国家の品格 2007年3月22日
日本から本が届いた。
『国家の品格』という本である。
読んでみて驚いた。
今まで自分が疑問に思っていた事の答が全てそこに書いてあった。
文明というものへの不信感。アメリカという国家の行動。金というもの、及び金で買えるもの全てについて。
同時に今まで自分が歩んできた道、信じていたものが間違っていない事もそこに書いてあった。自然への敬愛。自分自身の存在価値。人間が生きるということ。精神性を高めるということ。
小学校の低学年の頃だったと思う。
同じクラスに生意気な女の子がいた。腕白坊主の僕にいつもうるさく言う女だ。口喧嘩ではとうてい男は女にかなわない。
ある日僕はその女の子をひっぱたいた。腕力なら男の方が強い。
案の定その子は泣き出して、僕は憎らしい女をやっつけた満足感半分、あんなに憎らしかった女がメソメソ泣いておとなしくなってしまった驚き半分で家に帰った。
家では親父が待っていた。
「おい、今○○という女の子から電話があって、オマエにいじめられたというが本当か?」
あのやろう、告げ口しやがって、と思ったが僕は素直に言った。
「うん、生意気だったから、やっつけたんだ」
親父は僕と向かい合わせに座ると言った。
「女に手を出すなんて卑怯者のやることだ。そんなことは絶対にダメだ」
「だって○○は生意気なんだよ。僕ばっかにケンカをふっかけてくるし」
「生意気だろうが、むこうからケンカを売ってこようがダメなものはダメだ」
「じゃあ、どうすればいいのさ」
「オマエが我慢しろ。どんな理由があろうと、男が女に暴力をふることはダメなことだ。男は女より力が強い。力の強い者が弱い者を叩くのは卑怯な事だ。だからダメだ。分かったらその子の家に行って謝って来い」
僕はしぶしぶその子の家に行き、謝った。さっきまでのケンカ相手にイヤミの一つでも言われるかと思ったが、その子は黙って僕を見ていた。
『チクショー、たかが1回2回ひっぱたいただけでこんなに面倒臭いことになるなら、これから絶対、女なんて叩くものか。男は損だな』
子供心にそう思いながらトボトボと家路に着いた。
それ以来、僕は女に手をあげた事は無い。
妻とどんなに喧嘩をしようと、座布団を蹴っ飛ばすぐらいはするが手を上げたことは無い。
親父が母に手を上げるのを見たこともない。それはそうだろう、もしそんなことをしたら自分が言った「絶対にダメ」という理屈を否定することになるのだから。
親が自分の考えを押し付けるには、親が見本とならなくてはならない。そうでないと言葉の意味がなくなってしまうからだ。
女に手を上げたことが無い、と書いたが一度だけあることを思い出した。相手は娘である。
娘が2歳になる前だ。食事中、食べ物を遊んで投げた事がある。
幼児のやることである。何が良くて何が悪いのか、まだ分かっていない時だ。
僕は激怒して来客の前で娘の手を思いっきりひっぱたいた。娘の手は腫れ上がり、娘はワンワン泣いた。
食べ物を粗末にする奴を僕はゆるさない。そういう人を僕は人間として信用しない。なぜなら僕がそうやって育ってきたからだ。
人は誰でも完璧ではない。冷蔵庫の奥に入れたのをうっかり腐らせてしまうことだってある。
母はそんな時に悲しそうに、申し訳無さそうにゴミをすてていた。
戦争中、食べる物が満足にない時を生きてきた人の哀しみだったのだろう。
これもまた小学校の頃の話である。
朝ご飯の時に僕はうっかりマヨネーズを出しすぎてしまった。結局使い切れずに皿に残した。
晩飯の時でも朝のマヨネーズはそのまま残って僕の目の前にあった。親父はそれを食べるまで頑として僕に夕飯を食べさせなかった。1日置いたマヨネーズはまずそうだったが、僕は泣きながら食べた。
魚を残せば、「命懸けで漁に出ている人に申し訳ないだろう」と言われ、米粒を残せば「目がつぶれる」と言われて育った。
だから僕は食べるということに真剣である。
素材の旨さを引き出す調理法が好きだ。
食べ物を粗末にしない
弱いものいじめをしない
人を殺さない
これらの言葉に『何故?』はない。
ダメなものはダメ。誰がどう言おうとダメ。絶対にダメ。問答無用にダメ。ダメといったらダメなのだ。
国家の品格にはそういった道徳心のことについても書いてある。
僕の好きな言葉、ボブデュランの言葉である。『君の立場で言えば君は正しい、僕の立場で言えば僕は正しい』
これは前にあげた道徳心というものが根底にあってなりたつものだ。
殺人が当たり前の狂人にそんなことを言ったら、そいつに殺されてしまう。
親が子供に道徳心を教えるには、親に道徳心があり確固たる信念がなくてはならない。
久しぶりに良い本にめぐり会えて、いろいろ考えてみた。
この本の考えがこれからのこの世を救う事になるだろう。
