タイトル通りの話である。
先日、日本の実家から荷物が届いた。
中身は静岡の新茶、鰻の蒲焼、そして北海道の昆布である。
♩清水港の名物はお茶の香りと男伊達
という古い歌があるような所で育ったものだからお茶にはうるさい。
今年も静岡の新茶を美味しくいただいた。
お茶を淹れるのに大切なのは水である。
カルキが入った水はお茶の味を台無しにしてしまう。
普通に飲んで気付かないぐらいのカルキでも、お茶に使うと不味さがはっきり分かる。
なので我が家ではお茶用に水は山で汲んできたり、市内の湧き水を使う。
お湯は80度ぐらいで淹れるとお茶の甘みが引き立つ。
時間は1分半ぐらいが良い。
そうやって淹れたお茶はまず香りが良い。
お茶の時期になると茶工場にただようあの香り。
あの香りと言っても、普通の人は茶工場なぞ行ったことがないだろうが、独特の良い香りがするのだ。
茶碗に淹れたお茶の表面には産毛のようなものが浮かぶのも良い茶の特徴だ。
味はほのかに甘く、お茶の旨味がそれに続く。
親父が電話で「今年の新茶は良い出来だぞ」と言っていたがその通りだな。
このお茶は日本でも最高級のレベルであろう。
お酒で言えば純米大吟醸みたいなものだ。
朝起きて、まずお茶を淹れて飲むと、心がすっきりと落ち着き頭が冴え渡る。
これが僕にとっての茶道なのだ。
鰻の蒲焼は実家のそばの鰻屋さんで真空パックにしてもらったものだ。
遠くに住んでいる息子に、普段は鰻なぞ食えないだろうと買ってくれた。
親の愛はいくつになってもありがたいものだ。
そうそうに炊きたてご飯の上に乗せて鰻丼で食った。
どんなに美味いかくどくど書かないが、あまりの旨さに無言で貪り食ってしまった。
これは鰻一切れでどんぶり一杯食えるな。
2回に分ければ2回味わえたかも、とみみっちいことを思った。
そして北海道の昆布が大量に来た。
6年前に日本に行き北海道でライブをしたことは、はるか昔のブログで書いた。
その時に出会った昆布業界の人とFBで繋がっていて、連絡をしたら快くサンプル用の昆布を送ってくれた。
現代の人のご縁はネットで繋がっている。
サンプル用の昆布とはいえども昆布は昆布、それも北海道の昆布である
昆布の良し悪しは分からないが、ニュージーランドに住む身にはありがたいものである。
ダシ用の昆布と食べる用の昆布と2種類。
ダシ用の昆布は食べてもいけるのだが、食べる用の昆布もこれまた美味い。
最初は佃煮にしてみたのだが、これで昆布巻きとか作ってもいいな。
たっぷりあるから魚を捌いて昆布締めにもできるぞ。
僕は常々、人類はもっと海藻を食べるべきだと思っている。
まず美味い、そして体に良い、そして地球に与えるインパクトも少ない。
農薬まみれで遺伝子を組み替えの不自然な野菜と、そこに生えている海の野菜の海藻。
比べる対象ではないのかもしれないが、どちらが健康にも環境にも良いかは明白だ。
日本では海藻は食文化の一つであり、昆布をはじめ、ワカメ、モズク、そういえばかんてんも海藻だったよな。
海藻を食べるということは、文明が生まれる以前からある狩猟採集生活に繋がっている。
生き物としての根源がそこにあるような気がするのだ。
ニュージーランドでは最近ワカメが繁殖しているようなので、春が来たらワカメを探しに出かけていこうと思っている。
その他にも僕はいろいろともらう事が多い。
近所に住む友達のナナちゃんはベーコンが出来たと言っては持ってきてくれる。
親友ブラウニーは自分で撃って捌いた鹿肉をくれる。
日本の会社からはスキーウェアーや手袋をもらったし、ガイドのお客さんからはチップをもらう。
サーモン、伊勢海老、アワビ、ホワイトベイト(白魚)その他もろもろ。
まあ自分でも人にあげることが多いわけであり、自分が作ったビールや石鹸、庭の野菜や卵などかなり気前良く人にあげる。
ちなみに僕のポリシーとしては、人に売らない。
「売ればいいじゃん?」と人に言われるが、売らない。
売らないと言ったら断固として売らない。
農業でも製造業でも何でもそうだが、物に値段を付けた瞬間に商業になる。
僕がやりたいのは商売ではなく生産だ。
そうやって人にこれでもかというほど物をあげ、人からは遠慮なく物をいただく。
