あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

シーズン終了

2022-05-06 | 日記
旅の終わりはいつも虚しくて誰かと一緒に、気の合う仲間とオーイエ。
『また会えるさ』というタイトルのJCが作った歌だ。
この歌ができたのも30年ぐらい昔になるか。
冬から冬へ、南半球と北半球を渡り鳥のように行ったり来たりしていたあの頃、春は別れの季節だった。
スキー業界という特殊な世界で生きていた仲間とは、春になれば別れて次の冬にまた出会う。
そんな事の繰り返しだった。
ニュージーランドに定住するようになり、ハイキングやスキーの仕事をするようになっても季節というのは常に身の回りにあった。
忙しい夏が終わり秋が来ればハイキングの仕事がなくなり冬にそなえ、冬のスキーシーズンが来て忙しい時を過ごし春が来ればヒマになり、やがてくる夏に備える。
気がついてみればそんな生活を20年もやってきた。
僕は基本的に季節労働者なんだろう。
季節の移り変わりに、ロマンを感じ、哀愁を覚え、喜びを見出し、物のあわれを知る。
ニュージーランドは日本と同じように四季があり、季節ごとの美しさや優しさ厳しさを感じ取れるのもここに住んでいる理由の一つだ。



ツーリズムという職種と全く違う農業という世界から、今回は季節の移り変わりを見てきた。
去年の冬の剪定から始まり、ブドウが芽吹き成長し味をつけ熟すまで、一通りの仕事をした。
その時期ごとの仕事もあるし、季節を通しての仕事もあるが全て楽しい経験だった。
大変な作業もあったが、それが終わった後の充実感はやったものだけが分かる山登りの感覚に似ている。
収穫で畑の仕事は終わるかと思っていたが、実際はネットを巻いてそれを納屋にしまってシーズン終了である。
もちろん、ワイヤーを直したり、散水のシステムを直したり、その他もろもろ畑の仕事はエンドレスだ。
だがそういった仕事は後回しでもよい仕事で、冬になり剪定が始まるまでにそういう仕事をする。
とりあえず収穫が終わりネットを片すところでシーズンは終了なのだ。
忙しい時はとことん忙しいがヒマな時はヒマというのはツーリズムと同じで好きだ。



収穫が終わってそのままにしてあったネットを外し機械でロールに巻いていく作業は数人の作業である。
あーだこーだ言いながらやっていくと、葡萄畑のネットが外れ風景が変わっていく。
白いネットに覆われた姿を見慣れてしまうと葡萄畑本来の姿が新鮮に見える。
丸まったネットをヒモで縛って、納屋にしまう。
そういう作業をしながら、収穫もれのブドウをバクバクと食う。
収穫時には若かった実がちょうどよく熟していて食い頃になっているのだ。
我ながらよく食うなあと思うが、目の前に旨そうな実があれば食うのが葡萄への感謝であり礼儀であり敬意である。
ほとんどの実は鳥に食われてしまっているし、早い木は葉っぱを落とし冬に備えているのもある。
周りの木々も葉を落とし、空を見上げてみれば完全に秋の色だ。



秋が来ると妙に感傷的になるのは今始まったことではない。
気がつけば毎年毎年秋になると同じようなことを書いている。
なんなんだろうなぁ、この感覚。
紅葉がきれいでそれが一斉になくなった祭りの後、という感じではない。
それよりも、誰も意識しない場所で木の葉っぱが落ちていき、いつのまにか木が丸裸になり夕焼けにシルエットを映す。
やっぱり自分の心の秋のイメージは、わびさびなんだろう。
こういったのも四季があればこそで、常夏の国ではこの感情も生まれないし、極限の地では夏が終わると同時に冬になるのでこの感情が生まれる隙がない。
そうやって考えると地球上で緯度、南緯も北緯も35度から45度ぐらいという地域に限られて四季の移り変わりが楽しめることになる。
そしてまた大陸という場所も何か違うような気がする。
大陸とは大きな陸地であり、島国のような繊細さが無い、もしくは少ないような印象を持っている。
これは島国にしか住んだことのない僕の私見で、ひょっとすると大陸にもわびさびを感じ取れるような場所があり、そういう文化があるのかもしれない。
それならそれでそういう場所に行ってみたいものだ。



シーズン終了の話だった。
日本はGWだがこちらでは5月というのは何もない。
暦上で祝日も無ければ、学生や子供の休みも無い。
ある意味落ち着いた、普段の生活をする時期だ。
葡萄畑も何もなく、ほぼ1ヶ月の休みとなった。
この休みの間に、所用でオークランドへ行く予定である。
ついでに北島を観光がてらドライブして南下して、普段会えない人に会ってこようかなどと目論んでいる。
でもその前にまず庭の仕事からだな。
夏の間に忙しくて、庭のことがほとんどできなかったのでやることはいくらでもある。
まずは蒟蒻芋の収穫から。
蒟蒻芋、山芋、キクイモ、里芋、秋は収穫の秋、食欲の秋でもある。







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ワイナリーとビンヤード

2022-04-25 | 日記


あわただしい収穫が終わり、ブドウ畑も落ち着きを取り戻した。
その後は収穫コンテナを洗ったり、ネットを片付ける作業に入るが、収穫の時のように時間に追われる仕事ではない。
気持ちが楽だ。
たまにワイナリーの方の手伝いをする。
ここで僕同様、ワイン業界のことをよく知らない人達に用語をいくつか説明する。
まずはビンヤード、これはブドウ畑のことで、ワイナリーとはワインを作る醸造所だ。
この二つによってワインは作られる。
ビンヤードだけ持っていてブドウを作って、取れたブドウをワイナリーで作ってもらう外部委託をする人もいる。
同じ人が両方で働く事もあれば、ビンヤード組とワイナリー組に分れて仕事をすることもある。
日本酒で例えれば、米を作る田んぼと酒蔵のようなものだ。
そしてビンテージと呼ばれる期間がある。
これはブドウの収穫、そしてそれをワインにするまで1〜2ヶ月ぐらいの期間を指す。
南半球ニュージーランドで言えば、3月後半から5月ぐらいまでだろう。
ビンテージ中はとかく忙しく、スタッフは泊まり込みで働く。
常駐のスタッフに加え、その時だけ雇われる人もいる。
チームで働くので、とかく人間関係というものがつきまとう。
今回もまあいろいろとあったが詳しくは書かない。



ビンテージ中は皆で一緒にご飯を食べて、ワインを飲む。
各自がこれぞというワインを開け、それについてあれこれ話す。
ニュージーランドのワインだけでなく、フランスワインだの、イタリアワインだの、スーパーで売っていないワインが出る。
ワインは全てブラインド、靴下でボトルを覆いラベルが読めない状態で持ってくる。
それを味見して、どこの国のどの地域のブドウの品種は何だとか、そんな事を言い合いながら飲むのだ。
はっきり言ってオタクの世界、ワインオタクだ。
僕以外は皆ワインの専門家であり、会話の内容はチンプンカンプンである。
そうだな、例をあげてみよう。
あるスキーヤーの集まりで、皆はアラスカではどうだとか、ニセコではどうだったとか、ヒマラヤではどんな具合だ、いやいやニュージーランドにはクラブスキー場というものがあって、と喋っている。
そんな中に一人、「スキーで足を揃えて滑るの難しいですね」という人が紛れ込んでしまった場違い感。
伝わるかなぁ。
もしくは料理のプロが集まり、フランス料理の基本がどうだとか、イタリア料理の素材があーだこーだとか、日本の築地で食った寿司が最高だとか、中華料理はなかなか奥が深くてなどと話している。
そんな中で、「スーパーの惣菜って美味いよねー」という人がいる状態。
分かるかなぁ。
または音楽家が集まり、どこの国での演奏会はどうだったとか、どこそこのコンサートホールは音が良くてとか、あの人の指揮でやると引き締まるとかそんな話をしている。
そこで「自分の経験は小学校の音楽発表会で、パートはカスタネットでした」というぐらいの違和感。
もういいですか?
とにかくそれぐらいの場違い感なのである。
でもみんな優しいから僕にもワインを勧めてくれる。
飲んだ感想は「美味しい」だけだ。
あんたたちが開けるワイン全部美味しい。
どれぐらい美味しいか分からないけど美味しい。
美味しいと言ったら美味しい。
いや、一つだけハズレがあった。
いくつもワインが開く席でグラスに注がれて、他の人たちはまだグラスに前のワインが残っていたので僕が最初にそのワインを飲んだ。
えー、これってこういう味のワインなの?と思った。
美味くないどころか不味いのだ。
でもその道の専門家が選ぶワインでそんなのあるのか、と自分の舌を疑った。
僕が黙って様子を見ていると他の人たちもその問題のワインを味見して顔をしかめた。
話を聞くとコルクからバクテリアか何かのナンチャラで(全然説明になってないな)ワインが不味くなることがたまにあるそうな。
そのワインはみんな瓶に戻し、後でお店に返品するらしい。
あーよかった。これで皆が口を揃えて「うむ、これはこのワイン特有の味だね」なんて言ったらどうしよう、などと妄想してしまった。
そんな具合にビンテージ期間、僕はいろいろなワインを飲ませてもらった。
専門家の人達はこうやって自分の舌を鍛えるようなのだが、僕の感想はワインって美味しいんだな、というつまらないものだった。
たぶん自分の人生で一番良いワインを飲んだのだろうが、それがどれぐらいすごいことなのかよく分かっていないのも自分だろう。



