思い込み
2012-05-08 | 日記
♪思い込んだら試練の道を行くが男のど根性。
とは巨人の星の歌いだしであるが、いかにも昭和という唄である。
今回はこの思い込みの話。
人間とは恐ろしいもので、思い込みを信じてしまうところがある。
一度それを信じると、周りが何を言おうと聞かない。
そりゃ誰だって自分が信じているものを覆されたくはない。
ボクもそういう経験はある。今回はその恥をさらそう。
去年まで8年クィーンズタウンでハイキングガイドというものをやっていた。
ルートバーンというコースを歩いていたのだが、そこでエミリーピークという山が見える。
ある時、友達のカナちゃんと一緒にそこを歩いた時に彼女が言った。
「ねえ、あれってエミリーピーク?」
「そうだよ」
「地図で見ると違うんじゃない?」
「そんなことはない。あれだ」
「いや、違うと思うな」
結果から言ってしまうと彼女が正しくボクが間違っていたのだが、その時のボクは自分の間違いを認めたくなかった。
8年もの間、自分がそれだと信じていて、お客さんにもエラソーに言っていたことを覆されたくない気持ち。
自分よりも山の経験が浅い人に指摘されたくない気持ち。
そういったものが入り交ざっていて、ボクは素直になれず何遍も地図を見直した。
だが地図を見れば見るほど彼女の言っていることが正しいのが分かる。
ボクが今までエミリーピークと思い込んでいたものは、山のピークではなくその山の肩だった。
ボクがその間違いに気づきトボトボと彼女に追いつくと、ご丁寧に彼女は山小屋の管理人にそれを確めていて、勝ち誇った顔で言った。
「ほら、言ったじゃないの」
正直、悔しかった。
自分がこの仕事を始めた時に先輩ガイドが言った言葉を信じ込み、自分では確認もせずにそれが事実だと思い込んでいた。
「だって、あの人がそう言ったから」とは言いたくない。
それはその言葉を信じた自分の責任だからだ。
ボクはショックに打ちのめされトボトボと、カナちゃんは日頃からなんとかボクをギャフンと言わせたいという思いがかなえられ満足げに山を下った。
情報、そして思い込みとはそういうものだと思う。
それを信じていた時間が長ければ長いほど、人は意固地になりそれを認めたがらない。
大人は長い間信じていたことが、子供には何故そうなのか分からない。
純粋で偏った情報に染まっていない子供が、真実をズバリと言い当てることはよくある。
そんな時に大人は『子供だから良く分からないんだよ』と切り捨てる。
大人は自分の間違いを認めたくない。年を重ねるほど、その傾向は強いようだ。
だが大人が間違っていて子供が正しかったらどうなのだろう?
大人だって間違いをする。
その時に素直に間違いを認める気持ちこそが大切なのではないか。
思い込みを解き放つこと。これからの世界ではそれがとても大切な事になっていくだろう。
極論が好きな人はこういうことを書くと「じゃあ自分が思うことは間違っているの?」と言う。
違う。思い込みは大切だ。
大切だが、芯をきっちりとつかんでいるかどうかがカギだ。
芯をつかんでいなければ、新興宗教にいかれこんで全財産を投げ入れ所構わず勧誘する信者となんら変わらない。
芯をつかんでいれば、おのずと何が正しくて何が間違っているか見えてくるし、間違った方向に進んでもすぐに方向転換できる。
情報というものについても考えなくてはならない。
今は色々な情報があふれている。
正しい情報もあるし、もっともらしくウソで塗り固められた情報もある。
洗脳のための情報もあれば、真実を隠す情報もあるし、全く無意味な情報もある。
今まで隠された情報も最近はネットのおかげで表に出てきた。
以前は『原子力は安全で公害もなく未来のエネルギーです』という情報を皆信じた。
なので日本に50以上もの原発ができた。
そして原発安全の神話は崩れた。
作った人だけを責めてはいけない。それを信じた自分にも罪はある。
情報は時代背景でコロコロ変わるものだ。
最近では『放射能は毒です』という情報と『放射能は身体に良いです』という情報がある。
『微量だったら大丈夫』『ダメ、絶対だめ』『人によりけり』その他もろもろ。
どれを選ぶかは自分で決めればよい。
何が正しくて何が間違っているかは分からないかもしれないが、色々な情報を聞いてみて自分で判断する。
自分で決めると言うのも一つのカギだ。
悩んで悩んで悩んだ末に自分で出した答は常に正しい。
最近の情報ではフリーエネルギーたるものも出てきた。
これは燃料のいらない動力機関のことで、これが普及すればエネルギー問題が全て解決、というまさに夢のような話だ。