それってある意味、物々交換じゃないの?と考える人は多いだろう。
自分でも漠然とそう思っていた。
考えが変わったのは、コテンラジオの経済の歴史という話だった。
文明が始まって貨幣や紙幣が生まれ、銀行が出来て株式会社ができて資本主義というものになっていく。
大まかな話はそういうものだが、それ以前は物々交換だった。
自分が採った肉と相手が作った野菜を交換すれば互いに助かる。
それが次第に皆が価値を認めている物、例えば手斧のような物が交換の材料に使われるようになった。
「物々交換は基本的に相手を信用していない状態の人間関係で行われるもので、実はそれ以前には人にあげるという状態だったんです」
コテンラジオのこの言葉が僕にとって衝撃的だった。
何か漠然と感じていたモヤモヤが見えたような気がした。
例えば友達と飲みに行き支払ってもらったとしよう、そしたら次の回は自分が払う。
これは互いに信用しているから成り立つ関係である。
同等の資産がありながら、常に相手が払ってくれるから自分は払わないとなったら、信頼関係は崩れる。
似たような話をタヒチへ旅をした時に聞いたことがある。
タヒチの人達は基本的に働かなくても生きていけて、貯金や貯蓄をあまりしない人達らしい。
仕事をして現金が入ると気前良くみんなにおごってパッと使ってしまう。
自分が働かない時には別の人におごってもらう。
基本的にお金を持っている人がその場で払う、そういうような暮らしを長いことやってきた。
やがて大陸から別の人達がやってきたが、その人達はおごってもらうが自分では支払わずにお金を貯めていった。
人々の信頼関係は崩れ、タヒチ人の中にもずる賢く自分は出さずに人からおごってもらうだけの人が出てきたと言う。
大陸から来た人達というのが誰とは書かないが、想像できるであろう。
信頼関係の無い相手であれば、物や金をあげるのではなく、その見返りを求める。
物々交換からの始まりはこういうものだったのだろう。
そして自分はこれだけ出しているのに相手はこれだけしか出さない、というような『損得勘定』も生まれる。
損得勘定が進化すれば「最小の出資で最大の利益を求める」という考えになるのは自然の理だ。
お得という言葉の根底にあるものは欲だ。
その欲望に歯止めがきかなくなれば、「自分さえよければいい」というエゴになる。
「自分さえよければいい」は「自分の家族さえよければいい」となり「自分が所属する社会さえよければいい」と進む。
エゴが進めば相手を倒してものを奪うことも当たり前となる。
その最終形は全面戦争なんだろうな。
一番極端な例をあげたが、パラレルワールドではそういう世界も存在して、滅亡が目前に迫っているのに奪い合いを止めない人達がいる。
人類はそこまで愚かではなく(と思いたい)ほどほどのところでバランスをとりながらやっている。
相手のことを思いつつ経済活動をする、買い手良し作り手良し売り手良し、三方良しの近江商人のような考えもある。
物には正当な値段というものがあり、安すぎてもダメだし高すぎてもダメだ。
不当に安い物の影には泣いている人達がいたり、粗悪な物が混ざっていたりするだろう。
極端に高すぎたら買う人はいなくなり商売自体が成り立たない。
やはりここでもバランスというものが大切なのだ。
なんか経済の話になってしまったが、物々交換以前では人にあげるという時代があったのだという話に戻る。
僕が思うに人にあげるというより、皆で分け合うという感覚なのだろう。
パッと浮かんだイメージはアメリカンインディアンかな。
そこに所有権は無く、必要なものを必要なだけ大地からいただく。そんな考えが好きだ。
今の世の中では当然、所有権というものが存在する。
本来は地球のものであるはずの土地に値段が付き、人間のものとして売り買いされている。
これを良いとか悪いとかいう話にすると別な方向に行ってしまうが、そうではなく、今現在そういう社会なのだ。
その社会の中で、僕は人にあげる。
何故なら美味しいと喜ぶ顔が見たいから、子供に健康で美味しい物を食べさせるのは大人の役目だから。
見返りを求めることなく、純粋な気持ちで人にあげる。
家族の間では見返りは求めないだろう?
