越後から大雪の知らせが届く。
越後と言うと越後湯沢を連想する人も多いが、僕が言っているのは今の上越市の辺りである。
1990年代半ば、僕はその辺りで時を過ごした。
当時は20代後半、怖いもの失うものなど無くイケイケでやっていた頃だ。
雪の深さは定評のあるスキー場で、朝普通に出勤して夕方帰ろうと駐車場へ行くと車が雪で埋まっていてどれが自分の車か分からない。
雪かきをして車へたどり着いて端から掘ってみたら、違う車だったというのも2度や3度ではない。
しまいには雪が降る日は竹竿などを車の脇に立てて目印にした。
そんな場所だが地元の人は「昔の雪はこんなもんじゃあなかった」と言った。
確かに市街地では大雪の時に二階から出入りできるような造りになっているが、僕が住んでいた時にはそこまでの雪は降らなかった。
それでもそこに住んでいれば、雪かきという仕事からは逃れられない。
朝仕事へ行く前に雪かきをして、スキー場ではパトロールの仕事で雪かきをして、夕方駐車場で雪かきをする。
そんな日もあった。
おかげで雪かきがずいぶん上手になったものだった。
僕の出身は駿河の国、清水である。
ちなみに今では合併で清水は静岡市の一部となってしまった。
これは清水に限ったことではないが、日本中どこでも合併合併で昔の地名が失われ、代わりに由緒もロマンもセンスのかけらもない地名ができている。
時代の流れと言えばそれまでだが、地名には土地ごとの歴史があり、それが廃れていくのは憂べきことだ。
話が逸れたが、清水は上越とは本州を挟んだ太平洋側にあり、気候も温暖で雪なぞ降ったことがない。
九州で雪が降っても清水には雪は降らない。
風花(かざはな)と呼ばれる、晴れた日に微小な雪がチラチラと舞う現象が数年に一度起こるぐらいか。
清水では雪は降るのでなく舞う物なのだ。
そんな所に住んでいれば雪かきなどという仕事は一生することなく、それはテレビの向こうの出来事だ。
雪国の生活は大変だと頭では想像できても、経験しないしする必要もないから所詮は他人事なのだ。
頭で考えて理解するのと、実際に身をその場に置き経験して感じるのではえらい違いだ。
人間というのはかなりの頻度で、頭での理解で全てを分かったような気になる。
それに初めて意識的に気がついたのは20代の半ばだった。
僕はスキーパトロールの仕事で、福島県のアルツ磐梯というスキー場に居た。
新潟ほどではないがそれなりに雪の多い場所で、里も雪に覆われる。
あれは忘れもしない春の1日、仕事が休みで買い物に行く為、会津若松の市内へ行く道の交差点で信号待ちをしている時だった。
道の周りでは雪が溶け、雪の合間から草木が顔を覗かせて春の日を浴びていた。
なんの変哲もない、どこにでもある雪国の風景だ。
当時はスキー場近くの寮に住んでいて、里に降りるのも久しぶりだった。
信号待ちをしながら、ああ、里では雪もだいぶ溶けてきているんだなあ、と思ったその矢先。
周りの草木が穏やかな春の日差しを浴びて喜んでいる様子が心に飛び込んできた。
同時に草木だけでなく、人間を含めすべての動物、植物、虫などの微生物、そして大地までもが春の到来を喜んでいるのを心で感じた。
これはどう表現して良いのか分からないが、ある意味トランス状態、心が開いて森羅万象と一つになったというか。
覚せい剤などやっていないが文字通り『覚醒』してしまったのである。
「これが雪国の人が待つ春の訪れか」僕は思わず口に出してその言葉を言った。
それまでも長野のスキー場で何シーズンも雪山で過ごして、似たような景色は見ているはずである。
でも心の奥からそれを感じたのは、会津の田舎道が初めてのことだ。
これはその時の自分の年齢、境遇、人生と深く関わりあっている。
そしてその感覚をどんなに上手く表現しても人には伝わらない。
その後何年も雪深い上越で過ごしたが、その時と全く同じ感覚は得られなかった。
それでもそれを知る以前とは季節の移り変わりをより深く感じるようにはなった。
それを成長と呼ぶのかもしれない。
春よ来い 早く来い
歩き始めたみいちゃんが
赤い鼻緒のじょじょ履いて
おんもへ出たいと待っている。
よく知られた童謡である。
昔は今よりもっと雪が深く、それこそ冬の間は外に出られなかった。
そのことを感じ取ったのは、新潟の能生という場所のスキー場で働いた時だった。
豪雪地帯の山間部にある旧家が雪に埋もれている姿を見て、この歌が心に飛び込んできた。
雪に閉ざされ春を待ち焦がれる心。
この感覚は雪の無い場所に住んでいる人には絶対に分からない。
