あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

食文化論

2011-10-07 | 
ルートバーンの1日ハイキングの帰りなど、お客さんにこういう質問をよくされる。
「ガイドさん、クィーンズタウンで安くて美味しいお店を教えてください。」
「安くて美味しいお店?そんなのクィーンズタウンにはありません。ボクが教えて欲しいぐらいですよ。安くて不味いお店はあります。高くて美味しいお店もあります。高くて不味いお店もあります。だけど安くて美味しいお店はないんですねえ、これが。残念ながら。」
「じゃあ、お勧めのニュージーランド料理のお店などありますか?」
「ニュージーランド料理ときましたか。ではニュージーランド料理について一緒に考えてみましょう」
かくして、ガイドトークの食文化論が始まる。
アメリカ料理、カナダ料理、オーストラリア料理、ニュージーランド料理、イギリス料理、どれもあまり聞かない。イギリス料理などは不味くて有名だ。
これらは英語を話す白人、アングロサクソンの文化圏である。
アングロサクソン民族の特徴としては徹底した合理主義だ。
そしてまた民族的にみて味覚音痴でもある。
基本的に食べ物とは栄養を補給するためであり、味にうるさくない。合理的だ。
同じ白人でもラテン系の国ではフランス料理、イタリア料理、スペイン料理などと独自の食文化が発達した。
だがアングロサクソン系の国では食文化と呼ばれる物は発達しなかったのだ。
僻地への探検が秀でたというのも関係があるかもしれない。

イギリス系の男の特長として、出された物を不味そうにボソボソ食う、というものがある。
美味い物を作れば、ウマイウマイとガツガツ食うのだが、不味くても黙って食う。
「こんな味噌汁飲めるか!」とちゃぶ台をひっくり返すようなことはしない。
海原雄山のように、ちゃんとできるまで作り直させるようなこともしない。
奥さんが作ったスパゲティを食べて「やっぱりスパゲティはアルデンテでなけりゃダメだ」などとは口が裂けても言わない。
そんなことをしようものなら奥さんに「じゃあ、あなたが作りなさいよ」と言われてしまう。
それだけはヤツらにとってどんなことがあっても避けなければならない。
自分が作るぐらいだったら奥さんが作った不味い料理を黙って食べた方がましだ。
さらに出された料理の味もみないで塩コショウをバラバラと振ってしまう。
作る方としてはすごく楽だ。
ちょっと薄めに味付けをしておけば、勝手に塩コショウを振り、黙って食べてくれる。
和食の板前が真剣勝負、素材の味を最高に引き出すためにギリギリの塩加減で料理を作るのとは対極の位置にある。
そして彼らは食に対して保守的でもある。
進んで新しい物を取り入れようとしない。
時に度が過ぎ、他の民族が食っている物を批判することもある。大きなお世話だ。
保守的なので毎日同じようなものでも文句を言わずに食う。
作る方も楽でよろしい。合理的だ。
合理的だが、これでは食文化は発達しない。

白人の名誉にかけて言うが、全ての人がこうというわけではない。
個人のレベルで言えば腕のいいシェフはいるし、きっちりと味の分かる人はいる。
新しい味を作ろうとする人もいる。
友達のシェフはボクが漬け込んだイクラを味見して、自分だったらこれはこうやって使うというようなことを言っていた。
レストランで、うなるぐらい美味い物を食べたこともある。
ジェイミー・オリバーのように食を通して社会に働きかける人もいる。
逆に日本人でも食に無関心な人もいる。
だがそれはあくまで個人レベルの話で、民族的にみればやっぱり味音痴の人達だ。
その証拠にここでどういう和食の店が流行るのか見れば分かる。
最近は日本食がブームになっているが、韓国人経営や中国人経営の日本食の店もある。
そういうところはちゃんとダシをとらないで、どぎつく甘辛く味付けをしてしまう。
繊細な味がわからない人には、そういうどぎつい味がうける。
うけるからと言って日本人がやっている日本食レストランでも、べたべたに味付けをして素材の味を台無しにしてしまう所もある。
それを食べた人は日本食とはこういうものだと思い、繊細な日本食文化が崩れていく。嘆かわしいことだ。
人間の味覚というのは子供の時に何を食べたのかで決まると言う。
子供だからと手を抜かず、きっちりした物を食べさせるのが親の役目だ。
最近はアングロサクソンに限らず、中国人だろうが日本人だろうが味覚が失われつつある。
化学調味料に慣れきってしまうと、本物を食べた時に物足りなく感じてしまうのだ。
その結果べたべたした味の物へと進んでいく。