この本を読むことを強く勧める。
日本から本が届いた。
『国家の品格』という本である。
読んでみて驚いた。
今まで自分が疑問に思っていた事の答が全てそこに書いてあった。
文明というものへの不信感。アメリカという国家の行動。金というもの、及び金で買えるもの全てについて。
同時に今まで自分が歩んできた道、信じていたものが間違っていない事もそこに書いてあった。自然への敬愛。自分自身の存在価値。人間が生きるということ。精神性を高めるということ。
小学校の低学年の頃だったと思う。
同じクラスに生意気な女の子がいた。腕白坊主の僕にいつもうるさく言う女だ。口喧嘩ではとうてい男は女にかなわない。
ある日僕はその女の子をひっぱたいた。腕力なら男の方が強い。
案の定その子は泣き出して、僕は憎らしい女をやっつけた満足感半分、あんなに憎らしかった女がメソメソ泣いておとなしくなってしまった驚き半分で家に帰った。
家では親父が待っていた。
「おい、今○○という女の子から電話があって、オマエにいじめられたというが本当か?」
あのやろう、告げ口しやがって、と思ったが僕は素直に言った。
「うん、生意気だったから、やっつけたんだ」
親父は僕と向かい合わせに座ると言った。
「女に手を出すなんて卑怯者のやることだ。そんなことは絶対にダメだ」
「だって○○は生意気なんだよ。僕ばっかにケンカをふっかけてくるし」
「生意気だろうが、むこうからケンカを売ってこようがダメなものはダメだ」
「じゃあ、どうすればいいのさ」
「オマエが我慢しろ。どんな理由があろうと、男が女に暴力をふることはダメなことだ。男は女より力が強い。力の強い者が弱い者を叩くのは卑怯な事だ。だからダメだ。分かったらその子の家に行って謝って来い」
僕はしぶしぶその子の家に行き、謝った。さっきまでのケンカ相手にイヤミの一つでも言われるかと思ったが、その子は黙って僕を見ていた。
『チクショー、たかが1回2回ひっぱたいただけでこんなに面倒臭いことになるなら、これから絶対、女なんて叩くものか。男は損だな』
子供心にそう思いながらトボトボと家路に着いた。
それ以来、僕は女に手をあげた事は無い。
妻とどんなに喧嘩をしようと、座布団を蹴っ飛ばすぐらいはするが手を上げたことは無い。
親父が母に手を上げるのを見たこともない。それはそうだろう、もしそんなことをしたら自分が言った「絶対にダメ」という理屈を否定することになるのだから。
親が自分の考えを押し付けるには、親が見本とならなくてはならない。そうでないと言葉の意味がなくなってしまうからだ。
女に手を上げたことが無い、と書いたが一度だけあることを思い出した。相手は娘である。
娘が2歳になる前だ。食事中、食べ物を遊んで投げた事がある。
幼児のやることである。何が良くて何が悪いのか、まだ分かっていない時だ。
僕は激怒して来客の前で娘の手を思いっきりひっぱたいた。娘の手は腫れ上がり、娘はワンワン泣いた。
食べ物を粗末にする奴を僕はゆるさない。そういう人を僕は人間として信用しない。なぜなら僕がそうやって育ってきたからだ。
人は誰でも完璧ではない。冷蔵庫の奥に入れたのをうっかり腐らせてしまうことだってある。
母はそんな時に悲しそうに、申し訳無さそうにゴミをすてていた。
戦争中、食べる物が満足にない時を生きてきた人の哀しみだったのだろう。
これもまた小学校の頃の話である。
朝ご飯の時に僕はうっかりマヨネーズを出しすぎてしまった。結局使い切れずに皿に残した。
晩飯の時でも朝のマヨネーズはそのまま残って僕の目の前にあった。親父はそれを食べるまで頑として僕に夕飯を食べさせなかった。1日置いたマヨネーズはまずそうだったが、僕は泣きながら食べた。
魚を残せば、「命懸けで漁に出ている人に申し訳ないだろう」と言われ、米粒を残せば「目がつぶれる」と言われて育った。
だから僕は食べるということに真剣である。
素材の旨さを引き出す調理法が好きだ。
食べ物を粗末にしない
弱いものいじめをしない
人を殺さない
これらの言葉に『何故?』はない。
ダメなものはダメ。誰がどう言おうとダメ。絶対にダメ。問答無用にダメ。ダメといったらダメなのだ。
国家の品格にはそういった道徳心のことについても書いてある。
僕の好きな言葉、ボブデュランの言葉である。『君の立場で言えば君は正しい、僕の立場で言えば僕は正しい』
これは前にあげた道徳心というものが根底にあってなりたつものだ。
殺人が当たり前の狂人にそんなことを言ったら、そいつに殺されてしまう。
親が子供に道徳心を教えるには、親に道徳心があり確固たる信念がなくてはならない。
久しぶりに良い本にめぐり会えて、いろいろ考えてみた。
この本の考えがこれからのこの世を救う事になるだろう。
この本を読むことを強く勧める。