あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

死ぬということ

2011-02-01 | 日記
人間は誰でも死ぬ。
これは生まれてきたからには避けられないものだ。
だが人は死を恐れる。
何故か。
それは死とは終りであり、会えなくなるもので、未知の物だからである。
未知の物を恐れるというのは、潜在的なもので仕方がないことだろう。
だが人は必要以上に死を恐れる。
恐れるあまり、そこから目を背ける。
若いときには遠い存在である死も、老いるにしたがい近いものとなる。
死への恐怖はどんどんふくらみ、生への執着となる。
生への執着はいろいろな問題を産む。
延命医療がいい例だ。
もう充分生きたでしょう、という人でもその家族が死の恐怖に脅えているので必要のない延命医療をする。
医者も死を敗北と考える人もいる。
ボクの考えでは無駄な延命医療をやめ、それに費やすエネルギーを子供の病気などに向けるべきだ。

ある人に聞かれたことがある。
「ニュージーランドの平均寿命は何歳ですか?」
ぼくは答えられなかった。
平均寿命が何歳か知らなかったし、興味もない。そもそも寿命とはその人がこの世でやるべきことをやり終えた時に迎えるもので、それの平均を出したところでしょうがないだろうと思っている。
だがそれをその人に言ったところ、彼は怒ってこう言った。
「平均を出して数字に表すことに意味があるじゃないか!」
はあ、そうですか。と答える他はない。
君の立場で言えば君は正しく、ボクの立場で言えばボクは正しい。
こういう人との議論はいつまでたっても平行線で交わることはない。
平均寿命が高くなるのはいいことなのか?
極論を書けば、科学が進み機械に繋がれた寝たきり老人が増えれば平均寿命はあがるだろう。
もっと言えば銀河鉄道999に乗って皆が機械の体を手に入れれば平均寿命はとんでもなく上がる。
昔の権力者が望んだ不老不死はそういうものだと思う。生への執着だ。
死という崇高なものの平均ねえ・・・。
若くして死ぬには何かしら意味がある。長生きするのにも意味はある。
世界のある地域では子供たちが食べる物もなく次々に死んでいく。
この子供達が死ぬ意味とは?
それは飽食に溺れた世界へのメッセージであろう。
だが人々はそのメッセージに耳を傾けず、今日も世界のある場所では何万人分もの食料が捨てられている。
こういった貧しい国の平均寿命は低い。
一方、先進国の平均寿命は高いのだろう、たぶん。
平均寿命が高くなるのは良いことなのか?
話は戻るが、寿命というのは各個人で違うはずだろう。時代や地域社会によっても違う。
少数民族の長老と呼ばれた人は長く生きることによって人生の叡智を身につけた。なので周りの人は尊敬しその人の言葉に耳を傾けた。
長く生きるというのはそういうことではないかと思う。
坂本竜馬は幕末あれだけのことをやり、30代頭でこの世を去った。短命でかわいそうか?
今の世の中だって、やることをやり若くして死ぬ者もあるし、叡智を身につけた長老もいる。同時に金と欲に溺れ生に執着した老人も多くいる。

そんな人達もいずれは死ぬ。ボクも死ぬ。これを読んでいるあなたも死ぬ。
死の局面に立った時に「ああ、いろいろあったけど、楽しかったなあ」と言いながらボクは死にたい。
その直前まで何も知らずに、崖を転げ落ちた母のような死に方も悪くはない。
ある晩、寝たら次の朝に死んでいた。なんてのもいいな。
ボクは自分がどうやって死ぬのか考えるとワクワクする。
けれど自殺をする気はないし、人にも勧めない。
この世に生まれたからにはそれなりの理由があるからだ。
人は死を恐れるので、こういう話を嫌う。
ポックリ逝く話などをすると「そんなこと、周りは大変じゃないの」などと言う。
確かに周りは大変さ。ぼくだってあの時は大変だった。
だが死ぬ本人にしてみれば、苦しみながら死ぬよりポックリ逝く方が幸せだろう。
なので父親にも「死ぬときはポックリ逝ってくれよ」と頼んである。
死を恐れて目を背けるのではない。
いずれやってくる死を正面から受けいれる。
だからこそ生きる喜びがある。生まれる喜びがある。
自分が生きている今だからこそできることがある。
今、この瞬間の中にその答えがある。
一期一会とはそういうことではあるまいか。
コメント (6)
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