あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

鹿肉万歳

2013-10-11 | 
西海岸に住む若き男、タイ。
ヤツがついに念願の鹿を仕留め、その肉を持ってきてくれた。
タイ曰く
「鹿を仕留めて解体していたら、なんか胃袋みたいなのが二つあるんですよ。あとで聞いたらそれは子供が出来かかっているものだって。その時は気が付かなかったんですけどねぇ。ちょっと考えちゃったんですよ、撃たなかったほうがよかったかなあって・・・」
「仕方ないよ。だってその時は分からないだろ?その死んだ鹿、そして生まれかかった子供の命まで美味しくいただきましょう」
可哀そうと言えば可哀そうだし、野蛮と言えば野蛮である。
だが僕達人間は、動物にしろ魚にしろ植物にしろ、他の命を奪って生きる。
僕達にできること、いや、するべきこととは奪った命を無駄にせず美味しく食べることだと思う。
その晩はタイの彼女のキミと共に鹿肉のたたき。
これをしょうが醤油とにんにく醤油でいただいた。
生の肉はほんのり甘く、臭みは一切なく絶品だ。
スモークもやってみたのだが、こちらは火の通し具合が難しく、味は可もなく不可もなくといった具合で、ヒレ肉はたたきに限る、という結論にたどりついた。
その晩は3本目のワインの途中まで記憶があるのだがその後の記憶は完全にふっとび、女房が言うには同じことを100回ぐらい繰り返ししゃべり、全く会話にならず、嫌がるココにちょっかいを出して唸られ、トイレで吐き、あげくの果てにそのあたりで寝てしまうという醜態をさらけだしたそうな。
まさに親父道まっしぐらだな。反省、反省。
翌日、タイとキミは我が家の卵と野菜をどっさり持ち、西海岸に帰っていった。
前回に西海岸に行った時にはヤツの家に立ち寄り野菜を置いて魚と肉をいただいた。
今回は鹿肉と野菜の物々交換。
物々交換というのはお金というものが生まれる以前から人間がやってきていることである。
社会が大きくなり複雑になると難しいが、小さいコミュニティや友人同士ならばこれが一番。
なんといってもお金が付随しない物の行き来というのは気持ちの良いものなのだ。



タイがお土産に持ってきたものは人間用だけでなく、犬のココにもご馳走である。
鹿のスネ肉付き後ろ足2本、そしてすじ肉は2キロ分ぐらいあるか。
前回シャミーの足をそのままあげたら喜んでかぶりついていたが、今回はそれほどではないらしい。
最近は生の肉も好きではないようなのでオーブンで焼いてあげたら喜んで食べていた。
前回シャミーの解体を見ていて思ったのだが、大きな動物を捌くのは楽ではない。
細かい所はもういいや、という気持ちになってしまう。
人間の労働力には限界があるのだ。
犬がいればそれが餌になるのだがタイのところには犬がいないので、うちに持ってきてくれた。
そうやって残ったすじ肉も、もう一手間かけて筋と肉に分けてみたら1キロ近い肉の量になった。
筋は煮込んでココの餌。肉は煮込んでカレー。
残ったのは骨だけで、これもココがガリガリと噛み砕き骨の髄をペロペロと舐めている



その道のプロ、という言葉がある。
ピアノのプロがポロンとならす音と僕がならす音は違う。
ギターのプロが弾くとそのへんのギターでもいい音が出る。
スキーでもトッププロの人の滑りは見ていて感動する。
餅は餅屋、という言葉もあるとおりプロにはそれなりの何かがある。
タイからいただいた鹿肉のバックステーキ、まあ一番美味しい部分がもう1回分残っているので、こいつをプロにやってもらおう。
というわけで友達のマサ一家をご招待した。
マサは現役の板前、こちらで言うシェフ、その道のプロである。
年も同じで、馬が合うというのか気を使わないで家族で付き合える間柄だ。
この日は彼に鹿肉のたたきを作ってもらった。
オヤジ2人で台所に立ち、あーでもないこーでもないと言いながら料理を作るのは楽しい。
「聖さん、ネギある?」
「あるよ。長ネギもあるけどあさつきも庭にあるよ」
「おお、いいね。じゃあ、ちょっとそれを取ってきて。」
「がってん了解」
「長ネギの白いところも使いたいんだけど」
「まかせとけ」
彼のやり方は肉の塊に塩とコショウそしてすりおろしたにんにくをぬりこむ。
熱々に熱したフライパンで肉を押さえつけるように焼き、氷水に入れて熱を取る。
それを薄くスライス。
戸棚から綺麗な皿を出して盛り付け。
口で言うのは簡単だがその動作一つ一つがプロの技である。
それを褒めちぎるとこう言う
「いやさ、そんなのこっちから見れば聖さんがパウダーでエイトだっけ?あれをやるようなものだよ」
そんなもんか。
本日のメインはすき焼き。
庭の野菜は長ネギ、シルバービート、そして春菊。
春菊はこぼれ種からガンガン育ち、雑草のように生えている。
そして、すき焼きと言えば生卵。
卵が新鮮すぎて黄身と白身がよく混ざらない、という超ぜいたくな悩みがある。
肉は近くの韓国人経営の肉屋がすき焼き用の肉を切ってくれる。
ニュージーランドでは日本人も韓国人も中国人も仲良くやっているぞ。
ご飯は友達がわざわざ日本から持ってきてくれた新潟産のこしひかり。
ご馳走である。
ご馳走とはその場にある物で最高の物をだす、もてなしの心。
それが海外で暮らしながらも失わない日本人の魂だ。
料理は旨くワインに合い、(今回は飲みすぎないよう気をつけていたので)会話は弾み、食後はマサ親子とギターとハーモニカのセッションとなった。
マサの子供カイトは子供ながら(失礼な言い方だが)ギターが上手く、ソロなどもガンガン弾ける将来有望なミュージシャンなのだ。
そのうちに彼ら親子、そして謎の日本大好きなブルース爺ちゃんとのセッションもあるかもしれない。
そのときにはきっと話が一つ書けることだろう。



こうやって鹿はココを含め僕らの胃袋に収まった。
ふと思ったのだが、野生の鹿と放牧とはいえ飼育された鹿は同じではないと。
肉の味も違うだろうが、もっと深い意味で肉の持つエネルギーの違いか。
そこにはその鹿が育った環境、今回で言えば僕が大好きな西海岸のあの森。
そしてそれを仕留める為の人間の努力、ライフルの練習や何回も森に足を運ぶ努力。
仕留めた後、解体する人の気持ち。頭だけ持って帰って剥製にするのか、無駄なく食べられる場所は全部食べようとするのか、などなど。
そういったいろいろな要素があり我が家に鹿肉が届けられた。
ありがたや。
言葉に想いが乗ることにより言霊となる。
自動販売機に「ありがとうございます」と言われてもうれしくない。
そうあることが難しいから『有難う』なのだ。
自分を含め家族も友人も様々な事柄に生かされている。
同時に自分も人を育てている。
複雑に絡み合った目に見えない想い。
それは人間だけではなく、動物や野菜、マクロで見れば地球や宇宙までも一つとなるワンネスの思い。
それに気がつけば自分が何をするべきか見えてくるだろう。
庭にはココがかじった鹿の骨が転がっている。
ここまでとことん食えば鹿も成仏できたことだろう。
タイが初めて仕留めた鹿の命、ありがたくいただきました。

