何とも大層なタイトルをつけてしまったが、これからの世界はどうなっていくか。
ちびマルコちゃんの丸尾君のようにズバリ言うと、これからの世界は細分化に向っていくだろう。
ここ十数年、グローバルという言葉が出てきた。
個人的に言うとこの言葉は嫌いである。
この言葉の本質は均一化であり、さらに言うとアメリカの物差しで全てを均すことだ。
これは文化の停滞であり非常に危険なことだ。
文化というのは非常に狭い地域で生まれる。
単一に均されたような場所では生まれない。
グローバルという名のだだっ広い場所では、今ある物を繰り返すだけで新しい物は生まれない。
これからの世界で発展があるとすれば、均一化の正体を見破り細分化に向っていくことがカギなのだ。
例えば言語。
関西弁という言葉がある。これも一つの文化なのだが関西弁の中にも大阪弁、兵庫弁、京都弁、奈良弁、などなど違いがある。
大阪弁にしたって、その中にいろいろな違いがあるのだろう。ボクにはよく分からないが。
この『違い』というものが大切なのだ。
自分の住む地域と隣町では言葉が微妙に違う。
言葉一つとってみてもこうなのだ。
それ以外の生活のしきたり、工芸品の色や形、食品の味付け、などなど。
地方という枠で一緒くたにされる事も多いが、細かくみてみると地域ごとの違いは常にある。
それが文化というものだと思う。
キーは、違いを認める事。
相手を認めることは自分を認めることである。
中国や韓国では犬を食べる。
大多数の人がこれを聞くと「ひえええ」という反応を示す。
確かにボクも自分が飼っている犬を食べるなんて事は考えられない。
だが彼らが食べるのは彼らが飼っている犬であり、ボクの犬を彼らは食べない。
犬を食べるというのは彼らの食文化の一つである。
犬を食べる=野蛮という考えは、鯨を食べる=野蛮な日本人という考えとなんら変わらない。
自分の常識は相手の常識ではない。
お互いを認め合い、違って当たり前という認識を持てば争いはなくなる。
これを自分の物差しに相手を当てはめようとするから、いつまでたっても争いがなくならない。
こういうことを言うと極論が好きな人はこう言う。
「じゃあ、相手が略奪をする場合はそれも相手の文化だとして認めろというのか?相手が人殺しだったら黙って殺されろと言うのか?」
違う。
根底に愛というものがないものは、遅かれ早かれ自滅する。
人の道に反した事をすれば、自分にそれがおそいかかる。
天に向って吐いたツバは自分の所に落ちてくるのだ。
ある所で殺人事件があったとしよう。
今の世の中では殺した人は加害者で殺された人は被害者だ。
だが事件、出来事というのは常に因果関係によって成り立っている。
この場合は殺した人は加害者であり同時に被害者である。殺された人も被害者であり同時に加害者なのだ。
この考えはこの世界ではあまり受け入れられない。
殺された人は、とにかく可哀そう。
殺した人は、とにかく悪いヤツ。
そういう公式がある。今世だけ見ればそうなるだろう。
ボクから見れば殺した人も殺された人も可哀そうな人だ。
殺した人は肉体が死んでも罪を償わなくてはならない。その事を考えただけでも同情する。
殺された人はこの世での活動が終わってしまう。未練もあるかもしれない。
だが二人とも来世でまたやり直しをしなくてはならないのだ。
ひょっとすると来世では立場が逆になるかもしれない。
そうやっていつの日か浄化するまでその関係を続けるのだ。
最近では地方の市町村が合併され一つの町となる事が多い。
ボクの故郷の清水市も静岡市に合併された。
以前いた能生町も糸魚川市に吸収合併された。
そうやって地域差というものは薄まり、あげくの果てには日本中どこに行っても同じような街ができあがる。
大きく見れば世界中どこに行ってもマクドナルドとコカコーラがある。
ニュージーランドだって、マクドナルド、KFC、スターバックス、ピザハット、バーガーキング。
クライストチャーチのショッピングモールには外国資本の同じような店が並ぶ。
以前行ったシドニーのショッピングモールには規模の大きさこそ違え、同じ系列の店が並んでいた。
そのモールの中だけ見れば、ニュージーランドなのかオーストラリアなのか分からない。
グローバルという名の均一化は支配しようとする側から見れば都合が良い。
知らず知らずのうちに同じ価値観を植え付け、大衆というものをコントロールしてゆく。
個人が自分の責任で判断することなく、造られた舞台の上で生かされている。
それが支配者の狙いだ。
悪い話ばかりではない。
最近は地元で取れたもの、地元の人が作った物を売る小規模のマーケットがクライストチャーチの市内のあちこちで開かれるようになった。
ボクは買い物はできるだけ、こういったマーケットや小さな個人商店で買うようにしている。
心の奥底に愛というものを持ちつつ、相手の文化を認め自分の文化を認める。
自分さえよければいいというエゴに支配されず、自分も他人も地球上での一つの存在として受け入れる。
競争があるとしたら、足を引っ張り合うのではなく、互いを高めるための競い合いを。
境界線というものはなくなり、国境さえもなくなる。
国という観念は薄まり、政府は地球に一つだけある。
民族性というものはあるが、どこからどこまでといった明確なものでなく、大体あの辺りという大ざっぱなもので、それをよく見るといくつもの流派に分かれる。
均一化ではなく多様化の時代なのだ。
それには偏見にとらわれることなく『違い』というものを理解する個々の意識の変革が必要である。
その時とは近い将来、必ずやってくることだろう。
自分達はどうすればいいか?