ある時女房がこう言った。
「前にイギリス人の男の人に、日本人は集まるとすぐに食べ物の話になる、と言われたわ」
確かにその通りである。
日本人が集まると、どこの店が美味いとか、どの食材がいいとか、日本のあの味が懐かしいとか、とかく食べ物の話には事欠かない。
ボクがガイドトークをしていても一番盛り上がるのは食べ物の話だ。
それぐらい食というものは日本人にとって大切なものなのだ。
だから食の文化が発達した。
食べ物に関心の薄いイギリス男からすれば、そんなことにエネルギーを費やすのは馬鹿馬鹿しいことで合理的ではないのだろう。
バケツを逆さから見れば、底が無くフタが開かない入れ物だ。

食文化が発達するのに好奇心はなくてはならないものだ。
これをこうしたらどういう味になるのだろう、と思わなければ何も生まれない。
例をあげてみるとイチゴ大福なんてものはどうだ。
大福とイチゴという食感も甘さの種類も全く違うようなものを一つのお菓子として作り上げてしまう。
好奇心あればこそ、食に対する関心あればこそのものだ。
さらに保守的でないということは、他の民族の文化への関心や興味もある。
そして自分流にアレンジして独自のものも作ってしまう。カレーはインドが起源だが今や立派な日本食である。
ボクはインド人が作ったインドカレーも好きだし日本のカレーも好きだ。
日本でアレンジされてそのまま定着した食べ物はいくらでもある。
カツ丼、カツカレー、アンパン、カレーパン、餃子、ラーメン、タラコスパゲッティなどなど。
世界中で日本ほど食のバラエティに富んだ国はないと思う。
そして見知らぬ土地へ行けば、そこの名物料理を食べたいと思うのも食に関心があるからこそだ。
名物に旨い物なし、という皮肉な言葉があるが、これは商業ベースに乗ったものは名物でも不味くなるという意味合いを含んでいる。
その土地で出来たものでそこに住む人が知恵と技法をこらして作ったものはやはり旨い。
日本という国は南北に長く地形に富んでいる。
九州と北海道では採れる物も違えば味付けだって違う。
新潟ではコンビニで売っている地元のおばちゃんが作ったおむすびが感動的に美味かったし、広島のあのお好み焼きも美味かった。実際に食べたことはないが京都では伝統を重んじた食もある。
島ではそこで取れた魚と島の焼酎が絶妙だったし、山へ行けば山菜やきのこが絶品だ。
地酒なんてものもある。
そういった地域性による違いが大切なのだ。
文化というものは狭い地域から生まれる。グローバルと名を打った均一化では文化は廃れる。
伝統もあり、他所の文化を取り入れる柔軟性もあり、新しい味を作り出す創造性もある。
日本人ってやっぱりすごいな。
そしてニュージーランドへ来れば、そこの土地の旨い物を食べたいという好奇心。
そういったこと全てを含めて日本の食文化なのだ。