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料理

2013-06-07 | 
最近は家の仕事が楽しい。
天気の良い日は庭の仕事が進むし、天気の悪い日は家の中での仕事をする。
先週はぐずついた天気が続いたので、料理に専念した。
好きな音楽をガンガンかけて料理するのは楽しいことなのだ。
秋が深まると根菜が美味しくなる。
庭でも大根、人参、そしてごぼうが採れたのでモツ煮をした。
アジア系の肉屋が近くにあるので、モツやすじ肉なども手に入る。
昔、クィーンズタウンの肉屋でモツを売っていないか聞いたら「おまえはそんな物を食うのか!」とびっくりされた。
アジア系の移民が増えると需要も増えるのだろう。
今では簡単に手に入れられるのがうれしい。
生のモツなので何回も茹でこぼし、臭みを取る。
にんにく、しょうが、ネギの葉っぱなどと一緒に味噌で炒め、根菜を入れ水を足し煮る。
シルバービートの茎なども一緒に煮てある程度煮えたら味を整える。
上にネギを刻んで乗せ七味唐辛子をパラリとかけて、いただきます。
モツ煮はやっぱり寒い時期が旨いなあ。

秋が深まるこの季節は梨が旬である。
旬のものは栄養価も高いし、果物が持っている『気』も高い。
そして嬉しいことに安い。
主夫の仕事としての保存食作りも進む。
いつもこの時期にやるのは洋ナシのコンポート。
洋ナシを剥いて種を取り、白ワイン、レモン汁、蜂蜜、砂糖、シナモン、のシロップで10分ほど煮る。
これを熱いうちに煮沸したビンに詰める。
こうすれば常温でも1年ぐらいは持つ。
それ自体でもすっきりとしたデザートにもなるし、アイスクリームの横に添えてもよい。
朝ごはんのシリアルと一緒に食べても良し。
我が家の定番保存食である。
近所の八百屋で山のように買っても2ドル。
自分で野菜や果物を作っている身なので思うのだが、この値段だったら作る人はイヤになってしまうだろうな。
しかし消費者としては安いのはありがたい。
そこで、うーむと唸ってしまうのだ。
洋ナシの木をニワトリコーナーに植えてあるので再来年ぐらいには収穫できるかな。
以前、リンゴのコンポートも作ったが、味は可も無く不可もなく。格別「うんめぇぇ」というものでもなかった。
コンポートは洋ナシに限る。
梨と言えば日本の梨、豊水も最近はよく見るようになった。
我が家の食べ方は、皮を剥き塩で揉む。
塩はもちろんブレナムの天然塩である。
それを洗って一口大に切って食べる。
娘が大好きなので、今の時期は毎日和梨を食べる。
こんなのも庭に木があったらいいなあ。
おっと、こうなればいいなあと思うと実現してしまうぞ。





秋が深まり冬が近づくこの次期、先週はクライストチャーチでもあられが降った。
去年もこの時期に作ったのが新巻鮭。
これは寒い時でないと駄目だ。
原材料は鮭と塩。
塩はもちろん海の天然塩。
一度この塩の旨さを味わうと、科学的に精製された塩を使えなくなる。
そもそも塩というのは一番基本的で一番大切な調味料である。
そこには母なる海のミネラルがたっぷり含まれる。
そして科学的には究明されていない塩の『気』だってあるような気がする。気のせいは『気』のせいなのだ。
塩というのは古来、調味料だけではなくお清めとか厄払いとかにも使われる。
嫌な客が帰った後に塩をまくというし、お相撲さんだって塩をまく。
殺菌効果もあるので、保存食には事欠かない。
たかが塩。されど塩なのだ。
安いからといって精製塩を使うか、ケチケチしないで本物を使うか。僕は後者である。
百均が普及して生活のレベルが下がったと聞くがおおいに頷ける。
いかにお金を使うかというのは、その人の人間性に顕れると思う。
自分も若い頃にはいろいろな所でお金をケチったが、今は何となく違う。
使う所には喜んで使う。これが浪費とは違う。
お金を使うということはなくなってしまうのではなく、ありがたく払わせてもらうことなのだ。
友達の所から送られてくる味噌、塩、塩麹。
本物を味わう喜びは自分と家族への投資である。
そんな海の塩で干した新巻鮭。
これを炭火で焼いて、炊き立てのご飯と一緒に・・・。
なんという贅沢。
なんというご馳走。
鮭は新鮮なものを刺身で食うのも旨いが、こうやってじっくり時間をかけて熟成させるとたんぱく質が分解されアミノ酸となる。
まあ、味が深くなるわけだ。
素材の旨みを最大に活かした日本食の真髄ここにあり。





お菓子も作る。
最近のヒットはプリン。
これはなんといっても卵が命である。
シンプルなだけに素材の旨さが要求される。
我が家では毎日5個の卵が生まれる。
家族3人で毎日5個は食べきれない。なんとまあ贅沢な。
ことあるごとに友達の家に持っていったりするが、それでも余る。
「そんなにあるなら売れば?」という声がどこからろもなく聞こえてくるが、僕はこれを売る気はさらさらない。
卵の大量消費にはお菓子作りが良い。
女房殿はシュークリームを上手に作る。絶品であるが、僕は作るのを見ていて無理だと思った。
自分が無理と思えば無理だ。なので自分ができることをやる。
この時期かぼちゃが収穫できるので、小さいかぼちゃをクリーム状に煮て裏ごしし自家製かぼちゃプリンもできる。
娘はかぼちゃの食感が好きではないが、かぼちゃプリンなら食べる。
今回はシンプルなプリンを作り、娘と一緒にプリンアラモードを作った。
プリン?あら、どーも、ではないぞよ。
「プリンアラモードとはプリンの周りに飾り付けをすることだ。これは美的センスがいる。」
僕は娘に偉そうに言う。親父はいつも偉そうだ。
「お父さん、美的センスがあるの?」
「ない」
自分を知ることも大切だ。
娘に生クリームを泡立てさせる。最近はそんなこともできるようになった。嬉しい限りである。
トッピング用にチョコレートのふりかけみたいなものも用意して、生クリームをしぼるのはどんな形がいいのだとか、ワイワイとやるのも又楽し。
本来ならイチゴとかブルーベリーとかを乗せたいのだが、今は秋。というわけで季節のフルーツを用意した。
そうやってできたプリンアラモード。
感想はと言うと、甘さ控えめにプリンを作ったのでアイスクリームと一緒に食べるとプリンの微妙な甘さが感じられなくなった。
でも楽しく美味しくいただければ、それでいいのだ。