ビンヤードチームは基本的に畑で仕事をするが、ワイナリーが忙しい時にはそっちの仕事を手伝うこともある。
収穫したブドウは機械で房をバラバラにしてプレスという機械で押しつぶしてジュースにする。
それをタンクに入れて発酵させるのだが赤ワインではしぼった皮をタンクに入れて色と味を出す。
タンクの中では皮が浮いてくるので、その皮を押し沈めるプランジングという作業もする。
これが最初は1日朝晩2回、発酵が進んでくると1日1回になる。
その時にワインメーカーは全てのタンクの味見をして、絞るタイミングを見極める。
僕も何回か味見をさせてもらったが、よく分からないというのが感想である。
まあそりゃそうだわな、ワインの味もよく分からないのにその前段階の状態を飲んで分かるわけがない。
そういうことは専門家に任せて、ワイン初心者の自分は「へえ、ワインってこうやって作るんだあ」と小学校の社会科見学のごとくただ感心するだけ。
それでも新しい知識を体験という形で得るのは楽しいもので、知的好奇心を満たす喜びは年齢に関係なく人生の糧であると思うのだ。
ありがたやありがたや。


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収穫は続く

2022-04-18 | 日記
農場でのメインの葡萄はシャルドネとピノである。
これが畑全体の8割ぐらいだろうか。
ワインとしてもこの二つが主軸なので、優先で収穫をする。
ピノの収穫が終わると、先が見えて肩の力が抜けるが収穫はまだ終わったわけではない。
残りの畑では、リーズリング、ピノ・グリ、ギベルツ、マスカットなどがある。
どれも白ワイン用の葡萄で、リーズリングでワインも作るが、ブレンドしてオマージュというワインも作る。
葡萄の収穫も大詰めに入っているのはどこの畑でも同じで、なかなか人が集まらない。
そしてせっかく来てくれた人が思うように働いてくれない時もある。
前回に書いたフィリピン人のオバチャン達は陽気に働きながら仕事が速く、みるみるうちに収穫コンテナが貯まっていく。
かと思えば、愛想ばかりよくて全然進まないグループもある。
人のやり繰りというのも農場経営には大切な仕事なんだなあ、と実感した。



思うように人が集まらなければ自分たちでやるしかない。
ハサミを片手にチョキチョキとブドウを収穫していく。
当然ながら味見をしながらだ。
農場の中でアルザスと呼ばれる一角には、色々な種類が数列づつ植わっていて、味の比較ができる。
食べて美味しいのはマスカット。これは食べるブドウでも出回っているので味は想像できるだろう。
ちなみに去年の冬に選定の仕事をした時、切り落としたマスカットの枝をいくつかもらってきた。
家に一本だけあるブドウの木に接ぎ木を試みたがうまくいかなかったが、地面に挿したものからは葉っぱが出て順調に育った。
あと何年かしたら我が家でもマスカットが採れるだろう。今から楽しみである。
もう一つ、ゲベルツという品種。これがなかなか美味い。
ドイツの品種でGewürztraminerという何回読んでも覚えられない名前だったが、さすがにブドウ農園で働いて名前を覚えた。
ちなみに正式にはゲヴュルツトラミネールと言うらしいが、面倒臭いからゲベルツと記す。
これは赤っぽいブドウで、赤っぽいブドウの味がする。こいつがなかなか美味い。
ゲベルツ単体のワインを飲んだことがないのか、それとも飲んだけど覚えてないのか。
いずれにせよ、あまり出回っていないし自分では進んで買わない。
僕の中ではそんな位置付けのワインなのだが、ブドウは美味かった。
ただ残念なことに鳥に食われて結構なダメージを受けていた。
鳥がブドウの果実をついばむと、そこから腐ってしまう。
腐ったブドウは臭くて食べれたものではないし、もちろんワインにもできない。
だからネットをかけるのだが、ネットには穴がいくつも開いていてそこから鳥が入ってしまう。
ネットをかけ終わった後、チマチマと穴を塞ぐ仕事をコテンラジオを聴きながらやったのだが、一人でやる作業はどうしても限りがある。
それも高級品種のピノからやってきたので、こちらには手が回らない。
鳥を見かけたら追い出す作業もしてたが、かなり食われてしまった。
食われて腐った場所をハサミで切り落としながら収穫をするので時間もかかる。
それでも何日間かかけてその一角の収穫を終えた。



残ったのは平地の一角にあるリーズリングだ。
ここのブドウが最後の収穫となった。
実は熟しきり中には干しブドウのようになってしまったものもある。
そして貴腐菌が繁殖してしまったものがかなりあった。
これは貴腐ワインを作るのに必要な菌だ。
ここで貴腐ワインとレイトハーベストワインは、どちらも甘いデザートワインのような存在だが、その違いを教えてもらった。
レイトハーベストとは収穫を遅らせ、ブドウの水分をわざと失わせ甘く熟させる。
当然ながら収穫してしぼってもジュースはそんなに多く出ないから、値段も高くなる。
貴腐ワインは似ているが、貴腐菌によりブドウの味が変わりそれを絞ってワインにする。
これが繁殖したブドウを味見したが、もともとのブドウの味とは全く違う味がしてこれはこれでなかなか美味い。
でもこれはリーズリングならOKだが、ピノに貴腐菌がついたものは使いものにならない。
レイトハーベストというワインは飲んだことはあるが、貴腐ワインは飲んだことがない。
ワイナリーでは貴腐ワインを作るかどうかまだ決まっていないが、これから話し合って決めるそうだ。
僕自身はこういう菌を利用して何か作るというものは大好きで、世の中は菌が動かしていると真剣に思っている、細菌至上主義である。
庭の堆肥も酒の発酵も納豆もパンもチーズもヨーグルトもザワークラウトも醤油もお酢も全て菌のおかげで、菌様様なのに人間は気づいていないどころか菌を一段低くもしくは汚いもののように扱う。
全くもってけしからん。
話が飛びに飛んだが、貴腐菌がついたリーズリングのブドウは美味かったということだ。
貴腐菌がついたリーズリングは木に残したまま、なんとか収穫が終わった。



収穫したブドウは全て重さを測るのだが、総量は50トン近くになった。
近年まれにみる豊作なんだそうで、素人の僕が見てもこれ以上収量が上がることはないだろうな。
その50トンものブドウを僕とボスの二人で回収した。
厳密に言えば僕がバイクを運転して、全てのブドウをボスが一人でトレイラーに積み込んだ。
すごい話である。自分がやったら腰を痛めてしまうだろう。
もちろんトレイラーに積み込む以前に、コンテナのブドウを均したり積み込みやすい位置に置くなどの仕事もある。
だけど肉体的に一番大変なのは積み込む作業だ。
それを黙々とやる姿は男惚れするし、そういうボスだからこっちも一生懸命やろうという気にもなる。
自分が楽してキツイ仕事を部下にやらせる上司、というのはたまにいるが働く人の気持ちを萎えさせる。
そして自らが頑張ってやろうと思い働いて、収穫が終わった後の達成感、満足感、やりとげた感はすさまじいものがあった。
その後の乾杯のビールが美味いこと、美味いこと。
去年の7月から始まり、剪定、芽吹き、蔓が伸びる様子、脇芽のめかき、果実の周りの葉っぱもぎ、下草狩り、余計な蔓の剪定、ネット掛け、鳥をネットから追い出す作業、そして収穫。
それぞれのシーンが走馬灯のように廻り、その間にも色々な人間ドラマもあった。
ブドウの育成を1年というサイクルで見たいと思っていたことが体験できたし、満足のいく結果も出た。
それを何年も何年もやっているプロの人から見れば、今年は良い出来だったね、の一言なのかもしれない。
だが何も知らない素人だからこそ見えるものも感じるものもある。
僕は自分のその気持ちを大切にしたい。
何歳になろうが新しい発見、体験、感動ができることは嬉しいことである。
ありがたやありがたや。