ボクはお客さんに言う。
「そういったわけでニュージーランド料理とはこれ、というようなものはないんですよ。」
「そう、残念ね」
「でも美味しいものはありますよ。この国は野菜でもお肉でも素材の味が美味しいんです。だから腕のいいシェフのお店に行けば、何を食べても美味しいです。逆に下手なシェフのお店に行くと素材の味台無し、何食べても美味しくない、ということです。」
そしてクィーンズタウンでも自分が時々行くお店を紹介する。
ボクは自分が美味いと思った店、プライベートでも行く店しか人に勧めない。
物でもそうだ。自分が美味いと思った物だけを人に勧める。
最近は友達ゴーティーが作った味噌をクライストチャーチで売っていて味噌屋の手先のようなことをしているが、もし不味かったらいくら友達が作るものでも人には紹介しないだろう。いや逆だ。ボクの友達は不味い物を作らない。
ブログで何回も書いているが、この味噌は旨いぞ。
ボクがこれを人に勧める理由はいくつかあるが、まず美味いこと。これは食べれば分かる話だ。
そしてその地で取れた物を使っていること。
中国で取れた大豆を日本へ運んで製品にしてニュージーランドへ持ってくる。もしくはカナダで作ったオーガニックの味噌をニュージーランドへ持ってくる。
どちらにしてもエネルギーの無駄遣いだ。地産地消のモットーに反する。
この味噌はネルソンでとれた大豆とブレナムで取れた塩で作っている。それをクライストチャーチとかクィーンズタウンで消費する。移動エネルギーは少ない。無駄を省くということは気持ちが良い。
そして生産者が昔ながらの伝統的なやり方で味噌をつくっていること。
ゴーティーいわく、大量生産の味噌を寝かせる期間は2週間ぐらいだそうな。それに対してゴーティー味噌は6ヶ月寝かせる。
じっくり時間をかけて寝かせる間に、生きている麹菌が味噌を熟成させる。さらに時間をおくほどに旨みは増す。発酵のために味噌は冷蔵庫でなく常温で保存する。
日本の祖先たちが試行錯誤しながら作り上げてきた食文化をニュージーランドで取れる物で再現する。
そこにある物で最高の物を出す、というのは茶のこころだ。
日本の文化は奥が深い、そして全てが繋がる。
たかが味噌、されど味噌である。
崩壊しかかっている日本の食文化を守る大事な仕事をゴーティーはしている。
こういう人をみると無条件で応援したくなってしまう。全力で応援する。我武者羅に応援する。押忍。
天と地の理にかなったシステムというのは全てがうまく回るようにできている。
エネルギーの無駄がなく、健全な食材で、日本の文化を守りながら、健康にもよく、そして旨い、みんなハッピー。言うことなしだ。
これがなければ、これはできない、というのは何か違う。
たとえ日本にいなくても、ここにあるもので日本の文化は感じることができる。
それは心の奥にある光を見つめることによって成り立つのだ。
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2011-04-07 | 
南半球ニュージーランドでは秋が深まってきた。
この国は赤道からかなり離れたところにあり四季がはっきりしている。
夏も終わり、秋そしてこれからは冬にむかっていく。
自然の営みは繰り返しながら、大地に恵みを与え、そこに住む人々の生活を支える。
秋は果物が美味しい時期である。
ニュージーランドへ来て、よく食べるようになった物の一つが洋ナシだ。
今は洋ナシが旬の時期だ。
近所の八百屋では洋ナシがキロ80セントで売っていた。
迷わず15コぐらい買う。
これだけ買って値段は1ドル50セント。
毎度あり~、チーン。
1個あたり10セント、日本円なら6円。とんでもなく安い。
自分が農家だったら、こんなに安かったら哀しくなってしまうな。
そしてこのナシがすこぶる美味い!
実はクリーミーで甘さと酸味のバランスがほどよく、口の中でとろける。
日本のナシのようなシャキシャキ感はないが、洋ナシには洋ナシの美味さがある。
深雪の毎日の弁当にも入れる。おやつも洋ナシ。健康的だ。
そのまま生で食べても美味いが、我が家ではこれを煮込んでデザートも作る。
定番デザートの洋ナシのコンポートだ。
レシピを紹介しよう。
鍋に水400CC、白ワイン200CC、砂糖150g、蜂蜜大さじ5はい、レモン汁2個分(庭のレモンならなお良し)、バニラエッセンス適量を入れ沸騰させる。
半分に切ったナシの皮を剥き、種のところをスプーンでくりぬき、弱火で10~15分ぐらい煮る。そしてそのまま冷ます。
これだけ。超かんたん。これがまた美味いのだ。
この分量でナシ10個ぐらい使う。
我が家ではシロップが残ると、もう1ラウンドする。
熱いうちにビンに入れて密封すれば保存食にもなる。
そのまま食べて良し、シリアルと一緒に食べて良し、アイスクリームと一緒なら立派なデザートだ。
生のナシとはまた違う美味さができる。
一度リンゴのコンポートや日本のナシ(今ではニュージーランドでも日本のナシを作っている)のコンポートも作ったが、イマイチだった。断然、洋ナシで作るのが美味い。
洋ナシだって普通はキロ3~5ドルぐらいか。その値段の時にボクはこのデザートは作らない。
まあ農家にしてみればそれぐらいの値段が妥当なんだけどなあ。