天気の良い日は屋外料理。
今回は塩麹豚肉の燻製。
豚のばら肉を塩麹に漬けて薄く切って焼くと旨い、というアイデアを味噌メーカーからいただき、さらにそれを燻製にしてみた。
ついでにこの夏に取れたニンニクもやってみた。
チップはマヌカ。この香りがまた良い。
犬のココがクンクンとにおいを嗅いでいる。
犬の嗅覚は人間の6千倍だというから、こんな匂いはたまらないだろうな。
あれ?だけど臭い匂いも6千倍なのかな。まあいいや。
結果、火の通り加減が分からなかったので長くやりすぎた。
その分きっちりと燻製され、酒のつまみにいいのができた。
この火加減というのも今後の課題となるだろうな。
こうなると、熱を通さない煙だけで燻す冷燻という装置も欲しくなる。
これなどは自作で出来そうなのだが、なにぶん目の前には温室計画が控えているので、又暇を見つけてやることにしよう。
こうやってやりたい事リストがどんどん増えていく。





ここ数日の料理についてダラダラと書いてしまった。
食について僕はかなり真剣である。
かと言って、オーガニックの物しか食べないのか?と問われれば、そうでもない。
たま~にはインスタントラーメンだって食べるしジャンクフードだって食べることもある。
それでも普段の食生活では、かなり健康的で本物志向で美味しい物を食べている。
だがこういった本物志向も一歩間違うと宗教のようになってしまう。
『こうでなければいけない』という思い込みほど危ないものはない。
僕は自分のやりたいようにやっているだけであり、人に押し付ける気はさらさらない。
よく「~~をしたほうがいいよ」とか「何々をすれば?」という人がいるが僕は言わない。
「さあ、あなたも今すぐにニワトリを飼い始めなさい」などとは言わないのでご安心を。
何をどうするかなどと言うのは、それこそ本人の判断と行動。
料理とか食に限らずどんなことでも、やる人は黙っていてもやるし、やらない人は周りが何を言おうがやらない。
行動というのは、その人の心の奥から湧き出るものが原動力なのだ。
人に言われたから始めた行動で失敗すれば「あの人が言ったから」などと言い訳をするだろう。
人に言われたことがきっかけで、自分の判断で始める。
そこには言い訳はなく、失敗さえも自分の経験となる。
どんな場合でも、君の立場で言えば君は正しい、わけである。
でも本物の旨さというのは共感できるものであり、時には感動をも産むものである。
それが分かる人、食べ物を通して幸せの波長が合う友人へ、これからも卵や野菜を持っていくだろう。
健全で美味しい食べ物を供給するという人間にとって大切な仕事。
それが自分がやることだから。


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カレー

2013-05-04 | 
最近、家の仕事に精が出るが今回は料理の話。
僕にとっては料理をすることは苦痛ではなく楽しみである。
今回カレーを作りながら思ったのだが、自分は料理を楽しんでいるなあと。
自分にとって料理とは、ストレスを発散するものであり、瞑想の場であり、小宇宙である。
気に入った音楽をかけながら、ジャガイモを剥いたり肉を切ったり、そういった作業が好きなのである。
先ずはスープから。
今回は犬のえさ用に買った豚の骨。茹でて灰汁をすくい、月桂樹の葉っぱを入れる。
月桂樹は植えて3年ぐらいか。剪定した葉っぱを日に干したら香りがとても良い。
料理が好きな人にプレゼントしたら喜ばれるだろう。
セロリは、そのまま食べるには小さすぎるが、香味野菜として使う分ぐらいは取れる。
庭に出て収穫。刻んで入れる。
その他、キャベツの芯、卵の殻、ブロッコリーの芯、ネギの葉っぱ、パセリの茎も入れてスープを取る。
必要な物を必要な時に必要なだけ採れる、というより自然からいただくという感覚か。

BGMはボブデュランのTimes they are changing。
スープを取った野菜はコンポスト、骨はココにあげて、次は具である。
肉はポーク。
僕は日本風のカレーはポークカレーが一番旨いと思う。
隠し味に使うリンゴとも相性が良い。
しょうがをたっぷり摩り下ろしスープの中へ。
ニンニクは自家製。これもたっぷり刻んでスープへ。
人参もその場で収穫。大きいものもあれば小さい物もある。
葉っぱはその場でちぎり、庭の片隅の穴へ放り込む。
それはやがて土になる。
人参の泥を洗い皮を剥き適当な大きさに切る。
ジャガイモと玉ねぎは生産が追いつかないので買ってきた物を使う。
そしてズッキーニ。
今年は3株植えたのだが、どれも立派に育ち消費が追いつかない。
深雪が好きでないのがその理由である。
これを2本フードプロセッサーで細かく切って入れる。
こうすれば娘も食べる。
隠し味にウスターソース、そしてベースにガラムマサラ。
食品庫を覗いて見ると飲みかけの赤ワインあったのでこれも入れてしまう。
カレーの良いところは残っている食材、傷みかけている食材で出来ること。
食べ物を無駄にすることが大嫌いな僕にはピッタリである。
我が家では食べ物に無駄がほとんどない。
傷んだ食材は犬とニワトリの餌になるし、それ以外は堆肥となり土に還る。
食べる物を捨てるという事を日本人ならば潜在的に嫌うのではないだろうか。
そしてそこが日本人の芯でもあり、これからの人類が向かう姿であると思う。
同時に膨大な量の食べ物が捨てられている今の日本の社会は狂っているとも思う。
それは社会のシステムがおかしいのであり、ゆがんだ社会の一環だとも言えるだろう。
自分は食べ物を捨てる事はもったいないというDNAを持っているので、我が家の循環サイクルを大層気に入っている。

このあたりでBGMをチェンジ。ボサノバなど聞きながら料理を続ける。
具が柔らかくなったら、カレーのルーを入れる。
今は市販のものを使っているが昔はこんなものはなかった。
僕が初めてニュージーランドに来たのは25年も前になるが、当時は醤油さえ手に入れるのが大変だった。
ましてや日本のカレーのルーで作ったカレーなんてご馳走だった。
カレー粉は売っていたので日本のカレーの味に近づける為、ソースを入れたりコンソメを使ったりベジマイトを入れたり試行錯誤をしたものだった。
それが今やSBのゴールデンカレーはあるし、秀樹感激ハウスのバーモンドカレーだって、こくまろだってジャワカレーだってある。
ただし日本より値段は高いが、日本から持ってくるのだから当然だ。
そこに物がある状態しか知らなければあることが当たり前だが、無い状態を知っていればあることに感謝が生まれる。
カレーのルーにもありがたやである。
本当はゴールデンカレーが旨いのだが、そこはそれ、ちょっと高いので我が家では業務用のジャワカレーを使う。
昔はカルダモンやクミン、ターメリック、フェンネル、チリ、クローブ、シナモン、ナツメグ、コリアンダー、そういったようなスパイスを使う本格インドカレーを作ろうか、とスパイスを買い込んだこともあったが、そうなるときりがない。
それに家の近所には旨いインドカレーのお店がある。
餅は餅屋、本格インドカレーはインド人にお任せあれ。
話は飛ぶが先日ショッピングモールのフードコートでインドカレーを食べた。
これが不味かった。
バターチキンは甘ったるいばっかりで味がなく、ラムのカレーは風味もなにもあったもんじゃない。
日本人がやってる日本食で不味い店があるのと同様、インド人がやってるから美味いカレー屋というわけではないようだ。
まあこの店は二度と行かないし近所のカレー屋の偉大さを再確認できたのでよしとしよう。
カレーはインドから始まりそれがイギリスへ行き日本へ入って日本風になった料理だ。
根源は同じでもインドのカレーと日本のカレーは違う。
どっちがいいとか、邪道とか本道とかいうものでない。ただ違うのだ。
どちらかを正しいと言うことは、一方が間違っているということにつながりやすい。
それが社会を歪めている。
違いを認めることこそが、これからの世界を照らす道である。
違いを見つけたら否定をしない。
自分に合わなければ放っておく。
魂が進んだ人達でも合う合わないはある。
合わない物や人を否定しないで『自分は自分、相手は相手』と距離をおくのである。
不味いカレー屋に行かないで、近所の美味いカレー屋に行けば良いだけの話だ。

