちまおう。
その晩は庭のネギ焼き、ピーマン焼き、焼き茄子、そしてカルビ焼肉、地元の肉屋の荒引きソーセージ、そこに我が家の鶏のレバーとハツと砂肝の塩焼きという豪勢な焼肉だった。
お酒もビールから始まり赤ワインへと、そしてたまたまそこへ居合わせた山歩きのオジさん3人を巻き込んで飲めや食えやの宴となった。
そこで出会った人達の一人は日本人で、10歳ぐらいの時にNZに来て40年ぐらいという大先輩。
しかも話を聞くと静岡の清水出身、それも草薙という僕が通学の時に通っていた所の出と、まあ驚きの出会いがあったのだ。
その人はオークランドに住んでいる写真家、スタジオを持っていて普段は忙しいが1年に何回かこうやって友達と山歩きをするそうな。
まあ向こうもびっくりしたろうね。
アーサーズパスの国道から離れた普通の人が行かないような場所へ来てみれば、日本人二人が七輪で純日本式炭火焼肉をやっているのだから。
「こんな所で清水の人と出会うなんてねえ」
酔っ払って何回そんな事を言ったのか覚えていないが、これも人の縁。不思議なものだ。
話がそれたが、臓物は文句なく旨かった。
砂肝もハツもレバーも存在感はありクセがない。
各部位ごとの旨さの違いという物が堪能できた。
これも健康な鶏ならではのものだ。





鶏の肉は堪能したが、まだこれで終わりではない。
2羽分のガラが残っている。
大きな寸胴鍋にガラを入れダシを取った。
一緒に煮込んだのは庭にたっぷりとある長ネギの葉っぱ、そして卵の殻も一緒に煮る。
卵の殻はダシも出るしアクも取るのだ。
1日かけてコトコト煮て、アクを丁寧にすくう。
上に溜まった油もすくってニワトリの餌に混ぜてしまう。
それを漉して綺麗なスープができた。
そのスープで炊き込みご飯。山小屋が忘れられない味と称したチキンライスだ。
お米はジャスミンライスで、しょうがとにんにくをたっぷり入れての我が家のチキンライスはこれまた絶品だ。
その晩のスープはワカメとネギを入れたかき玉スープ。こちらはあっさり塩味。
この鶏ガラスープの味も、普段肉屋で買う鶏ガラと違う。
コクがあってクセがない。
さすが我が家の鶏だ。骨まで好い味が出るぜ。
このスープにさらにキャベツの芯や人参の切れっぱしなどの野菜、ニンニク、しょうが、月桂樹などで野菜のダシを取り、それでカレーも作った。
こうなると鳥自体の味は分からなくなるが、それでもベースが旨いのでカレーも旨い。
たっぷりスープを取って、使い切れない分は冷凍保存。
これでラーメンを作ってもよしシチューもよし、何にでも使えるスープなのである。

スープを取った後のガラは犬の餌。
家の犬は鳥の骨も普段はバリバリと食っちまう・・・のだが今回はどうも勝手が違うようだ。
骨が固いのか噛み砕けないようで、きれいに骨だけ残した。
確かに残った骨を見ると固い。
市販の鶏肉の骨とは明らかに違う。
ナルホドね。
卵の殻が弱かったのでカルシウムが足りないのかと、鶏の餌に貝殻を砕いた物を混ぜて食べさせた結果がこれか。
まあこの固い骨も庭の隅に放っておけば風化して土に還るか、もしくは思い出した頃にココがカリカリとかじるだろう。
実際に家の犬は食べ残した骨をどこかから引っ張りだしてきて時々かじっている。

かくして2羽のニワトリは全て僕と家族(犬と鶏を含む)それに友人達の胃袋に収まった。
名無しの2羽が産んでくれた卵は何百個になるか。
これも我が家の食卓だけでなく友人達の食卓をも賑わせてくれた。
関わる人が全て幸せになる、というのが真実の愛である。
逆を言えば不幸せな人が存在するシステムとは愛に基づいていない。
今回この肉を食べた僕達家族や友人達は全て笑顔で美味しいと食べてくれたし、卵の貰い手も皆喜んでくれた。
これを読んでいる人の中にもこの卵を食べた人がいるだろう。
こうやって僕達の生は他の生き物の死の上に成り立つ。当たり前の事だが、一番大切なことだ。
それをこうやって自分の手で何から何までやることにより再確認できた。
今はただ、この2羽に感謝をするのみである。
ありがたや。