旬というのはその物が一番たくさん取れる時であり、一番安い時であり、一番美味い時である。
昔、南米エクアドルを旅したことがある。
エクアドルは赤道直下。四季がない。
ニュージーランドでの牧場のように、どこまで行ってもパイナップル畑とバナナ畑が続く。
四季が無いのでこれらの果物は一年中旬だ。
バナナはねっとりと甘く、パイナップルは切ると汁がビシャビシャ出て甘く味が濃い。
ボクはその時、感動にうちふるえた。ウマイ物は人間を感動させるのだ。
ニュージーランドでもそうだが、日本でもこれらの果物の本当の美味さは味わえない。
輸出する時は熟れていない物を取るからだ。
これはどんな果物、野菜でも同じこと。
旬、そして新鮮、これに勝る美味さはない。
本当に美味い物を食いたければ、そこに行くしかない。
エクアドルではボクは、バナナとパイナップルに感動したが、それはボクがよそ者だったからだろう。
それまで輸入物しか食べた事が無いからこそ、感動したのだと思う。
無いことを知っているから、ある有り難さを知る。
いろいろな事に共通することではないか。
文明は便利になり、ニュージーランドのスーパーでもパイナップルもバナナも1年中売っている。
ボクはこれらはほとんど買わない。
果物に遠い距離を移動させることはない、近場にあるもので美味い旬の物はある。
本当に美味いパイナップルを食べるには自分がそこに出向くべきだ。
なのでできるだけニュージーランド産の物を買うようにしている。
それも北島より南島の物、ファーマーズマーケットなどは大好きだ。
地産地消、これからの世界はこうなっていくことだろう。

ボクはニュージーランドに住み、季節の移ろいでいく様子を眺めている。四季があるということは何と素晴らしいことか。
これだけナシが美味いのも四季があるたまもの。
一年のエネルギーが凝縮しているのが旬の味だ。同時に時が過ぎればなくなってしまうはかないものも旬だ。
それがボクがよく言う『今』というものである。
木からの「今が美味しいよ、さあどうぞ」というメッセージ、それが旬でありこの瞬間だ。
四季のある場所で産まれた日本の文化の本質はこのへんにあるのだろう。
庭仕事をしている時にふと手を止めて「ああ、ここにナシの木があったらいいな。そのナシでコンポートを作ったらどんなにいいだろう」なんて想像する自分がいる。
こういうことを考えると、ピンと来るナシの木に出会ってしまう。
木も人と同じで出会うタイミングがある。
そしてイメージを作ったものは実現する。
そうか、次は洋ナシか。


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我が家のギョーザ

2010-06-24 | 
「深雪、今日の晩飯は何がいい?」
「うーん、ギョーザ!」
というわけで今日は餃子だ。
家では餃子は女房が作る。ボクはほとんど手出しはしない。
不器用なので餃子を上手く包めないという欠点があるが、なんといっても女房が作る餃子はウマイのだ。
どれくらいウマイか。
ニュージーランドで一番ウマイ。
「そんなバカな」という人は一歩前に出なさい。
そしてそのまま家に来なさい。
家に来たらビールを飲みながらギョーザを食べてみなさい。
納得するはずです。
日本だったらウマイ餃子はあるが、ニュージーランドに来て二十数年、これ以上にウマイ餃子を食べたことがない。

メニューが決まると買い出しである。
先ずは近所の肉屋へ行く。
最近はショッピングモール内にある肉屋がお気に入りだ。
行きつけの郊外にある肉屋のオーナーが店を売って、今はショッピングモール内にある店舗でやっている。
向こうもボクのことを覚えていて世間話を交わす。
「どうだ、最近は向こうの店に行ってるか?」
「まあ時々ね。娘の学校が近いからね」
親父は用があるらしく、店の奥に入っていった。
スタッフが声をかけてくれる。
「いらっしゃい、今日は何にします?」
「豚の挽肉が欲しいんだけど」
餃子には豚挽きだ。
「ハイよ、どれぐらい?」
「500g」
「ハイハイ、ちょっと待っててね」
彼女は豚肉をその場で挽肉にしてくれる。
店には活気があり、従業員が皆生き生きと働いている。
良い店というのは、お客さんが喜んでお金を払っていく店だ。
そういう店は雰囲気で分かる。ぼくも喜んで買い物をする。
ショッピングモール内にはスーパーマーケットもあるが、ボクはスーパーで生鮮品は買わない。
肉は肉屋で、魚は魚屋で、野菜は八百屋で買う。
大型スーパーの生鮮品は長期冷蔵されているからか、仕入れの場所が違うのか、食べ物自体が持っているエネルギーが低いような気がする。
何と言っても肉屋の肉は美味いのだ。
野菜を八百屋で買い、韓国のお店で餃子の皮とニラを買う。
庭にニラが植えてあるが場所が悪いのか育ちがあまり良くない。どこか良い場所に移し変えてやらなくては。