こうやって一箱づつトレーラーに積む。総量50トン。


ネットから出た所で一番上まで箱を積み上げる。


そして運ぶ。


ワイナリーに着いたらフォークリフトでパレットごと下ろし。


重さを測る。だいたい1パレットで4〜500キロぐらい。


重さを測ったらそのまま冷蔵庫で一晩冷却。ワイナリーチームがこの後ブドウを絞る。


美味しいワインができるかなぁ。
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収穫 収穫 また収穫

2022-04-16 | 日記


3月後半から4月頭にかけて、葡萄畑では収穫の時期を迎えた。
先ずはシャルドネから収穫が始まった。熟しきったシャルドネは緑から金色っぽくなり、とにかく甘い。
そしてボスの受け売りだが、鼻に抜ける葡萄の香りがして、この香りがワインになった時の香りになる。
正直ぼくはワインの味はよく分からないが、葡萄が美味いのは分かる。
甘くてやや酸っぱくてみずみずしい葡萄、これをバクバク食いながら仕事をする。
食うと言っても普通に食うのではなく、房ごと口に放り込んでジューっと口の中で絞って、種と皮だけ吐き出す。
味は良いが種と皮の割合が多く、食べづらいのがワイン用の葡萄だ。



収穫はピッカーと呼ばれる人に頼んでやる。
それ専門の業者がいて、何曜日に何人というぐあいにやりくりをする。
僕らの仕事は彼らが’スムーズに仕事ができるよう、畑に収穫のコンテナを置き、それが葡萄で満杯になったら回収をする。
摘んだ葡萄はコンテナごと大型の冷蔵庫で冷やす。
あまり暖かくなると酸が抜けてしまうので、暑い時は直射日光が当たらない日陰に置いたりして、できるだけ早く回収して冷蔵庫へ入れる。
本収穫の初日には30人以上のピッカーが来て、てんやわんやの大騒ぎだった。
コンテナを配る作業に追われ回収が追いつかす、ピッカー達が帰った後に黙々と回収をした。
朝も暗いうちから働き始め、仕事が終わったのは日もとっぷり暮れて真っ暗になってからだ。
まあ農場の繁忙期というのはどこもそんなものだろう。



ピッカーで時々来てくれるアジア人のおばちゃん達がいる。
おばちゃん達の仕事は早く、別のグループの倍ぐらいのスピードで収穫していく。
聞いてみるとフィリピンの人だと。
何を話しているか分からないが、彼女達が仕事中ケラケラ笑いながら話すタガログ語を聞くのは心地よい。
たぶんフィリピンにも言霊というものはあるのだろうな。
言葉の意味は分からなくても、聞いていてトゲがない言葉というものはある。
たぶん科学的にも証明されるだろうが、ぼくは直感でそれを感じる。
人をホッとさせるような言葉の抑揚と響き、逆にイライラさせるような響きもある。
それはたぶん発する人の感情にも左右されるものだろうし、他にもあれやこれやあると思う。
日本語にも方言というものがあるように、全ての言語に方言はあるだろう。
共通言語は社会で必要だが、方言の中にこそ人の本質があるような気がする。
そしてたぶん意味は分からなくても、音でそれを感じることができるのだろう。
言語というのは面白いものだなあ。
今度は言語学というものを勉強してみようかな。



葡萄と一口に言ってもいろいろある。
食べる用の葡萄とワイン用の葡萄は種類が違う。
またワイン用でも色々あるが、農園で栽培しているのはピノ・ノワールとシャルドネがほとんどである。
シャルドネは緑色の葡萄で、ピノ・ノワールは黒葡萄だ。略してピノと呼ぶ。
数日かけてシャルドネの収穫が終わると、そのままピノの収穫へ入る。
ワイナリーの主要銘柄とあって畑の面積も広く収量も多く、連日の作業だ。
ピッカーは朝7時から仕事を始めるので、僕らはそれに合わせ6時半ぐらいから仕事を始める。
休みはほとんど無く、朝から晩まで働くので当然ながら体はガタガタだ。
でも葡萄は待ってくれない。
収穫のタイミングを逃すと味が落ちてしまうので、現場の人間にもプレッシャーがかかる。
ここが今回の収穫の峠なんだな、というのが分かり最後は気力で乗り切った。
作業は楽ではないが、やり甲斐があるというのを実感できるのが葡萄の美味さである。
シャルドネは爽やかな味だが、ピノは甘さの中に葡萄本来の旨さが凝縮しているような、そんな味だ。
作業の合間にちょっと手があけばバクバク食うし、喉が渇いて近くに水がない時はわざと熟しきっていない実を食べて水分補給をした。
ずーっとピノばかり食べているとちょっと飽きるので、収穫が終わったシャルドネの取り残しを食べて口直しなんてのもありだ。
収穫の間に僕は何百個の葡萄を食べただろう。人生でこれ以上ない、というぐらい食べた。



どこの国で何の作物か忘れてしまったが、奴隷を使って収穫をしていた時代、奴隷がその収穫物を食べると罰せられたと言う。
悲しい話じゃないか。
目の前に美味しい果実がなっていて自分は働いて収穫をするのにそれが食えないなんて。
人類史にはそういう事もあった。
当時の人とは全てが違う事を知り、完全にはその人の心境にはなれない事をしりつつ、なおかつ当事者の心を想像する努力をする。
それが人文学の醍醐味であり、相対的に今の自分の境遇を俯瞰で見ることができる。
今当たり前にある事を当たり前として受け取らず、客観的に自分を見れるとも言えよう。
現代では葡萄も食べられるし、働いてお金ももらえるし、食事も用意してくれるしビールもワインも飲ませてくれる。
昔の人から見れば夢のような話だろうな。
ありがたやありがたや。

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善悪とは何か ロシア・ウクライナ戦争について考える。

2022-03-19 | 日記
最近はウクライナ戦争のニュースでコロナの話も霞んできている。
ここらでこの戦争に関する自分の意見というか考えをまとめてみたいと思う。
まずは意見を持つにあたり、どの情報を選択するか。
これによって人が持つ印象や思想は変わるので、これは慎重に選ばなくてはいけない。
そしていかなる情報も100%信用してはならないということだ。
情報は常に操作される可能性があるものだし、伝言ゲームのように少しづつ変わるうちに全く違う物になりうるということを前提に考える必要がある。
「テレビで言っていたから」という言葉を昔はよく聞いたが最近は聞かないなあ。
このテレビという言葉をなんでもいいから置き換えてみよう。
「ラジオ」「新聞」「本」「偉い先生」「学者」「ネット」「友達」「SNS」
まあなんでもありだが共通して言えることは、僕が実際にそれを経験したわけではないということだ。
じゃあ一体何を信じればいいの?ということになるが、それは他者が決めることではないし、自分で考えろと言いたい。

さて僕らが普通に見聞きしている情報とは西側の情報がほとんどであり、東側が発信するニュースとか、もしくはイスラム側からのニュースは入ってこない。
そんなの分かってるよ、と僕も思っていたが実際に自分で見ると実感が湧く。
ニュージーランドのテレビで、ロシア軍がウクライナの病院を爆破して一般人に被害を与えたというニュースを見た。
次の日にネットで見つけたロシアのニュースでは同じ建物が写っており、この建物は元病院だったが何年も前からウクライナの軍事施設として使用されていたというものだ。
どちらが正しい、という検証はできないしやっても意味はない。
ただそういうものだというだけだ。
先日コテンラジオが特集でロシアとウクライナの歴史をやった。
時代は8世紀ぐらいまでさかのぼりそこから現在まで、取ったり取られたり、併合と分裂、独立と支配下を繰り返す。
レーニンとかスターリンとか学校の授業で名前は聞いたことがあるというような人がどういうことをしたという話になり、ゴルバチョフ書記長とかアンドロポフとかブレジネフとか子供の頃に聞いた名前も出た。
そして今まで知らなかった分野だが地政学という、地理と政治を組み合わせた考え方。
ここに山があるから向こう側とこちら側では文化や民族が違うとか、海に囲まれた島国だから隣国が攻めにくいとか、そういう話だ。
日本でも北陸の虎と言われたとんでもなく強い武将上杉謙信も雪には勝てなかった、なんていうのはその部類に入るだろう。
そういう地政学的見地からと、歴史を通しての人の行き来など両方の見方で考えると、より今の状況が分かりやすい。
ロシアがウクライナに一方的に侵略した、というのが一般的な(西側の)ニュースであるが、西側にも骨のある人は居る。
アメリカの退役軍人パトリック・ランカスターという人は2014年からウクライナに住んで現地の状況を撮影してきている。
それによるとドネツクのある村の人は8年間もウクライナ軍に攻撃され続け、子供達は学校にも行けず生まれてからずっと地下シェルターで暮らす子供もいる。
これもネットで出てきた情報で100%信じてはいないが、少なくとも僕は大手西側メディアのニュースより信用できると感じた。
こういった人達やウクライナ国内のロシア系民族から見れば、ロシアが自分達を助けに来てくれたと言える。
ウクライナの国内にもロシア人はたくさん住んでいて、さらにロシア人とウクライナ人はほぼ同じ民族だ。
どちらにも言い分はあり、自分は正しく相手が間違っているという、どこの世界にもある喧嘩だ。
問題はロシアとウクライナだけでなく、ウクライナの後に西側諸国がいるしロシア側に中国がつくなんて話もある。
こうなるとどの国がどちら側につく、という話に展開していき最悪のシナリオは第三次世界大戦だが、僕はそうならないだろうと根拠なく思っている。
話をウクライナに戻すが、どちらが正しいという判断はできない。
もちろんプーチンがやっている軍事侵攻が正しいとは思わないし、ウクライナがやってきたことも正しくない。
戦争は全世界がやめるべき最たるものだ。
だが歴史を見る限り、人類の歴史とは分裂と統合の繰り返しでありそのバックにあるのは常に暴力だ。
第一次世界大戦が終わった後で、こんな悲惨なことが二度と起きないようにしようという話し合いになり国際連盟が出来た。
理想的な組織に見えたが、その組織自体が力を持たなかったために次の戦争を止められずに結局世界は第二次大戦へ突入した。
力を持っている組織は強くて指導権を持つ、力を持っていない集合体は結局のところ蹂躙され支配下に置かれる。
そして暴力を正当化するために相手を非難する、行き着くところは「自分は正しく相手が間違っている」になってしまう。
これは国際問題でも個人のケンカでも同じことだ。
そこに善悪がある限りなくならないだろう。