さて我が家のカレーはいよいよ佳境に入る。
BGMはクラプトンのクリーム時代のアルバム。
ルーを入れ弱火で煮込み、味をみながら最終調整に入る。
あまり辛くすると娘が食べられなくなるので注意しながら、辛さと酸味と甘みと塩気のバランス取り。
ヨーグルトやチャツネ、トマトペーストやソースなどで味を整える。
味が決まったら、鍋ごと保温できる容器に入れ味をしみこませる。
これで完成。
こうやってできたカレーは、そりゃ美味いさ。
カレーライスにしてもよし。
また次の日のカレーが美味い。
娘のお気に入りはカレートースティー。
トーストサンドイッチの具をカレー、中にチーズをちょっと入れる。
パンはこんがり焼け、中のカレーからとろけるチーズがとろーり。
たまりませんな。
たかがカレー、されどカレー。
カレーの世界も奥が深いぜよ。



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お弁当

2013-04-15 | 
どうも僕は一つの記事を書き始めるとダラダラと長くなり、まとまらなくなってしまう。
なので今回はさくっとお弁当の話。
最近は僕が娘のお弁当を作る。
今日の弁当はコロッケ弁当。
コロッケは昨日の晩御飯の残りである。我が家のコロッケは旨いぞよ。
材料はジャガイモと人参と玉ねぎと豚挽き肉。シンプルだが手間はかかる。その分旨い。
両端は普通のコロッケ、真ん中はカレーコロッケである。
梅干をご飯の隅にちょっとだけ入れる。日本人だなあ。
野菜は庭のプチトマトとブロッコリー。
朝採りブロッコリーをさっと茹でてお弁当に入れる。
こういうことをできるのが嬉しい。
新鮮というのは最高の調味料でもある。
食べ物というのは手を抜けば楽に作れるし、味もそれなりだ。
こだわりを求めれば、それこそきりがない。
最高の卵かけご飯を食べるためにニワトリを飼う、となってしまう。
だが茶の湯の心でもある『そこにある物で最高に美味しいものを出す』というコンセプトで作ったのがこの弁当、コロッケ弁当である。
弁当は娘が喜んで学校に持っていった。
これがこだわり親父の愛である。
さて明日は何弁当にしようかな。

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今日の食卓

2013-01-24 | 
今日の晩飯のメニュー。
鳥の手羽と大根、人参、こんにゃく、豆の煮物。
大根は初物。種から育て食べごろになったので収穫した。
葉っぱは鳥があまりに喜んで食べるので、鳥にあげてしまった。
人参も好調。まだまだ取れる。
豆はランナービーンズといってツルでからまりながら2mぐらいの高さに育つ。
さやは20cmぐらいの長さになり、さやごと食べられ、味はインゲンからくせを取ったようなもの。
今年はこれが育ちに育ち、食べきれないぐらい、たわわに実っている。
鶏の手羽から出たダシが野菜にしみこみ旨い。

ズッキーニとピーマンのオーブン焼き。
ズッキーニは今年3株植えたのだが、どれも良く育ち立派な実をつけてくれる。
ピーマンは鉢植えでやってみたところ一つだけできた。
ズッキーニは二つに、ピーマンは四つに切りオーブン皿に並べ塩とコショウ。
その上にパン粉とパルメザンチーズを粉にしたものをかけてオリーブオイルを多少垂らしてオーブンで焼く。
隙間があったので、収穫したばかりの生ニンニクも焼いてみた。
どれもシンプルに旨い。

メインはチキンカツ。
近くの肉屋で衣をつけた状態で売っているのを買ってきた。
これを網の上に載せ、油を少したらしオーブンで焼く。

味噌汁はシルバービート。
市販のシルバービートはアクが強く、好きでないという人が多いが、我が家のシルバービートは土がいいのかアクが全く無い。
そして雑草のごとくあちこちに生えている。強い野菜なのだ。
駐車場のすみにまで生えている。
しっかりと数えた事はないが、多分50株ぐらいはあるだろう。
当然ながら食べきれない。
そういうのを放っておくと花を咲かせ種を大量につける。
それを空いている所にばらまいておくと勝手に芽が出て育つ。
煮物、炒め物、和食、洋食、中華、なんでもござれ
今日はこの葉っぱで味噌汁にした。

そして今日一番の目玉はご飯である。
これは日本にいる友達が実家で作っているものを送ってくれた。
我が家では米は土鍋で炊く。
まあ、この米のうまいこと。
ツヤが違う。色が違う。炊き上がりの立ち方が違う。そして味が違う。
日本のお米は感動的に旨い。
深雪なぞは「なくなっちゃうのがもったいなくて食べられな~い」などと言っている。

子供にも旨いものは分かる。
子供に健全で美味しい物を食べさせるのは大人の役目である。
子供にこそ最高の物を食べさせなくてはいけない。
子供だからといって手を抜いてはいけない。
もちろん子供好みの味、大人好みの味はあるが、どんなものでもきっちりと手を抜かずに作る。
それが大人が子供に捧げる愛だと思う。
僕は家で取れた野菜をよく友達にあげる。
それも子供の居る家にあげる。
子供が喜んで僕の野菜を食べた、などと聞くと単純に嬉しい。
なぜなら子供とはその家だけのものではなく、地球の財産だからだ。
地球の財産である子供に健全な食べ物を提供する。
何も間違っていない。
そして何の迷いもない。
自分ができる範囲で、自分がやるべき事をやる。
愛に基づいた行動は、それに関わる全ての人が幸せになる。
人だけではない、家の野菜だって卵だってその方が幸せだ。

家の野菜、日本からの米、近所の肉屋の肉。
旨い物をバランスよく食べ、今夜も幸せである。
ありがたや、ありがたや。



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2012-06-24 | 
前回のツアーの帰りにサーモンを買ってきた。
マウントクックの氷河の溶け水で育ったサーモンは絶品なのである。
いつもボクはそこを通る度にサーモンを買うのだが、今回は奮発して3匹買った。
そのうちの半身はスモークサーモン。
捌いて骨を取り塩コショウで下味をつけ、スモーカーと呼ばれるステンレスの箱で燻すこと15分。
身にはほんのりと火がとおりジューシー。
マヌカの香り良く、シンプルな一品である。
これは家族で招待されたお好み焼きパーティーで作った。