今日の餃子はおから入り餃子だ。
深雪はおからがあまり好きではないが、こうやって分からないようにすると食べる。
おからを入れすぎるとパサパサした感じになるが、少しぐらい入る分には何も分からない。
毎週土曜日の午後、深雪は日本語補習校へ行く。
そこへキウィの豆腐屋が豆腐を売りに来る。オーガニックの豆腐はなかなか美味く、きっちりと豆の味がする。
自分でいろいろやるボクだが豆腐は作らない。
やればできるだろうが、、それに費やすエネルギーは少なくない。
人間のエネルギーは限りがあるので、全ての物を自分で作るわけにはいかない。
それよりウマイ豆腐を作る豆腐屋があるのだからそれを買えば良い。ボクはここでも喜んでお金を払う。
モチはモチ屋なのだ。
以前何かの本で読んだが、今や豆腐は海外の方が美味いそうだ。
日本の大手メーカーでは生産を上げるために色々な混ぜ物を入れる。同じ量の大豆からたくさん豆腐ができる。おからのでない豆腐だ。
もちろん日本でも昔ながらにきっちりと作っている豆腐屋はある。もちろん美味い。新潟県能生町にある無人販売のおぼろ豆腐は絶品だ。
だが商売としては厳しいのではなかろうか。
スーパーで安く売っている豆腐が今の主流だろう。安ければ良い、という考えは食生活の根底を揺るがす。
それよりも海外の豆腐屋は昔ながらに大豆とにがりで豆腐を作る。結果、海外の豆腐は美味いとなる。
豆はネルソン産オーガニックの大豆。
豆腐屋が言うには、この農家はオーガニックの資格を取っていないけだけで、やりかたは有機農法でやっている。
厳密に言えばオーガニックとうたうのはダメなんだろう。
だが・・・オーガニックに資格?
そんなの作っている物を食べてみれば分かるじゃねえか。
農薬や化学肥料を使わない野菜はウマイんだよ。不味かったらそこで買わないだけだ。
そんなことでゴタゴタ言ってるから物事の本質が見えてこない。エネルギーをもっとマシな方へ使え。
ともあれボクはその豆腐屋から大豆を業務用で買い込み、納豆を作っている。
納豆はウマイと評判が良く、売ってくれと家に買いに来る人もいる。
豆腐が美味ければおからも美味い。
大豆のしぼりかすとはいえ、体に良い植物性タンパク質の健康食品である。タダ同然に安いというのが何より良い。
人に良ければニワトリにも良い。ヒネとミカンのエサには常におからが入っている。ムダにしないというのは実に気持ちが良いことだ。
野菜は本来は庭のシルバービートを入れる。
シルバービートは日本に無い野菜で、ほうれん草と白菜の中間のようなものだ。鉄分が豊富でヘルシーなのだ。
今年のシルバービートはまだ芽が出たばかりで小さいので、買ってきたキャベツを使う。
ちなみに庭のシルバービート入り餃子はオセアニア地区で一番ウマイ餃子に格上げされる。



「餃子と言えばビール、ビールと言えば餃子」
餃子の時のお決まり文句を言いながらビールを開ける。
女房殿が最初の一皿を持ってきた。こういう時だけ殿を付ける。
そうそう餃子はひっくり返して盛りつけるんだよね。
誰が最初にやったんだろう。これも文化。
「いっただきま~す」
底辺はカリっと焼け、上の皮はモチモチ。具の量と皮の厚みのバランスも良い。野菜と肉の割合も二重丸。
肉は入れすぎたらダメなんだと、親戚のラーメン屋のおじさんも言っていた。
皮だって買ってきたままだと厚いので、ちょうどいい薄さまで麺棒でのぼしたものだ。
材料自体は安いけど手間がかかる料理なのだ。一個一個に愛がたっぷり詰まっている。本当のご馳走である。
皮だって、自分で麦を栽培して収穫して粉にしてその粉で皮を作ったりとか、豚を育ててその肉で作ったらもっとウマイだろうが、そこまでやったら世界一ウマイ餃子になってしまう。
ボクはニュージランドで一番ウマイ餃子で充分満足である。
皮に包まれていた、蒸し焼きにされた具の旨みが、皮をかみ切ると口の中で広がる。
濃厚な味の後のビールの爽快感がたまらない。
深雪が親指を立ててウマイというサインを出している。
嗚呼この世はかくも素晴らしきものかな。