頭では理解できても、心の奥底から感じることはできない。
歌の奥に秘められた想いとはそういうものだと思う。
話を元に戻すが、今回は日本海側を中心に大雪が降ったそうで、スキー場も除雪が間に合わなくてクローズした所もあった。
文字通り雪に閉ざされたわけで、「昔は毎年こうだったんだろうな」というメールを友達にした。
「地元の人が『海沿いでこんな大雪見たことない』ってマスコミが喜びそうなことを言っていたよ」と返信があった。
「いや俺が言う昔って上杉謙信の頃の話だけど・・・。」
戦国時代は全ての武将が京都へ登る機会を狙っていた。
名将と言われた上杉謙信も宿敵武田信玄に牽制されながらも上京をしようと試みたが、いかにせん北陸の雪である。
除雪機などない時代、今よりさらに雪は多く、大きな軍隊が通る道を確保するだけで疲弊してしまうことは想像出来る。
雪に閉ざされ上京することなく無念の最期を迎えた。
当時最強の上杉軍も雪には勝てなかったわけだ。
除雪をしたことがないという人の為に書こう。
除雪の何が大変かと言えば、雪の捨て場が無いのだ。
特に住宅が密集しているような市街地ではそれが表れる。
なので水の流れで雪を流す流雪溝なんてものもある。
新しい住宅地ではそういったものも無く、雪捨て場の為に隣近所とトラブルになるなんて話も聞く。
そしてまた新潟の雪は重いのだ。
スキーで滑って重い雪は、運ぶのも重い。
水分をたっぷり含んだ雪は重く、ちゃちなプラスチック製の道具だとすぐに壊れてしまう。
頑丈な道具は重く、それで重い雪を運ぶ。
これはかなりの重労働である。
雪が降って喜ぶのはスキーヤーだけで、住む人にとって雪なんぞ無い方がよっぽど良い。
今は除雪機という便利なものだってあるが、これだって買うのにお金がかかる。
それに屋根の上の雪下ろしに機械は使えない。
人力でせっせとやるしかないのだ。
こうやって考えると、雪国で生きる為に除雪に費やすエネルギーは計り知れないものがあるなあ。
それだけの苦労困難があるから、春を待ち焦がれる心、春を迎える喜びも大きいのだと思う。
「あの野郎、ニュージーランドでぬくぬくしながら、俺の除雪の話をブログのネタにしやがって」
というような友の声が聞こえてきそうだ。
越後と言うと越後湯沢を連想する人も多いが、僕が言っているのは今の上越市の辺りである。
1990年代半ば、僕はその辺りで時を過ごした。
当時は20代後半、怖いもの失うものなど無くイケイケでやっていた頃だ。
雪の深さは定評のあるスキー場で、朝普通に出勤して夕方帰ろうと駐車場へ行くと車が雪で埋まっていてどれが自分の車か分からない。
雪かきをして車へたどり着いて端から掘ってみたら、違う車だったというのも2度や3度ではない。
しまいには雪が降る日は竹竿などを車の脇に立てて目印にした。
そんな場所だが地元の人は「昔の雪はこんなもんじゃあなかった」と言った。
確かに市街地では大雪の時に二階から出入りできるような造りになっているが、僕が住んでいた時にはそこまでの雪は降らなかった。
それでもそこに住んでいれば、雪かきという仕事からは逃れられない。
朝仕事へ行く前に雪かきをして、スキー場ではパトロールの仕事で雪かきをして、夕方駐車場で雪かきをする。
そんな日もあった。
おかげで雪かきがずいぶん上手になったものだった。
僕の出身は駿河の国、清水である。
ちなみに今では合併で清水は静岡市の一部となってしまった。
これは清水に限ったことではないが、日本中どこでも合併合併で昔の地名が失われ、代わりに由緒もロマンもセンスのかけらもない地名ができている。
時代の流れと言えばそれまでだが、地名には土地ごとの歴史があり、それが廃れていくのは憂べきことだ。
話が逸れたが、清水は上越とは本州を挟んだ太平洋側にあり、気候も温暖で雪なぞ降ったことがない。
九州で雪が降っても清水には雪は降らない。
風花(かざはな)と呼ばれる、晴れた日に微小な雪がチラチラと舞う現象が数年に一度起こるぐらいか。
清水では雪は降るのでなく舞う物なのだ。
そんな所に住んでいれば雪かきなどという仕事は一生することなく、それはテレビの向こうの出来事だ。
雪国の生活は大変だと頭では想像できても、経験しないしする必要もないから所詮は他人事なのだ。
頭で考えて理解するのと、実際に身をその場に置き経験して感じるのではえらい違いだ。
人間というのはかなりの頻度で、頭での理解で全てを分かったような気になる。
それに初めて意識的に気がついたのは20代の半ばだった。
