娘がアルバイトを始めたのは1月のことだった。
バイトを始めたいと聞いて、僕は諸手を上げて賛成、どんどんやりなさい、と言った。
社会経験、いいこともあるし、イヤなことや汚いことも、全てひっくるめての勉強だ。
それに働こうという本人の意思。これが大切。
バイトをどこにしようか、あれやこれや迷っていたが、我が家では直接的な手助けはせず、自分でやらせた。
その結果、市内中心部の持ち帰りも店内での飲食もできる寿司屋に決まった。
数ある寿司屋の中では、割と美味しいお店である。
時間は平日夕方5時ぐらいから8時半まで、週2~3回と週末お昼から夕方まで。
仕事はウェイトレス、そして忙しい時はたまに中も手伝う。
本人の様子を見ていると楽しそうに働いているので、まあ良い職場なのだろう。
ただし僕がお店に行くのは嫌なんだと。
そこで何か注文して食べていくなんてのは、絶対に嫌だと。
お願いだからやめて、なんて言う始末だ。
まあその気持ちも分かるので、未だその店に行った事は無い。
僕が子供のころに始めてやった仕事はアルミ缶を集める仕事だった。
たしか小学校5年ぐらいだったと思う。
何のきっかけか忘れてしまったが、父親からアルミ缶を集めてクズ屋に持っていけばお金になると言う話を聞いた。
よしそれなら自分でもやってみよう、と次の日からアルミ缶集めが始まった。
学校の帰りとかに自動販売機の横のゴミ箱からアルミ缶だけ拾って持って帰るのだ。
当時はジュースの缶はアルミ缶とスチール缶が半々ぐらいだった。
そうやって集めた缶はそのままではかさばるので、一つ一つハンマーで叩いてつぶし大きなゴミ袋に入れて貯めていった。
うっかりと自分の指を叩くなんてことも1回や2回ではなかった。
父親は厳しい人だったので家族の協力は一切なかったし、僕も人に甘える気持ちは全く無かった。
隣近所のおばさんたちは「偉いねえ」なんて言って協力してくれるのだが、アルミ缶と一緒にスチール缶ももらった。
まさかスチール缶だけ返すわけにはいかないので、その分ゴミ出しの仕事も増えた。
数ヶ月間そうやって貯めると、大きなゴミ袋がいくつも一杯になり、自転車の荷台にしばりつけてクズ屋に持っていった。
いくらになるのだろう、ひょっとすると2000円ぐらいになるかな、いやいくらなんでもそんなにはならないだろうな、でも高くなったらいいな。
いろいろな事を考えながらワクワクして持っていった結果は300円ぐらいだった。
正直ガッカリした。
「どうだ、金を稼ぐって大変だろう」「うん」
父親の言葉が身に染みた。
だが今、これを書きながら考えれば、それが幾らになるか教えずに(知らなかったのかもしれないが)、子供の僕にクズ屋に直接持って行かせてその場で値段を知らせるというのはいい教育方法だったと思う。
「てゆーか、先に調べればいいじゃん」という声も聞こえるが、調べたらやらなかったとも思う。
やらなかったらこの経験もない。
情報ばかり先走りして頭でっかちになり、行動がついてこない人には分かるまい。
何よりも経験、これこそが大きな財産である。
若い時の苦労は買ってでもしろと昔から言うではないか。
その後、もう空き缶集めは止めたという話が伝わるまでしばらくは、隣近所から空き缶が届けられ(僕が学校に行っている間に置いていくのだ)その分、またゴミ出しの手間が増えたという落ちも付いた。
中学の時にはバイトは禁止だったが、高校に入ると解禁だ。
一応建前上はバイト禁止だが、工業高校の規則なんてあってないようなものだ。
高校3年間は部活をやりながら、常に何らかのバイトをやっていた。
当時の静岡では高校生のバイトの自給が450円、大学生が500円というのが相場だった。
高一の夏休みは酒屋の配達助手。暑い中汗だくになってビールをケースで運んだ。
仕事はきつかったが、配達の合間に先輩と吸う一服はたまらなく、なんか大人の仲間入りをした気にさせてくれた。
早朝の野菜市場で学校へ行く前のバイトなんてこともやった。
朝4時ぐらいに起きて、40分かけて自転車で市場へ行き、伝票を切る仕事を2時間ぐらいかけてやり、そこから20分かけて学校へ行った。