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今日の食卓

2010-06-16 | 
我が家の晩ご飯の献立。
かぼちゃの煮付け、カボチャスープ、おからの煮付け、桜エビのから煎り、納豆、卵かけご飯。

家ではコンポストを作っている。去年作ったコンポストからカボチャが芽を出し、そのまま育てたら立派なかぼちゃができた。
半分は煮物に。真っ二つに切ると、切断面から水分がにじみ出る。
適当な大きさに切り皮をある程度残し、面取り、そして砂糖をまぶして30分以上置く。
これがコツなんだと元板前のゴーティーが教えてくれた。我が家に出入りする人は皆、その道の通なのだ。
そして落とし蓋をして、だし汁で味を整えながら煮る。
出来上がりはネットリと柔らかく、ポクポクした感じは全くない。仕上げに煮汁を上からかける。

カボチャスープはオリジナルレシピである。
カボチャ、ニンジン、タマネギを圧力鍋で煮る。いつもはセロリも入れるのだが、庭のセロリは小さく、今は取る時ではないので今日は無し。
それをフードプロセッサーでドロドロにしてペーストを作る。
そこにバター適量、生クリーム適量、牛乳適量、スープ状にしてローリエを入れて煮る。
味付けはブイヨン、そしてカレー粉少々、ナツメグ少々。
頂き物のパンを小さく切ってクルトンにしてスープに入れる。
このスープは深雪の大好物だ。

おからは地元の豆腐屋が一袋50セントで売っている。
材料はニンジン、ネギ、韓国製のはんぺんのような練り製品、桜エビ、ゴマ。
ゴマ油で炒め、その後だし汁で煮る。
かぼちゃの煮付けでも使っただし汁は2日前に作ったうどんの汁の残りである。
きっちり日本のダシパックと昆布でとったダシ汁だ。

桜エビは実家から送ってもらった物の使いかけ。静岡の由比産である。ここは父親が生まれ育った町だ。
日本にいた時には桜エビは生、もしくは釜揚げで食べる物で乾燥の桜エビなんて実家で使うことはなかったが、ここニュージーランドではこういったものがありがたい。
からっと炒って塩をパラリ、ゴマをパラリ。
カルシウムも豊富だ。

納豆は昨日出来上がった物。
ネルソンのゴーティー(この人のこともいずれネタにするつもりだ)に感化され、大豆を業務用25kg買い込んだ。納豆、煮豆作り放題である。
納豆は妻のレシピで作る。以前インターネットのレシピを見て自分で作ったがあまり上手くいかなかった。それより妻が考えたもっと簡単でもっと適当な作り方の方がよっぽど上手くできる。
1回に納豆20人分ぐらい作るのだが、なかなか好評であっというまになくなる。
昨日、気功のクラスに持っていったら一瞬で売り切れた。キウィの人も喜んで買ってくれた。来週はもっとたくさん作らなくては。
納豆など発酵食品は菌の力で増える。
ボクが寝ている間も、ご飯を食べている間も、庭でいろいろやっている間も、こうやってパソコンに向かっている間も彼らは働いてくれる。週7日、24時間働いてくれる。
しかも美味しくて体に良い。タンパク質も豊富、低コルステロール。良いことづくめだ。
試しにニワトリに納豆を食わせたら、味は好きみたいだがあのネバネバがダメのようで、しきりにくちばしを地面にこすりつけていた。おからは喜んで食う。
残念なのは深雪が納豆を好きではないことだ。
子供が好きだったら毎日納豆なのに。
悔しいので、味噌汁を作るときは少量刻んで入れている。
『深雪よ、オマエの知らない間に納豆菌はオマエの体に入っているのだぞ。グワッハッハ』

そして今日産んだ卵で、卵かけご飯。
ユミさんが今日来てニワトリを持って帰った。
頼んでおいたうちのニワトリは明日か明後日ぐらいに来るはずだ。
2週間ほど家にホームステイをしていたポーとチョックは大きな卵を置きみやげに我が家を去った。
その卵を炊きたて熱々ご飯にかけて、頂きまーす。