僕はスキーパトロールの仕事で、福島県のアルツ磐梯というスキー場に居た。
新潟ほどではないがそれなりに雪の多い場所で、里も雪に覆われる。
あれは忘れもしない春の1日、仕事が休みで買い物に行く為、会津若松の市内へ行く道の交差点で信号待ちをしている時だった。
道の周りでは雪が溶け、雪の合間から草木が顔を覗かせて春の日を浴びていた。
なんの変哲もない、どこにでもある雪国の風景だ。
当時はスキー場近くの寮に住んでいて、里に降りるのも久しぶりだった。
信号待ちをしながら、ああ、里では雪もだいぶ溶けてきているんだなあ、と思ったその矢先。
周りの草木が穏やかな春の日差しを浴びて喜んでいる様子が心に飛び込んできた。
同時に草木だけでなく、人間を含めすべての動物、植物、虫などの微生物、そして大地までもが春の到来を喜んでいるのを心で感じた。
これはどう表現して良いのか分からないが、ある意味トランス状態、心が開いて森羅万象と一つになったというか。
覚せい剤などやっていないが文字通り『覚醒』してしまったのである。
「これが雪国の人が待つ春の訪れか」僕は思わず口に出してその言葉を言った。
それまでも長野のスキー場で何シーズンも雪山で過ごして、似たような景色は見ているはずである。
でも心の奥からそれを感じたのは、会津の田舎道が初めてのことだ。
これはその時の自分の年齢、境遇、人生と深く関わりあっている。
そしてその感覚をどんなに上手く表現しても人には伝わらない。
その後何年も雪深い上越で過ごしたが、その時と全く同じ感覚は得られなかった。
それでもそれを知る以前とは季節の移り変わりをより深く感じるようにはなった。
それを成長と呼ぶのかもしれない。
春よ来い 早く来い
歩き始めたみいちゃんが
赤い鼻緒のじょじょ履いて
おんもへ出たいと待っている。
よく知られた童謡である。
昔は今よりもっと雪が深く、それこそ冬の間は外に出られなかった。
そのことを感じ取ったのは、新潟の能生という場所のスキー場で働いた時だった。
豪雪地帯の山間部にある旧家が雪に埋もれている姿を見て、この歌が心に飛び込んできた。
雪に閉ざされ春を待ち焦がれる心。
この感覚は雪の無い場所に住んでいる人には絶対に分からない。
頭では理解できても、心の奥底から感じることはできない。
歌の奥に秘められた想いとはそういうものだと思う。
話を元に戻すが、今回は日本海側を中心に大雪が降ったそうで、スキー場も除雪が間に合わなくてクローズした所もあった。
文字通り雪に閉ざされたわけで、「昔は毎年こうだったんだろうな」というメールを友達にした。
「地元の人が『海沿いでこんな大雪見たことない』ってマスコミが喜びそうなことを言っていたよ」と返信があった。
「いや俺が言う昔って上杉謙信の頃の話だけど・・・。」
戦国時代は全ての武将が京都へ登る機会を狙っていた。
名将と言われた上杉謙信も宿敵武田信玄に牽制されながらも上京をしようと試みたが、いかにせん北陸の雪である。
除雪機などない時代、今よりさらに雪は多く、大きな軍隊が通る道を確保するだけで疲弊してしまうことは想像出来る。
雪に閉ざされ上京することなく無念の最期を迎えた。
当時最強の上杉軍も雪には勝てなかったわけだ。
除雪をしたことがないという人の為に書こう。
除雪の何が大変かと言えば、雪の捨て場が無いのだ。
特に住宅が密集しているような市街地ではそれが表れる。
なので水の流れで雪を流す流雪溝なんてものもある。
新しい住宅地ではそういったものも無く、雪捨て場の為に隣近所とトラブルになるなんて話も聞く。
そしてまた新潟の雪は重いのだ。
スキーで滑って重い雪は、運ぶのも重い。
水分をたっぷり含んだ雪は重く、ちゃちなプラスチック製の道具だとすぐに壊れてしまう。
頑丈な道具は重く、それで重い雪を運ぶ。
これはかなりの重労働である。
雪が降って喜ぶのはスキーヤーだけで、住む人にとって雪なんぞ無い方がよっぽど良い。
今は除雪機という便利なものだってあるが、これだって買うのにお金がかかる。
それに屋根の上の雪下ろしに機械は使えない。
人力でせっせとやるしかないのだ。
こうやって考えると、雪国で生きる為に除雪に費やすエネルギーは計り知れないものがあるなあ。
それだけの苦労困難があるから、春を待ち焦がれる心、春を迎える喜びも大きいのだと思う。
「あの野郎、ニュージーランドでぬくぬくしながら、俺の除雪の話をブログのネタにしやがって」
というような友の声が聞こえてきそうだ。