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庭のニワトリは旨かったぜよ。前編。

2014-05-25 | 
タイトルどおりニワトリを食っちまった話である。
それだけだと一行で終わってしまうが、そこはそれ、あーたいろいろありまして、涙あり笑いありの日常日記の始まり始まり~。

僕は自給自足を目指す生活をしている。
だが今の世の中で完全な自給自足は不可能だ。。
無人島に一人で洞穴に住んで、というならば話は別だがクライストチャーチで人並みの生活をしてとなると自給自足は無理だ。
第一、電気を作れない、ガソリンも作れない、その他もろもろ、何かしら誰かが作ってくれた物を消費して僕らの生活は成り立っている。
でも完全な自給自足は無理でも何かしら自分に出来る事でそこに向かう事はできる。
ここが大切、『自分に出来る事』これは自分自身を見つめる内観の第一歩である。
自分で方向を決めたら行動。とにかくやってみる。
常に行動ありき。
見ているだけでは野菜は育たない。
我が家では野菜はほとんど庭から取れるし、せっけんも作っているし、卵も自家製である。
味噌作りなども自分でやったこともあったが、いかにせん自分の行動には限りがある。
なので味噌は友達が作っている味噌を買わせてもらっている。
他にもやっている事はいろいろあるが、できるだけ自分で作ったものを消費して生活をしようとしているわけだ。



動物性たんぱく質を自分で取りたいなと常々思っていた。
猟銃を持って山へ行きたいが、これ以上趣味を増やすわけにはいかん。
魚を釣るという選択肢もあるが、僕は釣りはヘタクソだ。
近所にいる鴨とかをマオリ式に捕まえて食っちまおうかと真剣に考えたこともあった。
やるならそれよりも身近にいるヤツ、家のニワトリからだろう。
ボスのミカンが殺されて、残ったのは5羽。
最近まで3個卵を産んでいたが今は2個。
5羽のうち、卵を産みそうもない2羽を締めることにした。
ニワトリを絞めるのは初めてではない。
以前飼っていたニワトリが卵を産まなくなったので締めて羽根をむしるところまでやったのだが、どうしても食う気になれずに友達のマサにあげてしまった。
その鶏には名前を付けてしまったのが敗因だ。
教訓 自分が食べる物には名前を付けるべからず。
今回の鶏は名無しだし、買って家に来た時に「いずれお前達を食べます。それまで卵を産んでください」とお願いしてあるので多少気が楽だ。
今回は締めて捌いてそれを調理して食うところまで、全て自分でやってみようと心に決めた。



あたりをつけた2羽を捕まえて、羽根をクロスして縛り足を縛り木にぶら下げる。
最初は首を持ち上げていた鶏も頭に血が回ると首がだらんと下がる。
その頭を掴んで包丁で首元を切るのだが、羽があるし皮が固いので恐る恐るやっていても切れない。
「スマン、オマエ達に罪はないが許しておくれ」
覚悟を決めてエイっと切る。
鶏はほとんど暴れずにたらーっと血を流し静かになった。
僕はその間、手を合わせ拝み、うろ覚えのお経を唱えた。
さっきまで元気だった鶏が僕の一存であの世に行った。
鶏でさえこうなのだからもっと大きな動物を殺す人の心境はどうなのだろう。
ほとんどの人は自分で食べるものを自分で殺すことなく生活をしている。
僕もそうだ。
だがどんな人でも小さな虫なら殺す。
それに植物を簡単に殺す。
植物の死、虫の死、鶏の死、動物の死、そして人間の死にどんな違いがあるのだろう。
僕達の生は数々の生き物の死の上に成り立っている。
全ての人に自分で殺して食え、とは言わない。
だが殺生があり、その上に自分の命があることを忘れてはいけない。





感傷に浸るのもつかの間、作業に入る。
二羽のニワトリを木から下ろし、バケツに熱いお湯を入れそこに漬けて羽根をむしる。
むしる、毟る、ひたすらむしる。
むしるという言葉は、何か小さくて密集しているものを引き抜く作業だな。
草むしりが一般的だが、毛をむしり取るなんてのはちょっと痛そう。
鶏の羽根をむしるのは、あまりやる人は多くないはずだ。
そんな事を考えながら、ひたすら、一心不乱、一生懸命、我武者羅にむしる。押忍。
これを書いて初めて知ったのだが、むしるという字は毟るなのだな。
小さい毛か、ナルホドね。
経験、是すなわち財産。
40半ばでもいろいろな経験をするのは素晴らしいことだと思う。