これは今までの科学では理解できない話で、普及のためにはそれこそ思い込みを捨てなければならない。
エネルギー保存の法則、というものを覆す話だからだ。
面白いこと、と言っては不謹慎なのだが、このフリーエネルギーを発表しようとすると暗殺されるようだ。
そりゃそうだろう。こんなものが普及したら、それで困る人がたくさん出てくる。
原発を作るためには人殺しもする人達にとっては絶対に隠しておきたい情報だ。
だがネットのおかげでこういった情報も出始めた。ちょっと検索すればすぐに出てくる。出てこないものは情報が操作されていると見ていいだろう。
井出治さんのように表立って出てくる人も現れ始めた。暗殺されないで研究を進めてもらいたいものだ。
その他、ここでは書ききれないほどの操作された情報があり、今の自分達では理解不能な情報もある。
それらが出てきたときに、古い思い込みを捨てて新しい情報を取り入れることができるか。
自分が誤った情報を信じていた事に気づき、その情報源を責めることなく新しい世界にシフトできるか。
これからの人類の課題だと思う。
ガリレオが地動説を発表した時、人々はどういう反応をしたか。
ノアが「洪水が来るぞ」と言った時でも、人々は信用せずに最後の瞬間まで略奪をやめなかった。
ノアの話も実際に方舟が発掘されリベットのようなものも発見されている。
全くの作り話ではない、ということが証明された。
こういう話を信じたくない人は「でたらめだ、まやかしだ、インチキだ」と決め付ける。
まあ、いいさ。その人がそう思うならそれはその人の勝手だ。
だがその人の常識はボクの常識ではない。
そして今までの常識はこれからの常識でもない。
ボクは今のボクが信じるものを信じる。
それは神であり、エネルギーである。
自分の直感であり、この瞬間に自分が感じるものである。
美味しい物であり、美しいものであり、楽しいことである。
そして全てをひっくるめたものが愛なのだ。
愛こそが全て。
とは巨人の星の歌いだしであるが、いかにも昭和という唄である。
今回はこの思い込みの話。
人間とは恐ろしいもので、思い込みを信じてしまうところがある。
一度それを信じると、周りが何を言おうと聞かない。
そりゃ誰だって自分が信じているものを覆されたくはない。
ボクもそういう経験はある。今回はその恥をさらそう。
去年まで8年クィーンズタウンでハイキングガイドというものをやっていた。
ルートバーンというコースを歩いていたのだが、そこでエミリーピークという山が見える。
ある時、友達のカナちゃんと一緒にそこを歩いた時に彼女が言った。
「ねえ、あれってエミリーピーク?」
「そうだよ」
「地図で見ると違うんじゃない?」
「そんなことはない。あれだ」
「いや、違うと思うな」
結果から言ってしまうと彼女が正しくボクが間違っていたのだが、その時のボクは自分の間違いを認めたくなかった。
8年もの間、自分がそれだと信じていて、お客さんにもエラソーに言っていたことを覆されたくない気持ち。
自分よりも山の経験が浅い人に指摘されたくない気持ち。
そういったものが入り交ざっていて、ボクは素直になれず何遍も地図を見直した。
だが地図を見れば見るほど彼女の言っていることが正しいのが分かる。
ボクが今までエミリーピークと思い込んでいたものは、山のピークではなくその山の肩だった。
ボクがその間違いに気づきトボトボと彼女に追いつくと、ご丁寧に彼女は山小屋の管理人にそれを確めていて、勝ち誇った顔で言った。
「ほら、言ったじゃないの」
正直、悔しかった。
自分がこの仕事を始めた時に先輩ガイドが言った言葉を信じ込み、自分では確認もせずにそれが事実だと思い込んでいた。
「だって、あの人がそう言ったから」とは言いたくない。
それはその言葉を信じた自分の責任だからだ。
ボクはショックに打ちのめされトボトボと、カナちゃんは日頃からなんとかボクをギャフンと言わせたいという思いがかなえられ満足げに山を下った。
情報、そして思い込みとはそういうものだと思う。
それを信じていた時間が長ければ長いほど、人は意固地になりそれを認めたがらない。
大人は長い間信じていたことが、子供には何故そうなのか分からない。
純粋で偏った情報に染まっていない子供が、真実をズバリと言い当てることはよくある。
そんな時に大人は『子供だから良く分からないんだよ』と切り捨てる。
大人は自分の間違いを認めたくない。年を重ねるほど、その傾向は強いようだ。
だが大人が間違っていて子供が正しかったらどうなのだろう?
