あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

テレビ嫌い

2018-02-08 | 日記
テレビが嫌い、という話である。
テレビが好きで好きでたまらない、と言う人はこれ以上読まない方がよろしい。
子供の頃の楽しみと言えば、毎週土曜日の8時だよ全員集合だった。
父親は天然記念物で絶滅危惧種でもある昭和の頑固親父だったので、子供がテレビを見る時間を1日1時間と決められていた。
食事の時にテレビを見るなんてことは言語道断、許されざるべき行為だった。
父親のいない晩には、母がこっそりと「ドカベン」という野球アニメを飯時に見せてくれたのも良い想い出である。
だが小学校の3年ぐらいだったか、どの番組を見るかで兄弟喧嘩をしていた僕達に腹を立てた親父が目の前でテレビを叩きつけて壊してからは、テレビの無い生活を送って育った。
当時はそんな星一徹のような親父を憎んだが、今となってはそれがよかったと思っている。
テレビがないので、本を読みラジオを聴いた。
成長期に映像に浸らなかった分、想像力と思考力が身に付いたと思う。
今の世の、子供を大人しくさせる目的でテレビを見せるやり方はどうかと思う。
これはテレビに限らず、ビデオだろうがDVDだろうがタブレットだろうが映像という点では同じことだが、それ以上他人の育て方にあれこれ言うつもりはない。

最近のテレビ、それもバラエティーというもので大嫌いなのが、効果音。
それも人が作り上げる不自然な笑い声、女の観衆による「エー」という声なぞは特に気持ちが悪い。
そういうような話をとある添乗員にしたら、とても興味深い話を聞いた。
その人はそういう観衆のアルバイトをしたことがあると言った。
そこではスタッフがここで拍手といったら全員拍手をして、笑うという指示があれば笑い、あのお決まりの驚きという場面ではエーと言うのだ。
人気のあるグループの番組に観衆として出る為には、地味な番組の観衆の役を数こなさなくてはならない。
そういう下積みの現場でも手を抜くと人気番組には呼んでもらえない。
指示に従って、大げさに笑い、大げさに拍手をして、大げさにエーと言う。
そういう反応の強い弱いも個別にチェックされていて、この人は反応がいいからもっと上の現場へ、そしていつの日かトップクラスの番組にお呼びがかかる。
トップクラスの観衆ではほとんどタダ働きなんだそうな。
自分の好きなアイドルなりグループなりを生で見る為に、そういう涙ぐましい努力をするのである。
そんな話を聞いて、ナルホド、と思った。
自分が感じていた、嫌悪に近いほどの声の正体が見えた。
そこには常に製作者の意図というものがある。
時にそれは洗脳に近いものがあり、ここで笑いなさい、ここで驚きなさい、ここで感動しなさい、と強要される。
しょせんテレビは作り物である。
作り物を作り物として見る分にはまだ救いがあるが、それに気づかずどっぷりはまる人もいる。

よく世論調査などと称し街頭インタビューなどをしているが、あれもやらせ。
同じ人があちこちの番組でインタビューされているのが、ネットですっぱ抜かれている。
そこで対応する答えも、製作者の意図である。
海外などではさらに進んでいて、crisis actor などという役者もいる。
テロなどの災害をでっちあげ、怪我人を演ずる人のことだ。
同じ人が複数のテロ現場で怪我人になっていた。
やらせでないなら、よっぽど運の悪い人なのだろう。
今やニュースもエンターテイメントである。
公正という言葉からは程遠く、ありもしないことをでっちあげ、権力者にとって都合の悪い事はニュースにしない。
東シナ海のタンカー沈没事故による原油流出は日本に多大な被害を与えるだろうが、これもニュースにはしない。
福島の原発事故の時もそうだったが、隠蔽できない事実は湾曲してごまかす。
これはマスコミだけの問題はなく、政治、権力者、支配者とも絡みあった話になる。

権力者が大衆を操作するやり方で3S政策というものがある。
三つのSとはスクリーン、スポーツ、セックスである。
スクリーンは映像のことでテレビや映画を通して大衆に大量の情報を与える。
スポーツはその名の通りスポーツ。オリンピックやワールドカップ、プロのスポーツに大衆の意識を向けさせる。
セックスはお色気ムンムン(死語)のことだ。
これらを組み合わせ、大衆の意識を本質から背けさせるのが3S政策というものだ。
この前に日本に帰った時に親父とテレビの話になり、これを話したところいともあっさり「そりゃ3Sのことだろ」と言われた。
さすが若い時に反体制で闘ってきた人間である。
そんなことは百も承知であり、今さら息子に教えられることではないわけだ。
「じゃあその3Sのことを知っていたから、テレビを叩き潰したの?」
「どうだっかな、あんまり覚えてねえや」
「あの時は、このクソジジイ!っておもったけど、今となってはあれがよかったと思っている。NZの家でもテレビは全く見せないで娘を育てたよ」
「そうか、良かったな」
目を細めて親父は笑った。

今になって始まったことではないが、年配の人のテレビ信仰には考えることがある。
「テレビで言ってた」という言葉を何度聞いたことか。
みのもんたがテレビで言えば、翌日にその商品が売切れになる、というのもバカバカしい話だ。
『健康に良い、体に良い』という台詞も魔法の言葉である。
人は皆、自分の健康に対して不安を持っている。
特に高齢者はそれが著しい。
その不安とはやはりメディアによって植えつけられた概念だと思う。
この辺りの話は医療の話とも繋がるのだが、医療の話は別の機会に取っておこう。
だからどこかの偉い医者がテレビで言っていたら、それを鵜呑みにする。
会ったことも無い医者の事を、肩書きだけで信用する。
しかもテレビで言っていることに間違いなぞあるわけない。
絶対的な信用、服従、その先は洗脳だ。
テレビは洗脳の道具である。

だがテレビの番組全てがそうだと言っているわけではない。
以前見たプログラムで素晴らしいものもいくつもあった。
きちんとした作り手も当然いる。
その先は憶測だが、きちんとしたものを作ろうとしてもスポンサーの意向にそぐわない、権力者にとって都合の悪い、といった理由でつぶされる物も多いことだろう。
それよりも当たり障りのなく無難なものを選ぶこともあろう。
人間誰しもやりたいことだけで食っていけるわけではない。
やりたくない仕事をやることだってある。
そんなことを考えるより、浅く手っ取り早く金になる仕事を選ぶ方が楽だ。
以前、映画の仕事をした時に、役者のマネージャーがこう言っていた。
「テレビの仕事をしている人は、映画の仕事をしている人に比べて中身が無い人が多い」
なんとなくだが、そうだろうなと思った。
自分でもテレビの仕事をしたことがあるが、その親方の苦悩を垣間見たこともあった。

だらだらとテレビの悪口を書いてきたので、普段テレビを見ている人は気を悪くするかもしれない。
再び書くが、作り物を作り物として見る分にはかまわないと思う。
自分としてはこれからもテレビを見ることはないだろう、というだけの話である。
コメント (6)
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