ここから解体作業である。
鶏の頭と足を切り落とせば、見た目にはもう肉屋で売っている鳥肉と変わらない。
頭と足は火を通して、犬のおやつに。
肛門の周りを切り取り、はらわたを抜き出す。いわゆる中抜き。
そして内臓の処理。
これはあまり気持ちの良い作業ではないがやるしかない。
これも経験。
見よう見まねでやったのでレバーをつぶしてしまったがなんとかできた。
そして二羽めを解体中に思わぬ発見。
なんと内臓から卵のできかけのものがころころとでてきたのだ。
あちゃー、やっちまったか。
この種のニワトリは一度産まなくなると再び産む事はほぼない、と何かで読んだのでてっきりそれだと思って締めてしまったが・・・。
しかも黄身の大きさから言って、あと一日二日で卵になったようなものなのに。
悔やんでも仕方ない、出来かけの卵も全て食おう。
そういえば子供の頃、近所の肉屋で卵のできかけのものとか卵管とかを煮しめて売っていたな。
アレを作るか。
内臓を取り出したら大まかに分ける。
自分が食べる物と食べない物。
自分が食べる場所は、砂肝、レバー、心臓、卵管と卵。
それと別にモツをはじめ、その他どろどろした部分。
モツは開いて中のウンコを洗い流しきれいにして、その他と一緒に茹でて小さく切って生き残った鶏にあげた。
これは人道的に賛否両論あるかもしれないが、この場合は自分が法律である。
僕の考えでは鶏達はすでにあの世へ逝った。
あとはたんぱく質の塊だ。
それを無駄なく使うのが自分のやり方である。



解体作業は続く。
まるの鳥を捌き、手羽、胸肉、腿肉、ガラに分けていく。
この辺までくると普段やっていることなので勝手は分かる。
だが2羽の鳥を捌くのは手間がかかる。
臓物をさばけば臭いし、それを洗ったり、それなりの容器を使って洗ってを繰り返し、とにかく手間はかかる。
2羽の鳥を絞めてから調理に使えるように捌くまで、なんだかんだで1日作業だ。
そうやって考えると店で売っているのを買うのって楽だ。
それにこの労力を考えたら安いと思う。
物を高いと言って嘆くか、安いと思い感謝するか。
僕は後者でありたい。



後編へ続く
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モツ煮

2014-05-16 | 
秋が深まり体が冷えると温かい物が恋しくなる。
何かむしょうに根菜が食べたくなり突発的にモツ煮を作った。
昔は肉屋で「モツを買いたい」と言ったら「そんなもの食うのか」と笑われたが、今では近所のアジア系の肉屋でモツだってスジ肉だってその他いろいろ売っている。
モツは生なので何回も茹でこぼしアクを取る。
そしてしょうがとニンニク、昆布、隠し味に唐辛子を入れる。
今年は温室で唐辛子も育ててみたが、これがうまくいって夏が終わった今でも赤い実をつけている。
取りたての唐辛子はピリッと辛くて旨い。
大根は植えたばかりでまだ小さいので買ったが、ニンジンとゴボウ、長ネギにシルバービートは庭からである。
家のゴボウは泥臭さがない。
あまりにアクがなくて存在感がないぐらいだ。
花が咲いたら種を収穫しようと思っていたのだが花芽が出なかったので掘ってしまった。
今年は一株だけだったが来年はもう少し多めに育ててもよいな。
人参は大根と一緒に育てたもの。
大根は花芽が出始めたときに収穫をして、周りの人参はそのまま育てた。
ネギもサビ病になったが、なんとか上手く育ってくれた。
これからは花芽が出るのでそろそろ収穫の時期だ。
ネギを収穫したらその場所はニンニク畑となる。
シルバービートは相変わらず雑草のようにどこでもある。
そして我が家のシルバービートはアクがないので、菜っ葉のところだけほうれん草のようにも食べられる。
鉄分の多い野菜だし、シルバービート万々歳だ。