簡単なことである。
愛を信じればよい。
だが一番簡単なことは一番難しいことでもある。
ちびマルコちゃんの丸尾君のようにズバリ言うと、これからの世界は細分化に向っていくだろう。
ここ十数年、グローバルという言葉が出てきた。
個人的に言うとこの言葉は嫌いである。
この言葉の本質は均一化であり、さらに言うとアメリカの物差しで全てを均すことだ。
これは文化の停滞であり非常に危険なことだ。
文化というのは非常に狭い地域で生まれる。
単一に均されたような場所では生まれない。
グローバルという名のだだっ広い場所では、今ある物を繰り返すだけで新しい物は生まれない。
これからの世界で発展があるとすれば、均一化の正体を見破り細分化に向っていくことがカギなのだ。
例えば言語。
関西弁という言葉がある。これも一つの文化なのだが関西弁の中にも大阪弁、兵庫弁、京都弁、奈良弁、などなど違いがある。
大阪弁にしたって、その中にいろいろな違いがあるのだろう。ボクにはよく分からないが。
この『違い』というものが大切なのだ。
自分の住む地域と隣町では言葉が微妙に違う。
言葉一つとってみてもこうなのだ。
それ以外の生活のしきたり、工芸品の色や形、食品の味付け、などなど。
地方という枠で一緒くたにされる事も多いが、細かくみてみると地域ごとの違いは常にある。
それが文化というものだと思う。
キーは、違いを認める事。
相手を認めることは自分を認めることである。
中国や韓国では犬を食べる。
大多数の人がこれを聞くと「ひえええ」という反応を示す。
確かにボクも自分が飼っている犬を食べるなんて事は考えられない。
だが彼らが食べるのは彼らが飼っている犬であり、ボクの犬を彼らは食べない。
犬を食べるというのは彼らの食文化の一つである。
犬を食べる=野蛮という考えは、鯨を食べる=野蛮な日本人という考えとなんら変わらない。
自分の常識は相手の常識ではない。
お互いを認め合い、違って当たり前という認識を持てば争いはなくなる。
これを自分の物差しに相手を当てはめようとするから、いつまでたっても争いがなくならない。
こういうことを言うと極論が好きな人はこう言う。
「じゃあ、相手が略奪をする場合はそれも相手の文化だとして認めろというのか?相手が人殺しだったら黙って殺されろと言うのか?」
違う。
根底に愛というものがないものは、遅かれ早かれ自滅する。
人の道に反した事をすれば、自分にそれがおそいかかる。
天に向って吐いたツバは自分の所に落ちてくるのだ。
ある所で殺人事件があったとしよう。
今の世の中では殺した人は加害者で殺された人は被害者だ。
だが事件、出来事というのは常に因果関係によって成り立っている。
この場合は殺した人は加害者であり同時に被害者である。殺された人も被害者であり同時に加害者なのだ。
この考えはこの世界ではあまり受け入れられない。
殺された人は、とにかく可哀そう。
殺した人は、とにかく悪いヤツ。
そういう公式がある。今世だけ見ればそうなるだろう。
ボクから見れば殺した人も殺された人も可哀そうな人だ。
殺した人は肉体が死んでも罪を償わなくてはならない。その事を考えただけでも同情する。
殺された人はこの世での活動が終わってしまう。未練もあるかもしれない。
だが二人とも来世でまたやり直しをしなくてはならないのだ。
ひょっとすると来世では立場が逆になるかもしれない。
そうやっていつの日か浄化するまでその関係を続けるのだ。
最近では地方の市町村が合併され一つの町となる事が多い。
ボクの故郷の清水市も静岡市に合併された。
以前いた能生町も糸魚川市に吸収合併された。
そうやって地域差というものは薄まり、あげくの果てには日本中どこに行っても同じような街ができあがる。
大きく見れば世界中どこに行ってもマクドナルドとコカコーラがある。
ニュージーランドだって、マクドナルド、KFC、スターバックス、ピザハット、バーガーキング。
クライストチャーチのショッピングモールには外国資本の同じような店が並ぶ。
以前行ったシドニーのショッピングモールには規模の大きさこそ違え、同じ系列の店が並んでいた。
そのモールの中だけ見れば、ニュージーランドなのかオーストラリアなのか分からない。
グローバルという名の均一化は支配しようとする側から見れば都合が良い。
知らず知らずのうちに同じ価値観を植え付け、大衆というものをコントロールしてゆく。
個人が自分の責任で判断することなく、造られた舞台の上で生かされている。
それが支配者の狙いだ。
悪い話ばかりではない。
最近は地元で取れたもの、地元の人が作った物を売る小規模のマーケットがクライストチャーチの市内のあちこちで開かれるようになった。
ボクは買い物はできるだけ、こういったマーケットや小さな個人商店で買うようにしている。
心の奥底に愛というものを持ちつつ、相手の文化を認め自分の文化を認める。
自分さえよければいいというエゴに支配されず、自分も他人も地球上での一つの存在として受け入れる。
競争があるとしたら、足を引っ張り合うのではなく、互いを高めるための競い合いを。
境界線というものはなくなり、国境さえもなくなる。
国という観念は薄まり、政府は地球に一つだけある。
民族性というものはあるが、どこからどこまでといった明確なものでなく、大体あの辺りという大ざっぱなもので、それをよく見るといくつもの流派に分かれる。
均一化ではなく多様化の時代なのだ。
それには偏見にとらわれることなく『違い』というものを理解する個々の意識の変革が必要である。
その時とは近い将来、必ずやってくることだろう。
自分達はどうすればいいか?
簡単なことである。
愛を信じればよい。
だが一番簡単なことは一番難しいことでもある。