どれもが美味く、どれも完璧。
買い物をしないで家に残っている物でこれだけ作ると、オレって、やっぱり天才かな?と思ってしまう。
そんな自分が好きでもある。
高価な食材を無意味に使うことがご馳走ではない。
今そこにあるもので、最高に美味しい食べ方をすることが本当の意味でのご馳走だ。
食材の旨みを最大に引き出すのが和食の極めであり、日本の文化の真髄、茶の心である。
あれがないと、これがないと、幸せになれないと言うのは何か違うと思う。
幸せとはそこにあるものであり、自分で作り上げられるものなのだ。
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アイデアとやる気と行動力

2009-08-08 | 
先週、友人のタイが家に来た。
タイは20代半ば、行動力にあふれる男で、西海岸で氷河ガイドをやっている。
数年前にヤツが氷河ガイドになった時にヤツに言った。
「オマエな、自分のことを日本人初の氷河ガイドとか日本人唯一の氷河ガイドなんて吹聴するなよ。自分でそんなことを言うことほどみっともないことはないからな。他人がオマエのことをそう言うのはよろしい。だけど自分では言うな」
というわけでボクはこの日本人初の氷河ガイドを高く評価している。
スキーの腕は一流、カヤックもバリバリ、ボルダリングをやるので筋肉ムキムキ。
アウトドア能力は高く、娘に言わせるとハンサムボーイなんだそうだ。
ヤツは自宅で蜂蜜は取る、網でカレイなどの魚を捕る、ホワイトベイトも捕る、家庭菜園ももちろん、鶏を飼って卵も取る。最近ではウナギも取りはじめた
そんなヤツが西海岸で採れたサーモン、鹿肉、ウナギなどおみやげに持ってきた。



最近の大ヒットはウナギ。
取れることは取れたが、捌くのだって大変だったと言う。
悪戦苦闘、試行錯誤、一致団結、有言実行、の末わが家に西海岸産のウナギが届いた。
燻製にして食べたというが、日本人ならやっぱ蒲焼きでしょう。
だが蒲焼きの道は遠い。
ボクが蒲焼きのタレを作り、タイが串を刺す。
串を刺すのだって楽ではない。皮は固く串が刺さりにくい。
「うわあ、こりゃ大変だあ。串差し3年って言うけど、ホントですわ」
「そんなに大変?」
「うん、まず串が太すぎる。それに先が尖ってないと上手く刺さらないッスよ。なんか滑って自分の手を刺しちゃいそうで怖い」
串もなんでも良いわけではないらしい。こうやって一つ一つ学んで人間は成長する。
それでもなんとか串を刺し終え、炭火をおこし焼いてみた。
一緒に焼くのはサンマ、鳥肉、野菜など。




最初はタレを付けずにあぶり、徐々にタレを塗りながら焼く。
焦がさないようにマメにひっくり返しながら焼く。
タレの焦げる香ばしい臭いが辺りに充満し食欲をそそる。
さあ、できた、気になるお味は?
「ウメ~!!!!!!」
泥臭さは全くなく、やや淡泊な白身。ウナギ独自の味が濃い。
固いかと思った皮は柔らかく、ほどよく脂がのり、甘辛のタレが全体を包む。
深雪が黙々と食べる。本当に美味い物を食う時のこいつの癖だ。
「こりゃうめえなあ。タイ、大成功じゃんか」
「次は串の刺し方ですかねえ。焼くときに皮が丸まるのでそれを考えながら刺さなきゃ」
ナルホド、向上心を持ち続けるのはいいことだ。



アイデアとやる気と行動力。
これで人間は幸せになれる。
新しいことを始める時に、先ず考えるのが「うまくいかないんじゃないか」という思い。
例えばウナギを食べるということだって
「泥臭いんじゃない?」「皮が固いって聞いたわ」「大味で脂っこいみたいよ」「そんなの美味しくないでしょう」
否定的な言葉は次から次へと出てくる。
少数の人は試してみてうまくいかないと知る。
その言葉を聞きほとんどの人は、やりもしないでダメだと決めつける。
それはどこから来るのか?
その人の心の中にある失敗を恐れる恐怖から来る。
その結果いろいろな言い訳を並べ上げ、行動を起こさない。

ボクは今、色々な物を作っているが、やってみたら意外と簡単だった、というものは多い。
行動を遮っている物は、自分の心だ。
失敗は経験であり、経験は財産だ。
これからも試行錯誤を繰り返しながらいろいろやっていくだろう。
うま~い蒲焼きを食いながら、そんなことを考えた。
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