そういった庭の野菜を間引きを兼ね収穫。
それらを煮込んだモツ煮である。
長ネギの白い所を細かく刻んでモツ煮の上にふわりと乗せて七味唐辛子をパラリ、そしていただきます。
これは旨いぜよ。なんまらうまくて、でらうみゃーで、バカうまいずらよ。
やはりモツ煮は寒い時期のものだな。
春爛漫の料理ではない。
季節にあわせて料理を楽しむなんてのは四季の移り変わりがある国なればこそ。
これが日本の文化であり心である。
ニュージーランドは南と北の違いはあれど緯度も日本と同じぐらいで季節の変わり方も日本に似ている。
気候風土というものは文化と密接な繋がりがある。
常夏の場所で汗をダラダラかきながら食うモツ煮よりも、外で木枯らしが吹く中で食うモツ煮。
熱燗なんかチビリとやったりしてね。
やっぱこれでしょう。
そういった季節を感じる心。
これが大切だなと思う。
寒いのがイヤだという人がいて、それはそれで君の立場で言えば君は正しいからいいでしょう。
僕は寒いからこそ感じる物があると思う。
無性に、本当に突発的にモツ煮を食いたくなったのもその時に寒かったから、という単純明快公明正大の理由があったからだ。
みんな旨い旨いと喜んで食べてくれて、ブログのネタにもなった。



そうそう、この季節になるとカボチャが安くなってくる。
かぼちゃは保存が利くので一年中あると思いがちだが、かぼちゃが旨いのは今だ。
夏の間に育ったかぼちゃの葉っぱが枯れる頃に収穫して熟させる。
我が家もコンポストから出たかぼちゃが育ち、夏の終わりに収穫をしてガレージに放り込んでおいた。
かぼちゃのへたが茶色くなりかける今が食べごろ。
旬である。
旬の物は旨い。
たくさんできるので安い。
季節の変化と共に体も変わる。
その体に必要な栄養が旬の野菜にある。
柿が赤くなると医者が青くなる、とは昔からの日本の言葉で、トマトが赤くなると医者が青くなるという言葉もある。
それぐらい旬の物を食べていれば病気にもならないということだ。
人間の体というのは常に変化をしている。
女の人には月のものなんてのもあるし(男にももちろん月の影響はあるけどガサツなので気づかない)季節によって体も変わる。
その季節に合う物を体が求める。
それが旬の物だ。
自分の体、季節ごとに採れる物、そしてその味付け、そういったものが全部まとまっての和食の文化なのである。
それはここニュージーランドに居ながらにしても、自分の心次第でしっかりと感じることはできる。
そして戻るところは庭の野菜に感謝。
僕達の血や肉になり、僕らが食べなかった部分は土に還り、また巡る。
野菜たちよ、ありがとう。
またお願いしますね。

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ニョッキ

2014-05-10 | 
「今日は何を食べたい?」妻に聞いた。
「ニョッキがいいな。トマトソースで。」
というわけで我が家の晩飯の話である。
ニョッキを作るのは初めてだが、まあなんとかなるだろう。
今やネットでレシピはいくらでも出てくる。
『簡単おいしい』という言葉が売りのサイトが真っ先に出てくるが、僕が求めるものは『きっちり作って美味しい』というものだ。
調理に電子レンジを使うものや、最初から化学調味料を入れるようなレシピもある。
そりゃ簡単だろうに、でもな・・・、というのがガンコオヤジの言い分だ。
その中にはきちんと作るレシピも入っているのだが、たくさんありすぎて情報の渦に飲まれてしまう。
これも時代の流れか、とブツブツ言う親父なのである。



さて、先ずはソースから。
今日はソースを2種類、友達からもらったゴルゴンゾーラ(イタリアのブルーチーズ)があるのでそれでクリーム仕立てのソース。
もう一つはシンプルなトマトソース。
お子ちゃま(と言うと娘はむくれるが)にはゴルゴンゾーラはきついからな。
先ずはニンニクを剥くところから。
我が家はニンニクをいくつもしばってぶら下げていて使う分だけそこから取っていくのだが、まもなくニンニクの植えつけ時期になるので大粒のニンニクはそれ用に取っておく。
小粒のニンニクをオリーブオイルで炒め、香りが油に付いたらトマト缶を投入。
そこに入れる月桂樹の葉っぱも唐辛子も庭のものだ。
そして煮込む。