善悪というのはとても分かりやすく、誰にでも理解できる構造だ。
ウルトラマンや仮面ライダーといったテレビの主人公や、アメリカならスーパーマンにスパイダーマンやバットマンなど、ひいては遠山の金さんや鬼平に水戸黄門、最近では半沢直樹まで。
善い者はヒーローであり正義の味方であり、格好よくて強くて人情に長け、優しくて弱い者を放っておけない。
一方悪い者は、弱い者をいじめ私腹を肥やす悪代官とか、世界征服を企む狂人科学者だったり、悪の組織の手先とか。
悪者は一目見て分かるように悪い面構えで、憎々しげで、憎悪するような感じだ。
そんな悪者が途中まで優勢でヒーロー危うし、でも最後には悪者がギャフンと言って痛い目に会う様子とかを見ると胸がスカッとする。
勧善懲悪、ヒーローが悪者をやっつける構図はとても分かりやすい。
テレビとか映画とかエンタメの世界ならめでたしめでたしでそれもいいだろう。
でも立場を変えて見るのを知るとそうばっかりも言っていられないし、最近はそういう文や絵も出てきている。
誰でも知っている桃太郎という昔話では、ヒーローは桃太郎で悪役は鬼である。
どこで見たのか忘れてしまったが、子供の鬼が泣いている絵があり、「僕のお父さんは桃太郎という奴に殺されました」というものがあった。
小鬼から見れば桃太郎というヤツがいきなり現れ、親を殺し財宝を奪っていった、となる。
もう一つ桃太郎の話だが、ドラえもんの話で、ひょんなことからのび太が桃太郎となった。
鬼ヶ島へ行ってみたら、鬼は難破して漂着したオランダの船員だった。
翻訳コンニャクで話を聞くと、最初は村人に助けを求めたが言葉が通じずに攻撃をされた。
仕方ないので近づく者を脅すと、怖がってお宝を置いて逃げてしまう。
どこでもドアでオランダ人を祖国へ送ってあげて、のび太は財宝を村へ持って帰ってめでたしめでたしという話。
この場合の悪者は一体誰だ?
今の世でも本質はたいして変わらず、悪者は相手で自分は正義の味方、自分達にこそ正当性があるということを主張する。
だからフセインだってカダフィだってビンラディンだって殺してもよい。だって自分は正しいから。
最終的には暴力でカタがつき、その後は土地も民も国もボロボロだ。

最近僕は簡単に善悪を決めないように心がけている。
常に相手の立場で物を考えたり、別の視点で物事を観るように気をつけている。
やってみれば分かることだが、善悪を決めないと分かりにくいし結論が出ないことが多いので、人を納得させられない。
メディアのニュースの対象は一般大衆なので、分かりやすくストーリーにする必要がある。
分かりやすいストーリーとは勧善懲悪で、プーチンを悪者にするのが分かりやすいし都合もよい。
どちらも正しくてどちらも間違っている、では大衆は納得しないしニュースにならないのだ。
善悪を決めないのはよいとして、ではどうすればいいのか、僕には分からない。
喧嘩両成敗というシステムが成り立てば良いのだが、そうもいかないだろう。
だが武力で解決するというやり方では何も始まらないことは断言できる。
戦争の反対は平和だと思いがちだがそうではない。
まず平和(という状態)の反対は無秩序(という状態)であり、戦争(という外交)の反対は話し合い(という外交)だ。
例え戦争で勝ってもそれはいずれ次の戦争を生むのは歴史をみれば分かる。
これは当事者、ロシアとウクライナの事だけではない。
経済制裁をしようとしている国はあるが、それをやっている国は経済制裁が暴力だとは思っていない。
経済制裁という暴力に出た結果、原油の値段は跳ね上がった。
これによって全ての物価は上昇するのは目に見えているし、それはすでに始まっている。
企業はこんな状況だから自分が損をしてでも人々の為に安い値段で提供します、とはならない。
これは企業を非難するのではなく資本主義というものがそういう構造だからだ。
結局のところ庶民の財布を苦しめる結果となる。
いつの世でも戦争があれば苦しむのは一般大衆で、特権階級や支配者階級は苦しむどころか得をする。

地理的にニュージーランドは戦場から地球上で最も離れた場所だろう。
そんな遠くにいる自分が出来ることは、一体なんだろう。
ウクライナに義援金を送るのは違うだろうな。
ロシア産の食べ物を買おうにも売っていない。
ウクライナ料理、ロシア料理のお店も聞いたことがない。
血迷ってアフガニスタン料理のお店に行くか、あそこは美味しいから。
何をするべきか考えた。
考えた結果出たのは、想いを馳せる事だろう。
傍観者にならず、無関心でもなく、無関心とは愛と懸け離れた感情だからだ。
情報は操作され得る事を知りながらその情報を見聞きして、自分なりに何が起こっているのか考える。
これは何も戦争に限ったことではなく、全ての世界情勢でも同じことで、歴史の生き証人となる。
ロシア、ウクライナに限らず、報道されないだけでウィグルの人のように、世界中で傷め続けられている人がいる。
その人たちのことを想いながら祈り、自分の目の前のやるべきことをやる。
それが一隅を照らすという事であり、戦争を終わらせ平和を導く鍵だと信じる。
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初収穫

2022-03-12 | 日記


先週の事だが、今年初の収穫があった。
収穫するブドウはシャルドネという品種で、今回はスパークリングワイン用に1500キロを収穫する。
10人ぐらいの人が来て、1日の作業量だ。
先ずは下準備で収穫場所のネットの覆いを外し、ブドウを入れるコンテナを畑に点々と置いていく。
そんなことをしているうちに人がやってきて作業が始まった。
今回は収量が少ないので、働く人は全てボランティア、ワインメーカーの知り合いとか近所のおばさん連中である。
作業もわりとのんびり、おしゃべりをしながらする。
当然ながら美味そうなふさを味見しながら作業をする。
甘みはほどほど、酸味が効いていて美味い。
もっと時間が経つと甘みが増えていくがスパークリング用なので早めに収穫をする。普通のシャルドネの収穫はもう少し後だ。



思えばここの畑で働き始めたのが冬。
ブドウの事など何も分からず(今も分かってないが)言われるままに剪定の仕事をした。
切った枝を取り払い、ワイヤーに縛り付ける作業を何千本もやり終えた時には嬉しかった。
そして春が来てブドウが芽吹き、根っこから出てくる脇芽を切る作業。
春から夏にかけては、成長に合わせワイヤーに木を挟み込む作業。
そして夏の盛りには、実の周りの葉っぱを手でもぎる仕事を娘と一緒にした。
実が熟してきたら、鳥に食べられないようにネットを張る作業をしたのはつい最近のことだ。
この数ヶ月、いろいろあったなあ。
自分の身の周りもいろいろあったし、社会的にも国際情勢もいろいろあった。
いろいろありすぎて、それぞれの出来事が実際に自分の身に降りかかる感覚が薄れている。
個々の出来事は小さくはないのだが、次から次へと事が起こりあっというまに忘却の彼方に葬られてしまう。
忘れてしまうものもあるが得るものもある。
知識である。
ラジオを聴きながら作業をするので、歴史にはある程度詳しくなったし、経済も哲学も社会学もその流れで学んだ。
今まで見られなかった視点で世界や自分を取り巻く環境を見ることができるようになったのは大きな変化である。
特に社会の構造と自分がどこに位置するかという点を考えるのが楽しい。
社会とは小さな範囲では家庭もそうだし、所属するクラブ、学校や会社、友達付き合い、地域社会、果ては国際社会までありとあらゆるものが社会だ。
それらの構造を理解することにより、俯瞰的にものが見られる。
自分の視点だけだったものから、相手の視点を知ることにより、より相対的に考えるようになった。
相対的に物を考えるという点では、人間界と植物の世界の対比が面白いと思う。
植物の世界とは、すなわち自然界だ。
人間界ではいろいろ大変なことになっているが、ブドウから見ればそんな事は知らん。
その場から動けないブドウが感じるのは、暑い寒い水が多い少ないというような事だ。
放ったらかしにすれば病気にもなるが、手をかけた甲斐あって今年は病気にもならず、ブドウはたわわに実った。
成長を一部始終見てきた僕にとっては、素直に嬉しい。