その翌日は友達家族、同僚を招いてサーモンの宴である。
頭と骨、尻尾は煮出してダシを取り、大根、人参、白菜、ネギ、豆腐を入れて汁物に。
味噌仕立ての具沢山の汁である。
皮はパリっと焼いて塩味で皮せんべい。これがビールに良く合うのだ。
一枚半の身は刺身に。これでもくらえ、というぐらい刺身を作る。
生は文句なく旨いが、熱々のご飯に埋めてご飯の熱でほんのり火が通った身も違う旨さがある。
アボガドのスライスとサーモンにちょっとマヨネーズをのせて、なんてのもありだ。
かまの部分やハラモ、尻尾の近くは照り焼きに。味付けは醤油とミリンのみ。
これまたご飯が進んでしまう味である。
大人6人子供3人犬1匹がサーモンをたらふく食べた。
物でもなんでも分け合えば余る。奪い合えば足りなくなるのだ。

サーモンを買ってきた時は、犬もご馳走にありつける。
ダシをとった後の頭や尻尾や骨は喜んで食べるし、照り焼きを作った後に鍋にこびりついた焦げ目もお湯を足し、冷ご飯を入れて一煮立ちさせるとご馳走になる。
鍋にこびりついたところには鮭の旨みが充分残っている。
犬に鍋を舐めさせればきれいになるだろうが、散歩の時に羊の糞を舐めたりしているその口で家庭用の鍋を舐めさせるのはイヤだ。
なのでゴムベラを使い犬用の皿に移す。こうすればムダ無く鍋もきれいになるし、犬も喜ぶ。
主夫の知恵だ。
我が家ではサーモンが1匹そのまま消えてなくなる。
全くムダが出ない。
とてもよろしい。



その翌日は余った刺身を醤油に1日漬けてヅケをつくり、それで再びサーモン丼。
醤油に漬けるとまた少し違う旨みになる。
炊きたてご飯の中にヅケを埋めて、海苔をパラパラ。
これまたご馳走である。
ご馳走とはそこにあるもので、最高に旨い食べ方をすることがご馳走なのだ。
さすがに鮭が3日続くと、もういいかな、と思う。
だがあと1匹まるまる残っている。
それならば、女房のリクエストにおこたえして新巻鮭だ。
我が家ではニンニクを編んで使う分だけそこから取っていくのだが、使いきったものがワラのように残っている。
これをエラの所に通せばぶら下げられる。
こういうように材料が揃っている時は「やりなさい」というサインでもある。
やり方は簡単。
塩をまぶしてぶら下げておくだけ。
塩はブレナム産の天然塩。
かなりの量の水が出るので、うちでは洗濯機の横の流しの上に木で梁を作りぶら下げた。



放っておくこと数日。
水分はあらかた流れ落ち、実は締まって良い感じである。
塩鮭というのは、当たり前だが調味料は塩だけ。
これ以上はない、というくらいシンプルな味付けである。
その分、素材の旨さで味に違いが出るのではなかろうか。
さらに女房からリクエストが出た。
「これだったら炭火で焼きたいわね」
やりましょう。その場にあるもので最高のやり方で作るのがご馳走ならば、手間暇を惜しまずにやるべき。
週末、時間もあるのでボクは炭で火を熾した。
いつものことながら炭火を熾す、というのは手間がかかる。
ガスバーナーで炭を焼き、ある程度赤くなったら七輪に移し、うちわでパタパタとあおぐ。
電気やガスのようにスイッチ一つでポンというわけにはいかない。
だがこういうことを知るからこそ、電気やガスの有難みが分かる。
当たり前の事に感謝の気持ちは生まれない。
そして手間をかけて炭火で焼いた物はとにかく旨いのだ。
せっかくの炭火なので庭から長ネギを掘り出しネギも鮭と一緒に焼く。
基本は遠火の強火。
鮭から滴る油で辺りはもうもうとする。
犬のココが物欲しげに周りをウロウロする。
そりゃ人間の何百倍も嗅覚が強かったら、この匂いだけでもたまらないだろうな。
首尾よく魚とネギが焼きあがったが炭はまだ残っている。
サツマイモがあったので網を一段高くして、火を弱め上から覆いをして焼きイモだ。
サツマイモはじっくりと火を通すと甘みが増す。



さて今日は純和食だ。
土鍋で炊いたご飯。大根の味噌汁。鳥と大根と昆布の煮物。そして塩鮭である。
おもむろに鮭を一口。
当然のことながら旨い。
何日かおいたので、たんぱく質がアミノ酸に分解されて旨くなっている。
塩加減は腹の辺り、身の薄いところはちょうど良い。
背中の辺りは気持ち塩が薄いか。
女房曰く「上品な味の塩鮭」だ。
普通に食べるには良いが、おにぎりに入れるには塩気が足りないだろう。
自分ではけっこう塩をまぶしたつもりだったのだが、まだ足りなかったか。
課題は残るが、これも自分でやってこそ。
経験に勝る財産はない。
そして炭火で焼いたネギは甘い。野菜の甘さだ。
娘に食べさせたが、あまり好きではないようだ。
「じゃあ、食べなくていい。俺が全部食べるから」
家の庭のネギは、味が濃く、とことん甘い。
取ってすぐに焼いていただく。調味料は新鮮さ、だけだ。
感動的に旨い。大地の恵みである。
味噌汁も旨いし、煮物も旨い。炊きたてご飯も旨い。
派手さはないが立派なご馳走だ。
ニュージーランドにいながらにして和食をいただく。
今日もまた数々の命をいただきました。
ありがたやありがたや。
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悪魔の飲み物。

2012-05-29 | 
最近の自分の流行はコーヒーである。
女房と一緒にスーパーで買い物をしている時に、その場でコーヒー豆を挽く売り場でなんとなく買ってみた。
なんとなく、これは直感であり、やるタイミングでもある。
家に帰り、プランジャーで自分でいれてみた。
これがなかなか旨く、その辺のカフェで下手にエスプレッソマシーンでいれるよりも美味く、香りも良い。
というわけでコーヒーという悪魔の飲み物、ドラッグにはまってしまった。
悪魔の飲み物?ドラッグ?そんな大げさな、と思うかもしれない。
だが時代背景や場所が変われば、コーヒーは悪魔の飲み物で禁止されていた時もあった。
さらに時代をさかのぼれば宗教の儀式の時だけ使っていた時もあった。
それに世間で認識はないが、コーヒーはドラッグである。
たくさん摂取すれば中毒や禁断症状もある。
世界中でどれだけの人が「朝起きてコーヒーを飲まないと目が覚めないの」と言っているか。
知らず知らずに中毒になり、胃を壊している人もいる。
世の中のドラッグには、良いドラッグも悪いドラッグも無い。
正しい使い方か間違った使い方があるだけだ。
例えばヘロインだって痛み止めとして使う分には依存症はないが、ハイになるために使うと中毒になる。
コーヒーは強力な興奮剤なので夜寝る直前に飲むべきものではないが、朝起きて飲む分には頭が冴えて良い状態となる。
ボクも長いドライブの眠気覚ましに飲む事もよくある。
カフェインとは初めてコーヒーから分離されたのでこの名前がついているが、カフェインとコーヒーの作用は異なる。
コーヒーは精製されたカフェインやその他カフェイン含有植物より強力なのだ。
コーヒーも過剰に取れば毒になるが、ほどほどに飲む分には嗜好品となる。
そういう意味もこめてボクはコーヒーを悪魔の飲み物と呼ぶ。
ちなみに、人間が認識していないドラッグとしては、チョコレート、お酒、タバコ、お茶、コーラなどがある。