昼間は畑仕事をしていたのだが、その時に雑草のように生えていたジャガイモを収穫。
よしどうせならこの取れたてのジャガイモでニョッキを作ってやれ。
夕方になり雨も降り始めて野良仕事は終了。
早い時間から晩飯の仕度にかかる。
まずジャガイモを皮のままゆでる。
その間に鍋に生クリームを温めゴルゴンゾーラを溶かす。
味見をしていたらワインを飲みたくなった。
ちょうど開けかけのピノノワールが残っていたので、そいつをチビリチビリとやり始めた。
こうなると音楽も必要だな。
最近は自分のプレイリストがあり、そこからランダムに流れる音楽を聴く。
ちなみに僕のプレイリストはバラエティに富んでいるというのか節操がないというのか、沖縄民謡から泥臭いブルースそして世界の民族音楽に飛び懐メロへそしてレゲエ、というようにとにかくなんでもありだ。
それを機械はランダムにかけるので坂本隆一の戦場のメリークリスマスのようなしっとりしたピアノのすぐ後にブルーハーツのパンクロックなんかかかると「そう来ましたか」などとつぶやいてしまう。
スピーカーは音質が良く、そんな音楽を聞きながらワインをチビリ。



残っていたパルメザンチーズに友達が作ったカリンのペースト、それをクラッカーに乗せてなどと至福の時に浸ってしまう。
僕はキッチンドリンカーでお酒を飲みながら料理を作るのも好きだ。
トマトソースに生クリーム、そしてパルメザンチーズを削って入れたら酸味がマイルドになり美味くできた。
これまたワインに合ってしまう。このソースだけでもワインが飲める。
そうしながらも作業をする。
茹で上がったジャガイモを裏ごしして卵黄と小麦粉と塩、とういのが今回参考にしたレシピ。
シンプルでいいな、捏ねすぎないのがコツか、ナルホド。



そして副菜にコーンとベーコンの炒め物。
コーンは生のコーンをナイフでバラバラと取る。
芯に近い所はニワトリの餌にしてあげよう。
それから緑の物も欲しいな。
ブロッコリーがそろそろ食べごろだからちょいと庭で取ってくる、そのついでにパセリも。
この距離感がこれまた良い。
取ってきたブロッコリーを洗っていたら青虫発見。
オーガニックだからこういうのもありだ。
これもニワトリの餌箱へポイ。
キッチンには犬用の箱とニワトリ用の箱と堆肥用の箱があり、物によって入れ分ける。
ほとんどの残飯はニワトリが食べてしまうし、野菜くずはコンポストにするのでゴミはほとんど出ない。
うちのニワトリはいいものを食べているので健康だ。
健康なニワトリからは健康な卵が生まれる。
ブロッコリーを茹でて、自家製マヨネーズを添えてと、そうだ、頂き物の鹿肉のサラミもあったな。
これまたワインがすすんでしまう。



女房殿が仕事から帰ってきてニョッキを茹でてソースにからめて、いただきま~す。
お味の方はと言いますと、これが美味い。
そんな我が家のジャガイモで作ったニョッキなど不味いわけがない。
美味いことは美味いのだが、けっこう手にこびりついたりして無駄も多い。
ソースに絡めてしまうのでジャガイモ本来の味も薄れてしまう。
取れたての新じゃがは色々こね回すよりシンプルに塩茹でがいいのかもな。
そんなニョッキ初体験の話でした。


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味覚の秋

2014-03-09 | 
秋は収穫の季節である。
今朝、犬のココと近くの公園に行ったらあちこちにマッシュルームが生えていた。
よく雨上がりなどマッシュルームを拾っている人がいたが、今日は僕の番のようだ。
10分ぐらいで食べきれないほどのマッシュルームを収穫した。
崩れてしまったものや開ききったものは庭の芝生に捨てておけばそこから生えてくるだろう。
犬の散歩がてら食べ物を収穫なんて、なんと恵まれた環境だろう。



5日間の休みを終え、今日はクィーンズタウンへ戻る。
その前に庭の野菜を収穫。
ニンジン、豆、かぼちゃ、きゅうり、ズッキーニ、茄子、卵、唐辛子、インゲン、トマト。
我が家で食べきれない分はクィーンズタウンへの友達にお土産だ。
大地からの物はみんなで。
物でもなんでもシェアする、分け合うということはこれからの世界の指針となる。
その際、一切の見返りを期待しないことが重要である。



そうしているうちに女房殿がシュークリームを作った。
家のシュークリームは絶品である。
食べたい人は・・・我が家へ来てください。
さてお土産をたくさん持ってクィーンズタウンへドライブ。
明日から又ルートバーンである。

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