ぼくにとって周りの友達は家族のようなものだ。
でも家族の間で、奪い合うようなケースも存在するんだろうな。
そしてありとあらゆる物を遠慮なく貰う。
貰う時には「ありがとう」と言ってもらう。
ありがとうと言い合う人間関係では諍いは起こらない。
Give & Takeの関係ではなく Give & Giveの関係を持ち続けたいものである。
先日、日本の実家から荷物が届いた。
中身は静岡の新茶、鰻の蒲焼、そして北海道の昆布である。
♩清水港の名物はお茶の香りと男伊達
という古い歌があるような所で育ったものだからお茶にはうるさい。
今年も静岡の新茶を美味しくいただいた。
お茶を淹れるのに大切なのは水である。
カルキが入った水はお茶の味を台無しにしてしまう。
普通に飲んで気付かないぐらいのカルキでも、お茶に使うと不味さがはっきり分かる。
なので我が家ではお茶用に水は山で汲んできたり、市内の湧き水を使う。
お湯は80度ぐらいで淹れるとお茶の甘みが引き立つ。
時間は1分半ぐらいが良い。
そうやって淹れたお茶はまず香りが良い。
お茶の時期になると茶工場にただようあの香り。
あの香りと言っても、普通の人は茶工場なぞ行ったことがないだろうが、独特の良い香りがするのだ。
茶碗に淹れたお茶の表面には産毛のようなものが浮かぶのも良い茶の特徴だ。
味はほのかに甘く、お茶の旨味がそれに続く。
親父が電話で「今年の新茶は良い出来だぞ」と言っていたがその通りだな。
このお茶は日本でも最高級のレベルであろう。
お酒で言えば純米大吟醸みたいなものだ。
朝起きて、まずお茶を淹れて飲むと、心がすっきりと落ち着き頭が冴え渡る。
これが僕にとっての茶道なのだ。
鰻の蒲焼は実家のそばの鰻屋さんで真空パックにしてもらったものだ。
遠くに住んでいる息子に、普段は鰻なぞ食えないだろうと買ってくれた。
親の愛はいくつになってもありがたいものだ。
そうそうに炊きたてご飯の上に乗せて鰻丼で食った。
どんなに美味いかくどくど書かないが、あまりの旨さに無言で貪り食ってしまった。
これは鰻一切れでどんぶり一杯食えるな。
2回に分ければ2回味わえたかも、とみみっちいことを思った。
そして北海道の昆布が大量に来た。
6年前に日本に行き北海道でライブをしたことは、はるか昔のブログで書いた。
その時に出会った昆布業界の人とFBで繋がっていて、連絡をしたら快くサンプル用の昆布を送ってくれた。
現代の人のご縁はネットで繋がっている。
サンプル用の昆布とはいえども昆布は昆布、それも北海道の昆布である
昆布の良し悪しは分からないが、ニュージーランドに住む身にはありがたいものである。
ダシ用の昆布と食べる用の昆布と2種類。
ダシ用の昆布は食べてもいけるのだが、食べる用の昆布もこれまた美味い。
最初は佃煮にしてみたのだが、これで昆布巻きとか作ってもいいな。
たっぷりあるから魚を捌いて昆布締めにもできるぞ。
僕は常々、人類はもっと海藻を食べるべきだと思っている。
まず美味い、そして体に良い、そして地球に与えるインパクトも少ない。
農薬まみれで遺伝子を組み替えの不自然な野菜と、そこに生えている海の野菜の海藻。
比べる対象ではないのかもしれないが、どちらが健康にも環境にも良いかは明白だ。
日本では海藻は食文化の一つであり、昆布をはじめ、ワカメ、モズク、そういえばかんてんも海藻だったよな。
海藻を食べるということは、文明が生まれる以前からある狩猟採集生活に繋がっている。
生き物としての根源がそこにあるような気がするのだ。
ニュージーランドでは最近ワカメが繁殖しているようなので、春が来たらワカメを探しに出かけていこうと思っている。
その他にも僕はいろいろともらう事が多い。
近所に住む友達のナナちゃんはベーコンが出来たと言っては持ってきてくれる。
親友ブラウニーは自分で撃って捌いた鹿肉をくれる。
日本の会社からはスキーウェアーや手袋をもらったし、ガイドのお客さんからはチップをもらう。
サーモン、伊勢海老、アワビ、ホワイトベイト(白魚)その他もろもろ。
まあ自分でも人にあげることが多いわけであり、自分が作ったビールや石鹸、庭の野菜や卵などかなり気前良く人にあげる。
ちなみに僕のポリシーとしては、人に売らない。
「売ればいいじゃん?」と人に言われるが、売らない。
売らないと言ったら断固として売らない。
農業でも製造業でも何でもそうだが、物に値段を付けた瞬間に商業になる。
僕がやりたいのは商売ではなく生産だ。
そうやって人にこれでもかというほど物をあげ、人からは遠慮なく物をいただく。