その後、授業、部活、帰宅という毎日。朝飯は毎日授業中に食った。
仕事自体はそんなにきつくはなかったのだが、さすがにこれは長く続かなく数か月でやめた。
飲食関係の仕事もやった。
繁華街でファーストフードのチェーン店、ホットドッグ屋の仕事ではフライドポテトは芋を揚げるのではないということを知った。
駅ビルの地下街の京風ラーメン屋ではよくぞこんなにと思うほど不味いラーメンを作り続けた。
今は亡き母が用事のついでに立ち寄り、あまりの不味さに絶句した。父はその話を聞いて近寄りもしなかった。
郊外のお好み焼き屋では年をごまかして応募したら、知り合いがそこに居て即刻ばれたが、その人のつてで雇ってもらった。
高校3年の夏休みには土方をやり、建築の現場も知った。
それぞれの場所でそれぞれの人間関係があった。
バイト先の女の子と仲良くなったこともあったし、同僚とケンカしたこともあった。
酸いも甘いも苦味もしょっぱさも味わい、社会というものを学んでいった。
高校3年の時にはスーパーのバイトをした。
ここではかなり長いこと働き、店長からも可愛がってもらい、おおまかな仕事を他のバイトに振り分けるバイト頭のような存在だった。
冬休みだったか春休みだったか定かでないが、東京に行っている大学生が休み期間だけバイトで入ってきた。
立教大学に行っているというだけで、そいつは影でリッキョーと呼ばれていた。
オタクを絵に描いたような男で、ボソボソと喋りまともに挨拶もできなかった。
系列会社の重役の子供かなんかなんだろう、戦力としても扱われず、店の中で浮いた存在だった。
このリッキョーが毎日8時きっかりに帰るのだ。
スーパーの閉店は8時で、そこから片付けなどをやると8時5分か10分ぐらいになり、タイムカードを押すのもそれぐらいになる。
リッキョーは毎日律儀に8時になると、幽霊のようにスーっといなくなった。
当然、現場のバイト達からも不満が出る。
「聖さーん、あいつ、今日も先に帰っちゃったんスよ。ずるいッス」
「店長とか他の社員は何か言わないの?」
「見て見ぬふりッス。ガツンと言ってくださいよ」
「うーむ、そうか」
数日後、先に帰ろうとしたリッキョーに倉庫の隅でばったり会った。
「アンタねえ、他の高校生バイトが閉店作業をやっているでしょ。それ見て何とも思わないの?手伝おうとか思わないの?」
リッキョーは下を見てモゴモゴとつぶやくだけだった。
次の日、店長に呼ばれた。
「お前なあ、あんまり大学生いじめるなよ」
「はあ?いじめる?あいつ、いつも先に帰るから他のみんなを手伝えって言っただけですよ」
「そうかもしれないけどな。昨日オレが帰ろうとしたらリッキョーが倉庫の隅でシクシク泣いてるんだよ。『どうしたんだ?』って聞いたら『バイトの高校生にいじめられた』だってよ」
「なに、それ。じゃあオレが悪者みたいじゃん。何、あいつ!」
僕は腹を立てた。
「お前が正しいのは分かるけどな、あまりいじめないでやってくれ」
大学生いじめ事件の噂はその日のうちに店内をかけめぐり、リッキョーはほどなく見なくなった。
仕事を辞めたのか、大人のはからいで他の店に行ったのかは知らない。
僕は僕で、こんなヤツでもどこかの会社に就職するんだろう、と学歴そして学歴重視の社会をバカにする度合いを増した。
それはそれで反対方向に行き過ぎたかなと、今となっては思う。
そこのバイトは高校を卒業するまで続き、ニュージーランドに行くといっても「そんなのやめてうちで正社員になれ」と店長にしつこいくらいに誘われた。
セピア色の想い出である。
そんなバイト三昧の高校生時代と、気が付けば娘が同世代になっている。
楽して金を儲けよう、働かないで金を稼ごう、という考えが多い世の中で、娘はきっちりと労働をしてお金を得ようとしている。
ティーンエージャーの常で親父の言うことは聞かないし聞きたくない。
オヤジの小言は聞かないが、同じことを嵐が言ったら聞くんだろうな。
教訓じみたことを言っても「分かってるよ」と言われてしまうのが関の山。
親父にできることは黙って背中を押してあげることぐらいなんだろう。