さて、コーヒーである。
もともとエチオピアの遊牧民が、ある木の実を食べると家畜が跳ね回るというのを見つけて、自分達も食べてみたら彼らもはしゃぎだした、というのが事の起こりらしい。
興奮剤なのだからそうなるのだろうが、そのうちに炒った豆から香味豊かな飲み物を作り出した。
人間ってすごいな。
今では世界中の暖かい所ならどこでも栽培され、地域の名前がコーヒーのブランドになるのも珍しくない。
昨日買ったコーヒーはニューオーリンズという名前で、ブルースが好きなボクが名前につられて買ったもので酸味と苦味が強かった。
女房曰く「たくさん飲むと飽きる味」なるほど、そんなものかもしれない。
前回試したのはアイリッシュというもの。
甘い香りが香ばしく、味はまあまあ。
娘もこの香りは好きなようだ。
色々なものを試してその日の気分でブレンドしても面白そうだ。
量り売りなので欲しい分だけ買えるというのも良い。
あらかじめパックで詰めてあるものより割高だが、値段だって2倍3倍になるわけではなし。
それより今度は何を試してみようかとワクワクしながら売り場を見るのが楽しい。
淹れ方だって色々ある。
家ではプランジャーを使うが、紙のフィルターを使ったり、パーコレーターを使ったり、中には何時間もかけて抽出する水出しコーヒーなんてものもあるそうな。
それによってマメを挽く粗さも変わってくる。
嗜好品は奥が深い。
ボク自身のコーヒーの思い出は南米コロンビアで飲んだコーヒーの味が忘れられない。
コロンビアの片田舎の町では背中に大きなタンクを背負った売り子が街を歩く。
注文が入るとタンクから伸びてるホースで紙コップにジョーとコーヒーを入れてくれて一杯20円ぐらいだった。
そのコーヒーが旨くて安かったから何杯も飲んだ覚えがある。

世の中、良い話だけではない。
常に表に出てこない真実はいくらでもある。
コーヒーだってそうである。
漠然と知っていたが、大資本の搾取と貧しい農民の話。
ネットでちょっと調べればすぐに出てくる。
先進国や企業は、資本主義にのっとっているから消費者へのサービスには気を使っても、生産者の貧困には目をつぶっている。
貧困にあえぐ農村では、出荷されたコーヒーがどのくらいの価値になるのかなど見当もつかない。
ボクが美味しいと飲んでいるコーヒーも、元を突き詰めれば不当に安いお金で買われたコーヒー豆なのだろう。
そしてこれはコーヒーだけではなく、紅茶とか綿花とか米とかいろいろな物であることは容易に想像できる。
悲しいけれど、これが世界の現実だ。
そして街のスーパーには手ごろな値段のコーヒーが並び、ボクの家でも常時コーヒーがある。これも現実だ。
だからと言って「もうコーヒーは飲みません」などと言う気はない。
自分でコーヒー豆を買いに、コーヒー農園へ行けるわけでもなし。
最近ではフェアトレードというものがあるそうだが、いまいちピンと来ない。
それを買えば済む、という問題ではないからだ。
問題の根底はもっともっと深いところにある。
結局のところ、ボク個人が貧しい農家を直接救えることは何もない。
でもボクの手元にはコーヒーはある。
自分にできる事は、見も知らないコーヒー畑で働く人のことを思いながら、目の前のコーヒーを美味しくいただくことなんだろう。
一杯のコーヒーを前にして、コーヒーの木に、収穫した人々に、美味しいコーヒーが飲める環境に、ありがとう。
そして、いただきます。
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美味いもの

2012-04-01 | 
ツアーからツアーへという仕事が一段落して、庭仕事をする時間ができた。
夏の間に育った野菜を収穫する。
ゴボウを植えたのは初めてだが今年は二株育った。
その大きな葉を茂らせたゴボウを掘り起こした。
根は太く直径5cmぐらいはあろうか。そこからいくつもの根が枝分かれしている。
これは食べ応えがありそうだ。
泥を落とし、深雪のお友達の家にもおすそ分け。
食べ物でも何でもそうだが、奪い合えば足りなくなる。分け合えば有り余る。
泥を落としたゴボウは庭のニンジンと一緒にきんぴらごぼうに。絶品である。

今日のメインはサーモンである。
この前のツアーの帰りに一匹買ってきた。
いつもなら刺身と照り焼きと汁物で食べるのだが、今回は趣向を変えてみた。
まず魚をおろし頭や尻尾などのあらで昆布と一緒にダシを取る。
ダシを取ったあらは、身をはずして犬のごちそうに。灰汁もすくって犬のごはんに混ぜてしまう。
犬を飼い始めてからムダが全く無くなった。一匹の魚が我が家では跡形も無くきれいになくなってしまう。なんかうれしい。
そこに庭のごぼうとにんじん、大根を入れて煮る。
根っこの野菜が煮えた頃、庭からシルバービートと太ネギを取ってきて入れる。
野菜が煮えたらほぐした鮭の身と豆腐を入れ、味付けはネルソン産の味噌。
野菜たっぷり、具沢山の味噌汁ができあがる。
ここまではいつもと同じだが今回は半身を干物にしてみた。
きれいにおろした半身に塩をたっぷりまぶす。
塩はブレナムの塩田からとれた天然塩である。
これを天日で干すこと数時間。
それをフライパンで焼く。
七輪で炭火で焼けば究極の鮭の塩焼きができるのが分かってはいるが今日は普通にフライパンで焼く。
皮はパリッと身はジューシーに。焼きすぎないように気をつけて塩焼きができあがった。
それを大根おろしでいただきます。

土鍋で炊いたご飯。野菜たっぷりの味噌汁。鮭の塩焼き。きんぴらごぼう。
全てが旨く、全てが完璧である。バランスも良い。
あまりに美味いので食いすぎに注意である。
ご飯はふっくら炊け、一粒一粒が立っている。
味噌汁は鮭と昆布のだしが効き、野菜の甘みに味噌のしょっぱさと麹の旨みが絶妙のバランスだ。
きんぴらごぼうは、ごぼう特有の泥臭さがなくにんじんの甘みが絡み、甘辛ソースに唐辛子がピリッと決まった。
鮭の塩焼きは言わずとも知れたこと。
太陽の光が魚の旨みを増すのか。普段とは違う旨さがある。

太陽の光というのは全てのエネルギーの源である。
日本語でもお日様、お天道様と呼ぶ。
人だって、動物だって、魚だって、野菜だって、太陽なくしては育たない。
だが地球がもう少し太陽に近かったら暑すぎて生き物は住めないし、遠かったら寒くてダメだ。
その絶妙なバランスの上にこの惑星はある。
そのバランスにそった太陽の力を借りて、美味い物を作る。
以前読んだ本で、鯵の干物の話があった。
最近では干物を作るのに工場内で熱風を送り乾燥させるんだそうな。その過程では干物は太陽の陽にさらされない。
昔ながらに天日で作った干物と工場で作った干物のどちらが美味いか、という話だった。
ボクが育った静岡県の清水という町は港町で、近所に魚屋がいくつもあった。
学校へ行く途中にも魚屋はあり、道路脇で鯵や秋刀魚を干していた。
手間はかかるが、太陽光というそこにあるエネルギーで食べ物を作る。エコである。
太陽の光というものは何か食べ物を美味しくするものがあると思う。
今度は本格的に干物を作ってみようかな。