それってある意味、物々交換じゃないの?と考える人は多いだろう。
自分でも漠然とそう思っていた。
考えが変わったのは、コテンラジオの経済の歴史という話だった。
文明が始まって貨幣や紙幣が生まれ、銀行が出来て株式会社ができて資本主義というものになっていく。
大まかな話はそういうものだが、それ以前は物々交換だった。
自分が採った肉と相手が作った野菜を交換すれば互いに助かる。
それが次第に皆が価値を認めている物、例えば手斧のような物が交換の材料に使われるようになった。
「物々交換は基本的に相手を信用していない状態の人間関係で行われるもので、実はそれ以前には人にあげるという状態だったんです」
コテンラジオのこの言葉が僕にとって衝撃的だった。
何か漠然と感じていたモヤモヤが見えたような気がした。
例えば友達と飲みに行き支払ってもらったとしよう、そしたら次の回は自分が払う。
これは互いに信用しているから成り立つ関係である。
同等の資産がありながら、常に相手が払ってくれるから自分は払わないとなったら、信頼関係は崩れる。
似たような話をタヒチへ旅をした時に聞いたことがある。
タヒチの人達は基本的に働かなくても生きていけて、貯金や貯蓄をあまりしない人達らしい。
仕事をして現金が入ると気前良くみんなにおごってパッと使ってしまう。
自分が働かない時には別の人におごってもらう。
基本的にお金を持っている人がその場で払う、そういうような暮らしを長いことやってきた。
やがて大陸から別の人達がやってきたが、その人達はおごってもらうが自分では支払わずにお金を貯めていった。
人々の信頼関係は崩れ、タヒチ人の中にもずる賢く自分は出さずに人からおごってもらうだけの人が出てきたと言う。
大陸から来た人達というのが誰とは書かないが、想像できるであろう。
信頼関係の無い相手であれば、物や金をあげるのではなく、その見返りを求める。
物々交換からの始まりはこういうものだったのだろう。
そして自分はこれだけ出しているのに相手はこれだけしか出さない、というような『損得勘定』も生まれる。
損得勘定が進化すれば「最小の出資で最大の利益を求める」という考えになるのは自然の理だ。
お得という言葉の根底にあるものは欲だ。
その欲望に歯止めがきかなくなれば、「自分さえよければいい」というエゴになる。
「自分さえよければいい」は「自分の家族さえよければいい」となり「自分が所属する社会さえよければいい」と進む。
エゴが進めば相手を倒してものを奪うことも当たり前となる。
その最終形は全面戦争なんだろうな。
一番極端な例をあげたが、パラレルワールドではそういう世界も存在して、滅亡が目前に迫っているのに奪い合いを止めない人達がいる。
人類はそこまで愚かではなく(と思いたい)ほどほどのところでバランスをとりながらやっている。
相手のことを思いつつ経済活動をする、買い手良し作り手良し売り手良し、三方良しの近江商人のような考えもある。
物には正当な値段というものがあり、安すぎてもダメだし高すぎてもダメだ。
不当に安い物の影には泣いている人達がいたり、粗悪な物が混ざっていたりするだろう。
極端に高すぎたら買う人はいなくなり商売自体が成り立たない。
やはりここでもバランスというものが大切なのだ。
なんか経済の話になってしまったが、物々交換以前では人にあげるという時代があったのだという話に戻る。
僕が思うに人にあげるというより、皆で分け合うという感覚なのだろう。
パッと浮かんだイメージはアメリカンインディアンかな。
そこに所有権は無く、必要なものを必要なだけ大地からいただく。そんな考えが好きだ。
今の世の中では当然、所有権というものが存在する。
本来は地球のものであるはずの土地に値段が付き、人間のものとして売り買いされている。
これを良いとか悪いとかいう話にすると別な方向に行ってしまうが、そうではなく、今現在そういう社会なのだ。
その社会の中で、僕は人にあげる。
何故なら美味しいと喜ぶ顔が見たいから、子供に健康で美味しい物を食べさせるのは大人の役目だから。
見返りを求めることなく、純粋な気持ちで人にあげる。
家族の間では見返りは求めないだろう?
ぼくにとって周りの友達は家族のようなものだ。
でも家族の間で、奪い合うようなケースも存在するんだろうな。
そしてありとあらゆる物を遠慮なく貰う。
貰う時には「ありがとう」と言ってもらう。
ありがとうと言い合う人間関係では諍いは起こらない。
Give & Takeの関係ではなく Give & Giveの関係を持ち続けたいものである。