みんなが収穫を始めると、ブドウが入ったコンテナを回収する作業になる。
4輪バギーの後ろにトレーラーを付け、コンテナを積んでいく。
一つ一つのコンテナは12〜3キロぐらいでそれほど重くないが、とかく量が多い。
その間にもボランティアの人が指を切っちゃったからバンドエイドを欲しいとか、こっちでコンテナが足りないぞとか、モーニングティーの準備とか、裏方はいろいろと忙しい。
それでもお昼頃には予定していたエリアの収穫を終えた。
お昼はみんなはワインを飲みながらワイワイとやるのだが裏方はゆっくりしていられない。
午前中の収穫の総量を測ってみたら990キロだった。
この日の目標は1500キロ。というわけで別の畑の収穫の準備。
ネットを上げて、必要な分のコンテナを振り分けていく。
みんなはお昼にワインを飲んで気持ちよくなったのか、午後の作業はペースが落ちたが、それでも夕方には無事予定の収量に達した。
ボランティアの人たちはお土産のワインをもらって帰って行き、今年初の収穫は無事終了した。



数日後に絞ったジュースを飲ませてもらった。
先ずはガツんとくる甘さ、そして広がる酸味。
やや甘みが勝るが素直に美味い。
これから発酵の過程でこの甘さがアルコールに変化して酸味が残るんだな、きっと。
自分が関わった最初のワインであるから、うちにも1本記念に取っておこうかな。
「これってどれぐらいで製品になるんですか?」
「うーん、3年後かな」
「・・・・・・」
今回はスパークリングワインを作るので、瓶内二次発酵というやり方でやる。
安いスパークリングワインは炭酸ガスを注入して作るが、本来のやり方は出来たワインを瓶に詰めその中で再び発酵させ炭酸ガスを発生させる。
僕が家でビールを作るやり方と同じである。
ビールの場合は瓶内二次発酵は家庭で作る場合がほとんどで、市場に出回っているビールは全て炭酸ガスを注入するやり方だ。
だがワインの場合は逆で高級ワインは瓶内二次発酵で作る。
ワインを瓶に詰めて寝かせる期間が2年ぐらいだと言う。
そりゃあ高いわけだな。気の長い話だ。
一度、そういうやり方で作ったピノ・ノワールのスパークリングワインを飲んだが、確かに美味かった。
そしてそのワインは簡単には手が出ない値段でもある。



とにもかくにも初収穫が終わり、次の収穫まではちょっと間が空く。
次はピノ・ノワールの収穫だが、まだ糖度が足りないらしく収穫は3週間ぐらい先らしい。
それまではノンビリと大好きなコテンラジオを聴きながらネットの穴を紡ぐ日々だ。
コテンラジオではマルクスとエンゲルスの資本論を最近聞いたが、近々ロシアとウクライナの歴史を発表するそうだ。
これまたとても楽しみである。
外部から知識を得ることは、歳に関係なく感じられる人間の喜びである。
ブドウはそんな事知らんという様で、実を熟させていく。
秋が近づいてきている。





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ぶどう畑にネットが広がった。

2022-02-26 | 日記


農家の朝は早い。
仕事は7時半からなので、6時半には家を出る。
仕事場まで1時間のドライブだが、通勤ラッシュと反対向きなので渋滞は全く無くスイスイと走る。
市街地を抜けるとすぐにのどかな牧場の風景が広がる中のドライブを、僕は気に入っている。
最近はカーステレオを新調して、ブルーツースで好きな音楽を聴けるようになったので余計に嬉しい。
カーステレオを買うにあたり、中古で買って自分でやれば安くあがるなどと考えたが、結局は近所の専門店で買った。
最安値の物ではないが、無駄な機能がついて高いものでもなく、シンプルだがちゃんとした音響メーカーの物を選んだ。
スピーカーは古いままだが、これほどまでにと思うほど音が変わった。
さすが音響メーカー。専門性があって当たり前だが、今まで全然興味のない分野の事を少しだけ知った。
毎日2時間を過ごすなかで、心地よい音に囲まれるのは心の持ちようも変わってくる。
QOL 人生の質という言葉があるが、そこにある程度の投資は必要だ。
安い物だけを選んでいればこういう発見も生まれない。かといってなんでも高けりゃいいというものでもあるまい。
やはり大切なのはバランス、そしてそこに価値があるかどうか自分自身の内観とも繋がる。



夏の盛りは家を出る時には明るかったが、この時期になると日の出の時間が遅くなり、通勤の途中、だいたい7時ぐらいに朝日が上がる。
朝晩は気温が下がり、日中も陽の光は暴力的になることなく穏やかなものだ。
季節は流れている。
そんな中、ブドウの実はどんどん熟し色づいていく。
見た目が美味そうなのだが、そう思うのは人間だけではない。
鳥たちもそう思うのだ。
鳥がブドウをつつくとそこから病気になってしまう。
なのでこの時期、どこの農場もネットをかける。
ネットをかけたら機械が入れなくなるので、それまでにスプレーをしたり下草を刈ったりする。
そしてネット掛けの時は人を集めて、1週間ぐらいでやってしまう。
先ずは色づき始めたピノノワールから、すでに熟したものは鳥につつかれてしまっている。
トラクターの運転手、その後ろで機械を操作する人一名、そしてネットを引っ張って広げてブドウに掛ける人数名。
丘で機械が入れない場所では、丘の上までロール状のネットを運びコロコロと転がして伸ばし、それを数名で広げてブドウに掛ける。
何人かのチームでやる仕事なので、この時は何も聴かずに作業に集中する。
作業にアクシデントはつきものである。
作業の途中でネットが破けてしまったり、絡まってしまったり、挙げ句の果てにトラクターがパンクしたり。
いろいろあったが1週間ちょっとで全てのネット掛けが終わった。
丘の上からブドウ畑に広がったネットを見ると、達成感を感じられる。
こういった感覚はやった人にしか感じられないものだ。
例えるなら山に登りきった感覚に似ているだろう。
大きな山には大きな達成感が、小さな山には小さな達成感がある。
大小はあるが、いずれにしてもその人にしか分からない感覚である事に間違いない。



農園には何種類かのブドウが植えられている。
メインはピノノワールとシャルドネだが、リーズリングやピノグリ、マスカットなどもある。
一緒に働いた人が言っていたが、ピノノワールはキロ4ドル50セント、リーズリングはキロ1ドル、良質のピノノワールは7ドルにもなるそうだ。
これは収穫のどの時点での値段なのか分からないが、とにかくそれだけ価格の差があるということだ。
自由市場経済では、多くの人が価値を認めて価格が決まる。
いちゃもんをつける気はないが、何かなあという気持ちは残る。
ちなみにぼくはワインの味は分からない。
この言い方は正しくないな。
不味いワインは分かるが、それ以外はみんな美味いワインになってしまう。
何がどういうように美味いとか、そういうのは分からない。
超高級ワインとか飲んだことはないが、それを美味いと感じるかどうかは分からない。
万人が認めた美味い物に高い値段がつく、というのは理解できる。
ただ高い物が美味いか?と聞かれたら、常にそうとは限らないという答えになるだろう。
不味くても名前だけで売れることはあるし、高い値段をつけた故に売れるということも世の中には多々ある。
値段が高い安いは世俗の話であって、神様仏様から見ればブドウはブドウでそこに上下は無い。
でも僕らは人間界に生きて、資本主義の世の中で働いている。
広い畑を少ない人数で管理するのだから、作業も最優先にピノノワールでリーズリングは後回しとなる。
仕方がない話なのだが、安いという理由でないがしろにされる(実際はそんなにひどい扱いではないよ)リーズリングが可哀想だな。
そんな事をふと考えてしまった。