バイトを始めたいと聞いて、僕は諸手を上げて賛成、どんどんやりなさい、と言った。
社会経験、いいこともあるし、イヤなことや汚いことも、全てひっくるめての勉強だ。
それに働こうという本人の意思。これが大切。
バイトをどこにしようか、あれやこれや迷っていたが、我が家では直接的な手助けはせず、自分でやらせた。
その結果、市内中心部の持ち帰りも店内での飲食もできる寿司屋に決まった。
数ある寿司屋の中では、割と美味しいお店である。
時間は平日夕方5時ぐらいから8時半まで、週2~3回と週末お昼から夕方まで。
仕事はウェイトレス、そして忙しい時はたまに中も手伝う。
本人の様子を見ていると楽しそうに働いているので、まあ良い職場なのだろう。
ただし僕がお店に行くのは嫌なんだと。
そこで何か注文して食べていくなんてのは、絶対に嫌だと。
お願いだからやめて、なんて言う始末だ。
まあその気持ちも分かるので、未だその店に行った事は無い。
僕が子供のころに始めてやった仕事はアルミ缶を集める仕事だった。
たしか小学校5年ぐらいだったと思う。
何のきっかけか忘れてしまったが、父親からアルミ缶を集めてクズ屋に持っていけばお金になると言う話を聞いた。
よしそれなら自分でもやってみよう、と次の日からアルミ缶集めが始まった。
学校の帰りとかに自動販売機の横のゴミ箱からアルミ缶だけ拾って持って帰るのだ。
当時はジュースの缶はアルミ缶とスチール缶が半々ぐらいだった。
そうやって集めた缶はそのままではかさばるので、一つ一つハンマーで叩いてつぶし大きなゴミ袋に入れて貯めていった。
うっかりと自分の指を叩くなんてことも1回や2回ではなかった。
父親は厳しい人だったので家族の協力は一切なかったし、僕も人に甘える気持ちは全く無かった。
隣近所のおばさんたちは「偉いねえ」なんて言って協力してくれるのだが、アルミ缶と一緒にスチール缶ももらった。
まさかスチール缶だけ返すわけにはいかないので、その分ゴミ出しの仕事も増えた。
数ヶ月間そうやって貯めると、大きなゴミ袋がいくつも一杯になり、自転車の荷台にしばりつけてクズ屋に持っていった。
いくらになるのだろう、ひょっとすると2000円ぐらいになるかな、いやいくらなんでもそんなにはならないだろうな、でも高くなったらいいな。
いろいろな事を考えながらワクワクして持っていった結果は300円ぐらいだった。
正直ガッカリした。
「どうだ、金を稼ぐって大変だろう」「うん」
父親の言葉が身に染みた。
だが今、これを書きながら考えれば、それが幾らになるか教えずに(知らなかったのかもしれないが)、子供の僕にクズ屋に直接持って行かせてその場で値段を知らせるというのはいい教育方法だったと思う。
「てゆーか、先に調べればいいじゃん」という声も聞こえるが、調べたらやらなかったとも思う。
やらなかったらこの経験もない。
情報ばかり先走りして頭でっかちになり、行動がついてこない人には分かるまい。
何よりも経験、これこそが大きな財産である。
若い時の苦労は買ってでもしろと昔から言うではないか。
その後、もう空き缶集めは止めたという話が伝わるまでしばらくは、隣近所から空き缶が届けられ(僕が学校に行っている間に置いていくのだ)その分、またゴミ出しの手間が増えたという落ちも付いた。
中学の時にはバイトは禁止だったが、高校に入ると解禁だ。
一応建前上はバイト禁止だが、工業高校の規則なんてあってないようなものだ。
高校3年間は部活をやりながら、常に何らかのバイトをやっていた。
当時の静岡では高校生のバイトの自給が450円、大学生が500円というのが相場だった。
高一の夏休みは酒屋の配達助手。暑い中汗だくになってビールをケースで運んだ。
仕事はきつかったが、配達の合間に先輩と吸う一服はたまらなく、なんか大人の仲間入りをした気にさせてくれた。
早朝の野菜市場で学校へ行く前のバイトなんてこともやった。
朝4時ぐらいに起きて、40分かけて自転車で市場へ行き、伝票を切る仕事を2時間ぐらいかけてやり、そこから20分かけて学校へ行った。