太陽の光という天の恵み。
魚、そして野菜という大地の恵み。
僕ら人間の命というのは数々の命に支えられている。
それらの死の上に僕たちの生はある。
ムダにしない。
これは大前提なのだが、その上で食べ物の旨みを最大に引き出す工夫、努力を惜しまない。
これは茶の心に通じるものだし、禅の教えにも通ずると思う。
全ての宗教の根底は同じ。それが愛なのだ。
そうやってできたものからは感動を得ることができる。
感動、これを味わうために僕たちは生きる。
良い音楽を聴いたときの感動。
自然の中での感動。
素敵な人と出会ったときの感動。
すばらしい芸術を見たときの感動。
そして旨い食べ物を食べた時の感動。
ついでに旨い酒を飲んだときも感動。
感動とは瞬間の喜びであり、即ちこれが愛である。
これこそが僕たちが生きる原動力であり、この世で生きる理由なのだ。

たかが鮭の塩焼き。
されど鮭の塩焼き。
今日も又、貴重な命を、『いただきます』
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ご馳走

2011-12-23 | 
僕の友人というか兄弟分というか、山小屋と呼ばれる男がいる。
北海道でガイドをやっている人なのだが、毎年この時期になるとニュージーランドへやってきて、南島一周、一ヶ月以上かけて自転車でまわる。
今年も11月頭から12月半ばまで、ぐるりと南島を回ってクライストチャーチへ戻ってきた。
彼が帰国する前日、共通の友人であるアキラ家族を招き晩餐会を開いた。
この地の美味い物を集めた夕食は、軽くブログ一回分の話になる。
どれも一品だけでもメインになる実力者を集めた、食のオールスターである。
贅を極めた宴、とくとご覧あれ。



まずは前菜に庭のソラマメ。
冬が来る前に植えたソラマメは背丈以上に育ち、大きなマメをたわわにつけた。今が旬である。
これはシンプルに塩茹で。ビールに良く合う。
アキラ達の末娘ワカがソラマメを喜んで食べる。
子供が健全な食べ物を美味しい美味しいと喜んで食べる姿は、この世の宝だ。
そしてサーモンの刺身。
前回の仕事でクィーンズタウンに行った帰りに1匹買ってきて捌いたものだ。
時間が経って捕れたばかりのコリコリ感はなくなったが、その分肉の旨みが出ている。
皮はパリっと焼いて塩を振り、皮せんべい。
間引きを兼ねて畑で取ったばかりのニンジンはスティックにして、ネルソンの友人、味噌屋ゴーティーの新製品ミソマイトで食べる。
お次は鹿肉のたたき。
表面を焼いて中は生。薄切りにしてニンニク醤油。
ニンニクは今年の初物。庭で取れたばかりのものだ。
鹿肉は火を通しすぎるとパサパサしてしまう。
表面を焼いただけのたたきが一番美味いと僕は思う。
鹿はあまり癖がなく、馬刺しに近い。だが馬とは違う風味がある。
生肉の味に採れたてニンニクのピリッとした辛味が合う。



サラダは庭のレタスのグリーンサラダ。きゅうりとニンジンのスライスを加える。
サラダに使ったレタスは3種類。丸く玉になるお店で売られている種類のレタスに、葉っぱが縦長に伸びるコスと呼ばれるレタス、そして名前は知らないが葉っぱがギザギザのサニーレタス。
ニンジンも庭で採ったばかりのヤツだ。
お好みでひまわりの種を炒ったものをパラパラと振る。
ドレッシングは自家製和風ドレッシングと、味噌屋ゴーティーが作った新製品味噌ドレッシング。
ミソドレッシングは初めて食べたが、酢の酸味と麹が生きてる生ミソの風味がバランス良く合っている。
ゴーティーが作る物はいつもいつも完成度が高い。センスがあるというのはこういうことを言う。
こういう友人を持って幸せだ。

そして本日のメインイベント。ラム肉の焼き物。
ラムラックと呼ばれる骨付き肉は、柔らかく癖がなくジューシーで旨い。
この部位が一番旨く、その分値段も高い。
キロ当たりの値段は牛のヒレ肉よりも高く、ニュージーランドでは一番高い肉だ。
これは食べれば分かるが、高いのは当たり前という味である。
お金をかけなければ味わえないものもある。お金はこういうときの為に使うべきだ。
この肉も焼き過ぎ注意。表面はカリっと薄く焦げ目をつけ中は半生。
下味に塩コショウ。そこに醤油を一滴垂らして食べる。
肉はこれほどまでにと言うほど柔らかく、羊臭さは一切ない。
山小屋の大好物がこれだ。
思えばもう何年前になるか、初めてヤツとクィーンズタウンで会った時、ユースホステルの庭で七輪でこの肉を焼いてご馳走した時から、僕達の繋がりが始まった。
北海道にはジンギスカンという羊料理はあるが、こんなラム肉はないそうだ。



さらに我が家の餃子。
家で取れたシルバービート入りの餃子はニュージーランドで一番美味いと僕は豪語するが、それは女房が作る餃子である。
この日は女房が書いてくれたレシピで僕と山小屋がタネを作ったが、僕達は餃子を包むセンスがない。どうしようもなくヘタクソなのだ。
なので遊びに来たアキラ夫妻に包んでもらい、それを仕事から帰ってきた女房に焼いてもらった。
餃子というのは奥が深く、タネに入る肉と野菜のバランス、皮を包むときのバランス、そして焼き加減。全てのバランスが整い一品が出来上がる。
女房が作るとそれらのバランスが絶妙で、ニュージーランドで一番美味い餃子となるのだが、今回は製作者がバラバラだったため、普通に美味い餃子となった。

そこにアキラが気をきかせて鳥のから揚げなぞも持ってきてくれた。
アキラも自分で色々作る人で、この前は自家製牛タンの味噌漬けをいただいた。彼もなかなかやるのだ。
このから揚げもシンプルに美味くビールがすすんでしまう。
美味い物が所狭しとテーブルに並ぶ。
こんなのは一年に一回あるかないかの大ご馳走である。
ラム肉や鹿肉は確かに美味いが、こんなの毎日食べたら金がかかってしょうがない。
そんな話をしながら食べ初めて、これは話のネタになると気が付いた。
そして全員にストップをかけあわてて写真を撮ったので、皿の料理がみんな中途半端なのだ。
酒はビールから赤ワインへすすみ、また赤ワインがシンプルな肉料理に合ってしまい、箸は止まらず。
アキラ夫妻には6歳と3歳の娘がいるのだが、子供は別テーブル。
深雪がお姉さん気取りで下の娘の面倒を見ているので、大人も落ち着いて飯が食える。実によろしい。
食べ終わった骨付きラム肉の骨は、犬のココアが喜んでしゃぶっている。
美味い物は人を幸せにして、幸せの輪はこの家を包む。