ネット掛けが終わると、あとは収穫までちょっとの間、のんびりモードとなる。
ネットは穴が開いていたり、破けていたりするので、それをチマチマと縫う。
小さな穴は多すぎて面倒見切れないので、大きく破れている所の補修だ。
お気に入りのコテンラジオで織田信長の話とかフランス革命の話とか資本主義の話とかを聴きながらやるのである。
忙しい時もあればちょっとスローダウンしてまったりと仕事をする時もある。
ちょっと手を休め、丘の上からの景色をボーっと眺める瞬間は何も生み出していないけどこういうのが結構大切なのかなあ、などと思うのだ。
作業の合間に程よく色づいたブドウをつまみ食いすると、けっこう甘くて酸味もあり美味い。
ブドウが色づいてくると、鳥がネットの隙間から入ってきてそれを追い出す作業もある。
だが今年はそんなに鳥は多くない。
近くの国道を挟んだ農場では人手が足りないのかネット掛けをしていないので、付近の鳥がみんなそこに集まっているようである。
おかげでこちらは余計な仕事が減って助かる。
収穫まではもうすぐだ。



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資本主義について熱く語ってみようと思った。

2022-02-14 | 日記
資本主義の話である。
僕が持っていた資本主義のイメージとは、金が全てであり金の為ならなんでもやる悪いヤツ。
そんなイメージを持っていた。
拝金主義や利他主義とごっちゃまぜになっていたのだと思う。
資本主義は悪の手先で、そのうちに仮面ライダーみたいな正義の味方にやっつけられちゃう。
そんな印象を漠然と持っていた僕が資本主義を学び、どうやらそう単純な話ではないようだということに気がついた。
ぶどう畑で働きながらラジオで聞いて学んだのだが、新しい学びができるのは嬉しいことだ。
今回はコテンラジオの話を基に、自分なりに考えた資本主義の話を書こうと思う。



まず第一に資本主義とは何か。
敵を倒すには敵を知ることから。(資本主義を敵と呼ぶことからして間違いなのだが、まあそういうノリで)
資本主義ができる条件とはいくつかあるが、歴史的な観点から条件をあげる。
まずは私有財産が保証されていること。
王様が勝手に奪ったり、常に略奪される危機がある状態ではダメ。
そして利潤動機、儲けたいという気持ち、がんばれば自分の儲けになるという状態。
がんばっても利潤が吸い取られるとか自分に戻ってこない状態では頑張る気も失せるのが人情だ。
あとは自由市場経済。これは価格を決定する市場(しじょう)があること。
何を売ってよいか、自由な商業活動をすることにより価格が決まるという市場があること。
これは卸売市場や朝市のような実際に物を売り買いする市場(いちば)でなく、状態を示す言葉である。
産業や商品を自分で決められることで、価格が決まっていく状態だ。
これも権力者によって統制されていた時代、中世ヨーロッパには無かったものだ。
これらも歴史上では無い状態が続いたが、時代の変遷と共に自由が認められるようになった。
人権や技術というものも関係あるし、経済とは社会と密接な関係があるのが歴史を学ぶと分かる。
これらが揃うとどうなるか、生産性を上げるという概念が生まれる。
これも利潤が自分の物になるという状態があればこそ。
公務員の事を悪く言うつもりは無いが、公務員のような職場環境では生産性を上げようという気持ちは産まれづらいのは想像できる。
そして時代が進めば、株式会社という法律の基にリスクを分散して生産性を上げるシステムができる。
そして同時に必要なものも高度な金融技術。
遠くに居る者の間で、お金のやり取りができるというのも金融技術だし、手形とか銀行とか為替とかそういうのはみんな技術だ。
こういった条件が揃ってやっと資本主義というものが生まれた。
逆を返して言えば、これらのどれ一つ足りなくても資本主義は成り立た無い。
僕らは生まれて当たり前にこういった条件が揃っているが、それが無かった時代もあったのだ。
まるで空気のようにそれがある現在と、それが生まれるもしくは勝ち取るという時代では人の考え方も違ってくる。
当たり前の事を当たり前だと思わない、ということの重要さを学ぶのは今の世で一番大切なものかもしれない。

こうやって資本主義の条件は出揃ったところで、じゃあ一体資本主義とはなんぞや、ということになる。
マルクスとかアダムスミスとかケインズとか、経済学だの社会学のお偉いさんがいろいろと言うわけだ。
いろいろな人がいろいろな事を言うので漠然としすぎてわけが分からなくなるが、コテンラジオがうまくまとめてくれたのを記す。

その1、市場経済を前提として成り立つ。
これは条件のところで述べたが、さらに市場経済では全ての物が商品として成り立つ。
土地や水、山や森そして空気までもが商品となるし、人間の労働や時間というものも商品となる。
言い換えれば自分が持っている時間を売っているとも言える。
僕のガイドとしての労働は価値があるものなので高い値段が付くが、ラベンダー畑の草むしりは誰でもできる仕事なので最低賃金だ、というのも市場経済上では当たり前の話なのである。
また私有財産が前提なので全ての物が人や会社などの所有物でなければならない。
僕個人の考えはアメリカンインディアンと同じで、土地という物は地球の物すなわちみんなの物であり、それに値段がつくこと自体がおかしい。
この考えでは資本主義が成り立たない。
実際にアメリカの開拓時代にインディアンは土地の所有の概念を持っていなかったので、白人が何か珍しい物をくれるらしいということでお金なり宝石なりを受け取った。
その結果インディアンは住んでいた土地から追い出された、という歴史がある。
これに近い話はニュージーランド先住民のマオリ族にもあり、ワイタンギ条約が結ばれた時にマオリは条約という概念を持っていなかったということで、条約が結ばれたワイタンギデーには今でもマオリの抗議活動がある。
誤解を招くと困るので書いておくが、白人が悪いと言っているのではなく、概念が違う人種の間ではそういうことが起こりうるという事を言っているのだ。

その2、市場経済上では市場にとって良しとされる行動でしか報酬を得ることができない。
たとえ社会とか環境に良くても、市場が良いと考えなければそれは評価されない。
株式市場で自分が良いなと思う会社に投資しても儲かるとは限らない。
市場から評価されていて、ここは儲かると市場が思っている株式に投資をすることが儲かる。
自由市場経済下では、自分にとって良いと思う行動より市場からの評価を優先してしまう傾向にある。
市場にとって良いという考えとは、多数の意見を反映することだろう。
多数の意見とは、民主主義に繋がる。
後にも述べるが、資本主義と民主主義は常に結ばれていて、分離できないものだ。

その3、持続的成長が資本主義には必要であり、それは生産人口に比例している。
労働できる人間の人口が増えれば経済は成長するし、減れば経済は縮小する。
資本主義では持続的成長をしなければならないと皆が思っているので、そのためには人口が増え続けなければならない。
人口が増えれば当然ながら環境問題にもつながる。
産めよ増やせよ、というスローガンが昔あったが、人口というのは直接的に国力に比例する。
多産が良しと社会が認めたわけだが、これも時代や社会によって変わる。
逆に一人っ子政策なんてものをやった国もあったわけだが、どちらにせよ問題はある。
そもそも子供の数は家庭で決めるべきことであって、他者が関与することではない。
家庭ごとの経済事情や社会との繋がりその他もろもろがあるので、本人が決めるべきだというのが僕の考えだ。
その考えさえも基本的人権が確立された現在に生きているからであり、そうではない時代が長く続いてきたのだ。
今は人口は減少しつつあり、これからも増えるということはないだろう。
そうなると右肩上がりが基盤となっている現在の経済は困ってしまう。
さてどうなるものかねぇ。

その4、期待値を定量化することができる。
企業の時価総額は今ある価値なのだが期待値が載っている、それが定量化され株価として反映される。
しかしその期待値というのは、どれぐらいその会社が儲けるかという事しか定量化されない。
その会社がどれぐらい社会に貢献するかとか、どれぐらい支持されているかというのは定量化されない。
超簡単に言えば、儲かるか儲からないか、なのだ。
これはその2の、市場にとって良いとされる行動が重視される、ということと重なる。
つまり儲かるものにしか価値を見出せず、そこにしか投資されない仕組みになっている。
期待値が定量化されるという事は悪いことではなく、近い未来が予測されるという事だ。
ローンを組んで欲しい物を買うのも、クレジットカードで買い物ができるのも、事業拡大の為に金を借りるのも、これがあればこそだ。
その不安定な予測を人間が全てコントロールできると思ってしまっている事が問題だ。
これは時間の概念にも繋がる話だが、西洋の時間の概念は過去から現在そして未来へと一方通行だ。
だがインドでは時間の概念は循環なのだと言う。
最近流行の『持続可能』という言葉も一方通行の時間の中での事で、循環の中では意味を持たない。
時間のことでついでに書けば、時間と空間が分離されているというのも昔は違った。
戦争では色々な部隊が同時に同じ位置に集まる必要があるので、同じ時間を共有しなければならない。
腕時計が発明されたのも第一次世界大戦のあたりだと聞く。
そうやって時間というものが空間から外され、一人歩きしている。
若い時にいろいろな国を旅して、場所ごとに流れている時間の違いを感じたものだった。
今でもその感覚は漠然と持ち続けているが、この感覚は時計の前では見事にかき消されてしまう。
この矛盾が問題点なのかどうかは分からないが、今はそういう時代だということだ。