その後、授業、部活、帰宅という毎日。朝飯は毎日授業中に食った。
仕事自体はそんなにきつくはなかったのだが、さすがにこれは長く続かなく数か月でやめた。
飲食関係の仕事もやった。
繁華街でファーストフードのチェーン店、ホットドッグ屋の仕事ではフライドポテトは芋を揚げるのではないということを知った。
駅ビルの地下街の京風ラーメン屋ではよくぞこんなにと思うほど不味いラーメンを作り続けた。
今は亡き母が用事のついでに立ち寄り、あまりの不味さに絶句した。父はその話を聞いて近寄りもしなかった。
郊外のお好み焼き屋では年をごまかして応募したら、知り合いがそこに居て即刻ばれたが、その人のつてで雇ってもらった。
高校3年の夏休みには土方をやり、建築の現場も知った。
それぞれの場所でそれぞれの人間関係があった。
バイト先の女の子と仲良くなったこともあったし、同僚とケンカしたこともあった。
酸いも甘いも苦味もしょっぱさも味わい、社会というものを学んでいった。
高校3年の時にはスーパーのバイトをした。
ここではかなり長いこと働き、店長からも可愛がってもらい、おおまかな仕事を他のバイトに振り分けるバイト頭のような存在だった。
冬休みだったか春休みだったか定かでないが、東京に行っている大学生が休み期間だけバイトで入ってきた。
立教大学に行っているというだけで、そいつは影でリッキョーと呼ばれていた。
オタクを絵に描いたような男で、ボソボソと喋りまともに挨拶もできなかった。
系列会社の重役の子供かなんかなんだろう、戦力としても扱われず、店の中で浮いた存在だった。
このリッキョーが毎日8時きっかりに帰るのだ。
スーパーの閉店は8時で、そこから片付けなどをやると8時5分か10分ぐらいになり、タイムカードを押すのもそれぐらいになる。
リッキョーは毎日律儀に8時になると、幽霊のようにスーっといなくなった。
当然、現場のバイト達からも不満が出る。
「聖さーん、あいつ、今日も先に帰っちゃったんスよ。ずるいッス」
「店長とか他の社員は何か言わないの?」
「見て見ぬふりッス。ガツンと言ってくださいよ」
「うーむ、そうか」
数日後、先に帰ろうとしたリッキョーに倉庫の隅でばったり会った。
「アンタねえ、他の高校生バイトが閉店作業をやっているでしょ。それ見て何とも思わないの?手伝おうとか思わないの?」
リッキョーは下を見てモゴモゴとつぶやくだけだった。
次の日、店長に呼ばれた。
「お前なあ、あんまり大学生いじめるなよ」
「はあ?いじめる?あいつ、いつも先に帰るから他のみんなを手伝えって言っただけですよ」
「そうかもしれないけどな。昨日オレが帰ろうとしたらリッキョーが倉庫の隅でシクシク泣いてるんだよ。『どうしたんだ?』って聞いたら『バイトの高校生にいじめられた』だってよ」
「なに、それ。じゃあオレが悪者みたいじゃん。何、あいつ!」
僕は腹を立てた。
「お前が正しいのは分かるけどな、あまりいじめないでやってくれ」
大学生いじめ事件の噂はその日のうちに店内をかけめぐり、リッキョーはほどなく見なくなった。
仕事を辞めたのか、大人のはからいで他の店に行ったのかは知らない。
僕は僕で、こんなヤツでもどこかの会社に就職するんだろう、と学歴そして学歴重視の社会をバカにする度合いを増した。
それはそれで反対方向に行き過ぎたかなと、今となっては思う。
そこのバイトは高校を卒業するまで続き、ニュージーランドに行くといっても「そんなのやめてうちで正社員になれ」と店長にしつこいくらいに誘われた。
セピア色の想い出である。
そんなバイト三昧の高校生時代と、気が付けば娘が同世代になっている。
楽して金を儲けよう、働かないで金を稼ごう、という考えが多い世の中で、娘はきっちりと労働をしてお金を得ようとしている。
ティーンエージャーの常で親父の言うことは聞かないし聞きたくない。
オヤジの小言は聞かないが、同じことを嵐が言ったら聞くんだろうな。
教訓じみたことを言っても「分かってるよ」と言われてしまうのが関の山。
親父にできることは黙って背中を押してあげることぐらいなんだろう。