そこにある物で、自分が手に入れられる物で最高の物を出すというのが、和食の真髄である。
闇雲に高い食材を並べればいいというものではない。
安くても美味い物もあるし、高い金を払う価値のある物もある。
庭の野菜達は手間がかかっているが、お金はかかっていない。だが今が旬であり一番旨い物だ。
ラム肉や鹿肉は値段が高いが、この辺りでは一番旨い物だ。
値段が高い安いというのは人間の世界のこと。
仏の前では全て大地の恵みである。
そこで最高の物を出すというのが真のもてなしの姿だ。
特に6週間かけて南島を一人で自転車で一周した友の、ニュージーランド最後の晩餐。
こいつに旨い物を食わせたいという想いからこの日の宴が決まった。
そして人間は色々なものを食いたいものだ。
どんな旨い物でも一品だけを食っていたら飽きてしまう。
人数が集まれば何品も取り分けて楽しめる。
それに飯は大勢で食うほうが美味い。
一人でずーっと旅をしてきた山小屋はこういう食事に餓えていたことだろう。
さらにヤツは帰国の翌日から1週間ぶっ通しでスキーツアーの仕事が入っているという。
ならなおさら美味い物を食わさねば。
それが僕の愛だ。
同時に自分も美味い物を食いたいという気持ちがある。
自分が幸せでなかったら人を幸せにはできない。
そして幸せは少ない人数で味わうより、大人数で味わう方が良いのだ。



デザートは熊本名産 陣太鼓。アキラの奥さんのアイは熊本出身なのだ。
僕はこのお菓子をはじめて食べたがこれも美味い。
ならば静岡の新茶をご馳走せねば。
和菓子と緑茶とは何故こんなにも相性が良いのだろう。
子供達はアイスクリームとブルーベリー、ストロベリー。
そこにある物で最高のものを。
世界にはいろいろな種類の食べ物があるが、素材や調理法や料理の国籍にこだわらず、人をもてなす茶の心。
これこそが日本が誇れる食文化なのだと思う。
そして今宵もまた美味い物、美味い酒、良き友に囲まれて、幸せなのである。
ありがたやありがたや。

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チキンライス

2011-11-02 | 
うちはかなり美味い物を食う家だと思う。
美味いものと言ってもいろいろあるが、贅沢な食材を金に任せて買い揃えるわけではない。
自分に手の届く範囲で、手間をかけ旨い物を作る。
そして旬の物を食べる。旬のものは安くて美味くて、その物が持つエネルギーも高い。
たまに冷蔵庫に残っている食材でとんでもなく美味い物ができてしまうこともある。
単純なボクは「うお~、オレって天才!」などと叫びながら、自分の作った物を喜んで食う。
自分で作って自分で幸せになれるボクは、とことん幸せ者だ。
このようにアドリブで出来たものは、時間が経てば何を作ったかさえ忘れてしまう。
旨かったという思いは残っているが、「はて、あの時は何を作ったっけなあ」と、はかない陽炎のごとく。
その場で消えてしまうという点では音楽と同じで料理もライブなのだ。
だが1日3回、1年で1095回の食事の中で勝ち残り、記憶にとどまり定番レシピとなる料理もある。
最近の我が家のヒットはチキンライスである。
チキンライスと言ってもアジア風のチキンライスである。
え~、チキンライス?と思われるかもしれない。
たかがチキンライス、されどチキンライス。
これはシンプルなだけに奥が深い。
適当につくればそれなりだし、技法を凝らして作れば究極のご馳走にもなる。
ブログ1回分の話にもなりうるボリューム、とくとご覧あれ。



まず鳥である。
鳥は近くの肉屋で丸ごと買う。
そこにはオーガニックの鳥なども売っているが、値段が倍もする。
なので普通の鳥をまるごと。丸で買うと安いのだ。
それを捌いて骨と身に分ける。
ボクも最初は見よう見まねでやっていたが、回数をこなすうちに鶏の体の仕組みも分かり、うまく捌けるようになってきた。
余った皮はパリパリに焼き油を落とし皮せんべい。味付けは塩のみ。
骨は大鍋でスープを取る。丁寧に灰汁を取りながらスープが透明になるまで煮出す。スープで一緒に煮出すものは生姜とネギ。分量は適当。
このスープをチキンライスに使うのだが、余ったスープは何にでも使える。
中華風スープも良し。野菜を入れて煮込みカレーにしても良し。インスタントラーメンだってこれで作れば美味い。
スープを取ったガラにくっついている肉は、きれいにとっておけばこれでチャーハンができるし、マヨネーズであえても良い。
骨のすぐそばについている肉は魚でも肉でも鳥でも美味い、というのは美味しんぼの山岡司郎も言っている。
皮や軟骨は小さく刻んで鶏の餌に。
全く無駄が無く、しかも美味い。手間は多少かかるが、こういったことは人間が生きるための仕事である。
正しいシステムというものは、全ての面で上手くいくようにできている。



骨を外した身はタレを塗りオーブンで焼く。焼きすぎるとパサパサするので注意。
焼きあがった鳥から出る汁だって無駄にはしない。焼いた鳥を切り、その上に汁をかける。
米はタイ産のジャスミンライス。女房が色々試した結果、これが一番この料理に合うそうだ。
鍋に油を熱し、にんにくのみじん切りをどっさり炒める。
そこにお米を入れ軽く炒め、水の代わりに骨で取ったスープを入れる。
ネギと針生姜、塩とダークソイソース(中国の醤油)を入れてご飯を炊く。
家では普段から炊飯器を使わず土鍋でご飯を炊く。
炊飯器は確かに楽だが鍋で炊いた方が美味い。
慣れれば鍋でも問題なく炊ける。
このチキンライスをやる時は大きめの鍋にお米5~7合ぐらいで作る。
熱々のチキンライスも美味いが、残ったご飯で作るチャーハンもこれまた美味いからである。
パラっとしたジャスミンライスはチャーハンをやってもべたべたしない。
炊き上がったご飯に焼いた鳥を乗せソースをかける。
ソースは2種類。女房殿が開発したオリジナルソースだ。
一つはタイ風。ナンプラー、レモン汁、塩、おろし生姜、みじん切りネギ。上からコリアンダーを好みでふりかける。生の唐辛子なんかあったらなお良し。
もう一つは中華風。ダークソイソース、スイートチリソースを鶏ガラスープでのばす。
どちらで食べても美味い。
一皿でタイ料理と中華料理が両方味わえる。
焼いた鶏から出た汁がさらっとしたジャスミンライスにしみこむ。
ソースの程よい塩加減。
焼きすぎない鶏の食感。
コリアンダーの香り。
全てがバランスよく調和する。
これは旨いぞ。
人間は美味い物を食べると幸せになる。幸せは常にここにある。
ここでもハッピーバイブレーションだ。



全ての物を無駄なく残さず最後まで美味しく食べること。
これが生きていた物への供養である。
死んでしまった鳥に感謝し、タイで作られたお米に感謝し、生姜、ニンニク、コリアンダーなどの野菜たちに感謝。
それらの生の上で僕達は生きる。
そこに有る物を使い、その物の旨みを最大に引き出す。和食の真髄だ。
変に厳しくストイックにする必要はない。
無駄にせずに美味い美味いと笑顔で食うべし。
それが北村家流の供養であり、悟りへの道である。
今日も美味しく命をいただきます。

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