その5、資本が資本を産む性質がある。
お金を持っているとそのお金を増やす事ができる。
資産運用と言えば分かりやすいし利子というものも同じだ。
その結果、金持ちはどんどん金持ちになっていく。
マイナスの因子で言えば、借金が膨れ上がっていく話はどこにでもある。
貧富の差というのも産まれやすい。

その6、資本主義とは単なるシステムではなく、我々のOSとして機能している。
文化、イデオロギー、習慣、制度、そういった諸々と関係があり、民主主義とも未分化である。
しかもこのOSは固定化されたものではなく動的なものであるため、常に姿を変え続けている。
生まれてからずーっと姿を変え続けているのだが、同じ資本主義として駆動している。
つまり資本主義の特徴が変わっている所もあれば変わっていない所もある。
ここが僕が一番感銘を受けたところで、漠然と感じていた事をうまく言語化してくれた。
資本主義とは単なる世の中の仕組みだと思っていたがそうではなく、全てを組み込んだOSだという考え。
こういう発見、考え方の変換、もしくは思考のアップデート、なんでもいいがこの考えは多いに共感できた。

こういった事を全てひっくるめて資本主義と呼ぶ。
ところどころで難しい言葉が出てくるのはコテンラジオ特有の言い回しだからである。
コテンラジオではこの後で歴代の経済学者や社会学者の資本論を紹介して、ポスト資本主義への話へ移っていく。
とまあこんな具合に資本主義という物がなんとなく分かってきた。
話を冒頭に戻して僕が資本主義に持っていた悪いイメージはそのほんの一部の物だったと理解できた。
第一資本主義があるから、今の便利な世の中があるわけである。
文明の進化に必要だったと言えるわけだ。
でも各事項ごとに問題を抱えているのも事実だ。
そして第6項であげた通り、資本主義はOSだというような考えは資本主義に限らず他の社会にも当てはめて考えることができる。
例えば学校教育の問題を考えてみようとしよう。
それは教育の現場での出来事はもちろんだが、それを取り巻く地域社会、各家庭での親のあり方、経済も関わるし、政治も無関係ではない。
医療の問題では医学はもちろんだが、やはり政治そして経済、働く人の労働環境ひいては個人の思考から私生活まで、何から何まで繋がっている。
現代社会では全ての社会現象が互いに関わっていて、一点だけを見ても問題は解決しない。
それだけ社会が複雑化しているということだ。
今回資本主義を学んでいろいろと考えた。
経済を専門的に勉強している人から「たかだか数時間ラジオを聞いたぐらいで分かった気になるなよ」と言われるかもしれない。
そう、気をつけなければならないのは、分かった気にならないことだろう。
これはどこかの哲学者が言っていた「知れば知るほどに、自分が何も分からないことが分かった」
それを踏まえて学んで考えるのは大切なのだろう。
物事を細分化して専門家がその事を研究するのはもちろん大切だが、経済も社会学も哲学も歴史もというように広い範囲で考えること、すなわち人文学が今の世の中で大切なのではないかと思う。
専門家が専門分野で研究した知識は人類皆で共有し、総合的に考え判断し行動することが明るい未来につながっていくと信じる。
ちなみに僕は庭で採れた野菜も卵も人にあげてしまい、お金は一切受け取らない。
「売ればいいのに」とよく言われるが、大地からの物は売らないのが信条である。
資本主義的観念から言えば、バグそのものなのだろう。



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ぶどう畑で働いているけど葡萄という漢字は書けません。

2022-02-05 | 日記
訳の分からないタイトルで始まったがぶどう畑の仕事の話である。
前回は啓蒙思想のような話を偉そうに書いたが、今回は今の僕を取り巻く環境の話を書く。
今の仕事は基本的にというか完全に外で行うアウトドアだ。
人間が持つ印象というのは面白いものでアウトドアなどという言葉を使うとオシャレなイメージを思い浮かべるが、なんてことはない『野外活動』、もっと野暮ったく言えば『野良仕事』だ。
若い頃からいろいろな仕事をしてきたが、外での仕事が多かった。
土方、足場組立、モノレール工、畑仕事、スキー場での仕事、ハイキングの仕事も外だ。
仕事によっては雨の中で働くものもあったが、今の仕事は雨はお休みなので気は楽だ。
雨の中の作業は効率は下がるわ滑るわ疲れるわであまり良いことはない。
それでも僕は基本的に外での仕事が好きなのだと思う。
暑い寒いはあるけれど、地球の上で生きている、という感覚を感じられるのだ。



さて夏の盛りを過ぎて葡萄はたわわに実り、気の早いものはぼちぼちと色づき始めた。
仕事は単純作業が多く、作業自体が楽しいというわけではない。
そして作業は主に病気にならない対策である。
逆を返して言えば葡萄はそれぐらい弱い植物ということだ。
放っておけば間違いなく病気になる。
病気になれば収穫をしても旨いワインができない。
不味いワインは売れない。
売れなければやっている意味がない。
農業というものは、農作物に値段がついた瞬間に商業となる。
これは農業に限った話でなく、漁業だろうが林業だろうが製造業だろうが全て同じだ。
現代資本主義経済で回っている社会はそういう構造になっている。
この是非を問う気はさらさらない。
今の自分の立ち位置は、この業界のヒエラルキー構造では最下層であり、そこから眺めるワイン業界というのも興味深い。



葡萄の実が日増しに大きくなり、実の周りの葉っぱを延々とむしる作業をする。
単純作業なので何かしら聴きながらする。
歴史の話が多いが、最近は資本主義の話も聞いたし、哲学的な話も聞く。
そういった話を統合し人文学というようだが、この歳でも学ぶ喜びがあるのが嬉しい。
作業をひと段落して、青空を仰ぎ丘の上から景色を一望する。
周りでは羊がノンビリと草を食み、平和そのものの世界だ。
なだらかな丘が延々と続き、その中を貨物列車がゆっくり通過していく様は、まるでジオラマの世界に飛び込んだようだ。
国立公園のような自然そのもののエネルギーの高さは無いが、牧歌的な風景は心を和ませる。
今回はっきりと気づいたのだが、僕は地形を見るのが好きなようだ。
手前の川はあの山の向こうから流れてきて、ここでべつの小さな谷間と合流して、あっちの丘の端を周り太平洋に流れていくんだなあ。
この平野部は、あの川が長い時間をかけて砂を運んでできたんだろうなあ。
高台に立ち景色を眺め、そんな事を考えるのが好きなのだ。



自分の娘は二十歳になるが、今は大学の夏休みで帰省しており、週に何日かは一緒に働いた。
年頃の娘が、親父を毛嫌いもせず一緒に仕事にいく時間は嬉しくもあった。
「暑い〜』とか「花粉症がひどい〜」などと多少の文句は言うものの、与えられた仕事を手を抜かずきっちりやる様を見て、親として安心である。
暑い日は帰りにアイスを食べながら帰ったり、帰り道の途中でブルーベリー摘みをしたり。
親元を離れ自炊しながら大学生活を送る娘とは、ここ数年は距離を感じていたが、コロナ騒動の後で近しいものとなった。
そして一緒に仕事をすると今まで見えなかった娘の一面も見えたりもした。
もしもこれがずーっと一緒に働くなどとなると、それはそれで軋轢も生まれるだろうが、馴染みの無い環境下で期間限定での関係は良好なものだった。
娘の仕事の最終日は四輪バギーに乗って敷地内をドライブ。
街で生活をしていたら四輪バギーなど乗る機会は無い。
小さな体験だが、普段と違う事をするのは変化という意味で大切だ。
ぶどう畑で働く事自体、娘にとって非日常であり、若い時の体験は全てが財産である。
来年は日本に行って、日本のスキー場で働いてみたいと言っている。
こんなご時世なので、日本に行けるかどうかも分からない。
古今東西、何か大きな事が起こった時に、割りを食うのは女子供だ。
本当に今の子供達は可哀想だと思う。
なんとかならんものかねぇ。