大人だって間違いをする。
その時に素直に間違いを認める気持ちこそが大切なのではないか。
思い込みを解き放つこと。これからの世界ではそれがとても大切な事になっていくだろう。
極論が好きな人はこういうことを書くと「じゃあ自分が思うことは間違っているの?」と言う。
違う。思い込みは大切だ。
大切だが、芯をきっちりとつかんでいるかどうかがカギだ。
芯をつかんでいなければ、新興宗教にいかれこんで全財産を投げ入れ所構わず勧誘する信者となんら変わらない。
芯をつかんでいれば、おのずと何が正しくて何が間違っているか見えてくるし、間違った方向に進んでもすぐに方向転換できる。
情報というものについても考えなくてはならない。
今は色々な情報があふれている。
正しい情報もあるし、もっともらしくウソで塗り固められた情報もある。
洗脳のための情報もあれば、真実を隠す情報もあるし、全く無意味な情報もある。
今まで隠された情報も最近はネットのおかげで表に出てきた。
以前は『原子力は安全で公害もなく未来のエネルギーです』という情報を皆信じた。
なので日本に50以上もの原発ができた。
そして原発安全の神話は崩れた。
作った人だけを責めてはいけない。それを信じた自分にも罪はある。
情報は時代背景でコロコロ変わるものだ。
最近では『放射能は毒です』という情報と『放射能は身体に良いです』という情報がある。
『微量だったら大丈夫』『ダメ、絶対だめ』『人によりけり』その他もろもろ。
どれを選ぶかは自分で決めればよい。
何が正しくて何が間違っているかは分からないかもしれないが、色々な情報を聞いてみて自分で判断する。
自分で決めると言うのも一つのカギだ。
悩んで悩んで悩んだ末に自分で出した答は常に正しい。
最近の情報ではフリーエネルギーたるものも出てきた。
これは燃料のいらない動力機関のことで、これが普及すればエネルギー問題が全て解決、というまさに夢のような話だ。
これは今までの科学では理解できない話で、普及のためにはそれこそ思い込みを捨てなければならない。
エネルギー保存の法則、というものを覆す話だからだ。
面白いこと、と言っては不謹慎なのだが、このフリーエネルギーを発表しようとすると暗殺されるようだ。
そりゃそうだろう。こんなものが普及したら、それで困る人がたくさん出てくる。
原発を作るためには人殺しもする人達にとっては絶対に隠しておきたい情報だ。
だがネットのおかげでこういった情報も出始めた。ちょっと検索すればすぐに出てくる。出てこないものは情報が操作されていると見ていいだろう。
井出治さんのように表立って出てくる人も現れ始めた。暗殺されないで研究を進めてもらいたいものだ。
その他、ここでは書ききれないほどの操作された情報があり、今の自分達では理解不能な情報もある。
それらが出てきたときに、古い思い込みを捨てて新しい情報を取り入れることができるか。
自分が誤った情報を信じていた事に気づき、その情報源を責めることなく新しい世界にシフトできるか。
これからの人類の課題だと思う。
ガリレオが地動説を発表した時、人々はどういう反応をしたか。
ノアが「洪水が来るぞ」と言った時でも、人々は信用せずに最後の瞬間まで略奪をやめなかった。
ノアの話も実際に方舟が発掘されリベットのようなものも発見されている。
全くの作り話ではない、ということが証明された。
こういう話を信じたくない人は「でたらめだ、まやかしだ、インチキだ」と決め付ける。
まあ、いいさ。その人がそう思うならそれはその人の勝手だ。
だがその人の常識はボクの常識ではない。
そして今までの常識はこれからの常識でもない。
ボクは今のボクが信じるものを信じる。
それは神であり、エネルギーである。
自分の直感であり、この瞬間に自分が感じるものである。
美味しい物であり、美しいものであり、楽しいことである。
そして全てをひっくるめたものが愛なのだ。
愛こそが全て。