毎日、葡萄を眺めていると明らかに変化がある。
葉っぱは下の方から茶色っぽくなり、実は少しづつ色づき始めた。
色の濃い実を食べるとほんのり甘い味がする。
ワイナリーの周りには様々な果物の樹も植えてある。
イチジク、カリン、りんご、プラム、黒スグリなどなど。
プラムはすでに食べ頃でちょっと触るとボロボロと落ちる。
りんごも日の当たる所から赤く色づき、鳥が喜んでついばんでいる。
季節は間違いなく移り変わり、収穫の秋へ近づいている。
人間社会の事なぞ知らん、と言わんばかりに植物たちは生きる。




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思考のアップデート

2022-01-23 | 日記
日本からは大雪の知らせが届く。
思えばスキーパトロールをやっていた頃から20年も経った。
雪にまみれて仕事をした日々が懐かしい。
こちらは真夏のニュージーランド。
羊がメーと鳴く中で、畑仕事をする毎日である。
葡萄畑の事はおいおい書くとして、久しぶりのブログで書きたいのは別の事だ。
畑仕事をしながら、歴史だのリベラルアーツだの哲学だのを聴き考えた。
思考のアップデートという話。
コロナ騒動が始まって2年近くになる。
地球上の全ての人が影響を受けたという点で、近世では世界大戦級の出来事である。
行動の制限、情報の操作、失職、監視社会、物事の強制などなど。
こう書くと悪い事ばかりのようだが、そんな中でも良い点もいくつかはある。
だが圧倒的に悪い話が多く、世の中は先の見えない閉塞感が漂っている。
コロナの話題もみんなそろそろ飽き飽きしているのではないだろうか。
少なくとも僕はそうだ。
どこで感染者が何人出たとか、そんな話はもう聴きたくない。
そもそも論だが、PCR検査は感染者をあぶり出すための物ではないと発明者の故キャリーマリス博士が言っていた。
そしてサイクル値を変えれば、陰性を陽性に、又は陽性を陰性に変えられるというような話がある。
実際に変えるかどうかはまた別の話だが、そういう現状の上で今の社会がある。

先ずやらねばならない事は、事実確認。
とてつもなく大きな社会変革の真っ只中にいる、という認識を持つことだろう。
この認識を持てるかどうかが、大きな鍵になる。
だが認識を持つというのは難しいもので、「認識を持て!」と言って持てるものではない。
認識を持つには情報というものが必要だ。
幕末に列強の圧倒的な軍事力を実際に見た志士は、弓や槍や刀では太刀打ちできないと考えた。
これがファクト認識だが、見ていない人は「そんなことはない、今の自分たちでも戦える」と考えた。
『実際に見た』という情報と、『人から聞いた』情報では天と地ぐらいの差がある。
さらに人から聞いた情報は、話す人の思考が組み込まれるので偏った情報になる可能性がある。
そしてこれはいまの世の中でも全く同じだが、人間は自分が信じたい情報を選択する。
これだけインターネットが普及すれば、情報はいくらでもある。
その中には正しい情報もあれば、うまく隠された情報もある。
ウソやインチキだってある。
マスコミが流す情報を僕は全く信用していないが、全てがウソではないことも知っている。
当たり前の話であるが、真実と真っ赤なウソと少しだけ変えた情報が混ざっているし、意図的に混ぜて誘導することもある。
マスコミのスポンサーは大企業だと思っていたが、最大のスポンサーは時の権力者である。
スポンサーに都合の悪い情報は圧力で潰すのは当たり前だ。
それを良いとか悪いとか論ずる気は無い。
ここで善悪の判断をつけると、悪いのはマスコミで、だから今の世がこうなっている、となり思考が停止する。
そういうことではない、マスコミとはそういう性質を持ったものであり、世の中にそういう情報が満ちあふれているという現実があることを知るのだ。
そして話が戻るが人間はいつの世も、『自分が信じたい情報を選択する』のである。

この騒ぎが終われば元の世界に戻れると、多くの人が思っているだろう。
だがそうはならない。
こういう事を言うと、不安を煽るな、というような声が聞こえる。
だが人間とは潜在的に変化に対して不安を持つ生き物なのだ。
これだけ大きな出来事の後で、これ以前と全く同じような社会形態であることが無理だ。
「そんな事はない。これは単に一過性の出来事であり、騒ぎが収まれば元のようになる」
そう思いたい人はそうすればいい。
こんなブログなど読んでいるのは時間の無駄だなので、止めて別の事をすればいい。
そうでない人はもうちょっと付き合って欲しい。
明治維新の時はどうだった?
まずそれまで威張っていた武士達の仕事が無くなった。
帯刀を止め、チョンマゲからざんぎりと呼ばれる西洋風の髪型になり、洋服を着るようになった。
食べ物だって、それまであまり好まれなかった獣肉を好んで食べるようになった。
「ざんぎり頭をたたいてみれば 文明開化の音がする」
これはその時に流行った都々逸(どどいつ)である。
生活様式は一転し、西洋の物がもてはやされる時代となった。
江戸時代末期の人が数年で生活が社会がこんなにも変わると想像したであろうか。
太平洋戦争を戦っていた人が、敗戦そしてその後の高度経済成長を予測しただろうか。
今の僕らだから時代の変遷を俯瞰して見れるが、その中にいたらそれは到底不可能なことだ。
そして今僕らはまさにその中にいる。
そして今の僕らに必要なことが思考のアップデートなのである。

思考のアップデートとは何か。
僕もはっきり分かっているわけでないし、実践している最中なので自分なりに考えてみた。
先ずは教養を身につける。
僕の場合はコテンラジオというものから歴史に興味を持つようになった。
さらにそこから哲学、宗教学、文化社会学、経済学、人文学などを学ぶようになった。
教養を身につけるやり方は色々あって、本を読む、人の講義を聴く、映像を見るなどがあるが僕の場合は音声コンテンツを利用した。
これは各個人が自分の生活スタイルに合わせてやれば良い。
今の時代ではユーチューブもあるし、ポッドキャストもある。
インターネットのおかげで地球の裏側でも役立つ情報が簡単に手に入るようになった。
これにより、この歳になって学ぶ喜びを知った。
知的財産の共有とでも言うのだろうか、漠然と感じていたことが言語化され、より明確な形で理解するができる。
これは自分の視野を広げるという意味で大いに役立った。
本でも音声でも映像でも、それを発行した人間のバイアスがかかることを忘れてはいけない。
どんな情報であれ、盲信してはいけないというのは、メディアとかSNSの情報でも同じことだ。
話題が前後してしまったが、好奇心を持つというのが前提にある。
好奇心が無かったら、やる気も起きないし何も学べない。
好奇心を持つというのも、人に強制させられるものではない。
先ずは何でも興味があるものから始めるのがよいだろう。
様々な知識を身に付けて考える。
この考えるという作業が大切なのだと思う。
考えても答えは出ないという事は無数にある。
そして今の社会では答えが出ないもの=結果がでないので無意味というような風潮がある。
そういう結果だけを追い求めた社会からの脱却とでも言うのか。
プロセス自体に意味があり、たとえそこに辿り着けなくてもそこに向かう姿勢が大切というような。
これはヨガの考えに似ている。
ちなみにインドの時間軸とは循環なんだそうで、西洋の時間軸とは過去から未来への一方通行だ。
そして空間と時間が切り離されてしまっている事も、今の社会が歪んでいる原因の一つだ。
話が逸れたが、過程が大切であり結果は後から付いてくるものだ。
そこで文句を言う奴は「そんな事を言って何も出来なかったらどうするんですか?」などと言ってくるかもしれない。
そしてそういう奴は何もやらない。
口先だけで行動を起こさず自己肯定をし続ける人は周りにいくらでもいるだろう。
この前久しぶりにそういう奴に会ったが、自分の自慢話と他人の噂話ばかりで会話は恐ろしくつまらなくうんざりした。
実際に行動を起こすというのがこれまた重要だ。
行動を起こさなかったら過程も結果もない。
陽明学では知ると行動するは一体であり、すなわち行動をしないとことは知っていないことであると。
だから吉田松陰は罰を受けるのを承知で黒船に乗り込んでいった。
これは過激な例えだが、行動は大切であると。
僕は人が何を言っているかでその人となりを見ない。
何をやっているかでその人を見る。
ひとたび行動を起こせば、何かしらの結果は出る。
どんな結果であろうと、それが経験であり財産なのである。

新しい時代には新しい考えが必要である。
古い価値観から脱却する必要がある。
しかし新しい物が全て良くて古い物が全て悪いという考えも危険だ。
古い物事の中に真実があり、新しい物に飛びついて大切な物を壊してしまった例はいくらでもある。
ただ言えることは今までがそうだから、という理由で行動しないことだろうな。
今までがそうだから、これからもそうであるという保証は全くない。
歴史を見るような視点で現在を見て、自分なりの行動をする。
これだけではないが、思考のアップデートの一つの要素なのだと思うのだ。





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