また炎上しそうなネタを持ってきたものである。
何もそんなネタでやることないじゃん、もっと穏便にさあ、世間に波風立てずひっそりと暮らしていけないものかねえ。
という声が聞こえてきそうだが、思ってしまったことは仕方がない。
思いつつも声を上げずに大きな物に巻かれるのはロックじゃない。
ロックじゃない人生はダサい(死語)じゃないか。
ロックバンドがライブコンサートで観客にマスクさせるのと同じぐらいダサい。
権力をかさに威張り散らすヤツ共に抵抗し、自分の信念を貫くのがロックだと勝手に定義している。
そう思うと死んだ親父はロックだったなあ。
会社とズブズブの関係の労働組合に嫌気がさして、第二労働組合を作りクビになり、それは不当解雇だと裁判を起こし勝利した。
裁判までの期間は解雇という状態だったので、建築関係のアルバイトをして家族を養っていた。
裁判で勝ったからといって当然出世なぞできるわけでなく、最後まで一人のヒラ労働者として働いた。
考えてみればそれってもろプロレタリアじゃん。
あと、今まで書かなかったが父親は一昨年の12月に死んだ。
最後まで痛みが無かったのが救いで、眠るように逝き、大往生だったので良かったねというのが本音だ。
晩年は闘う相手がいなくなったのがつまらなかったようで、孫が大人になって働き始めてからも「労働条件が悪かったら俺が出て闘ってやる」と言っていた。
とことん資本家や権力者と闘争をしたかったんだろう。
ロックだぜ。
ロックな親父の話を書くのではない。
ロックな生き方をしたい自分が気に入らないのが、今流行りのSDGsである。
何が気に入らないかというと、正論を振りかざして自分達の思いのままに社会を持って行こうとする構造が気に入らない。
この正論というのが厄介なもので、正論は正しい論であるから常に正しい。
それを元に議論をしても絶対に勝てない。
これはSDGsだけの話でなく、巷にありふれていることだ。
そこに見えるのは正論というものを隠れ蓑にしている強者の支配だ。
社会的弱者、少数派などの事を救うような事を言いながら、違うことをやっている。
これが感覚で何となく分かってしまうので、今回ロックに書いているのだ。
SDGsという言葉も手を替え品を替えで、今まではエコとかロハスとかそんなような言葉で流行らされてきた。
内容を見てみると、貧困をなくそうとか、自然を守ろうとか、不平等をなくそうとか、パッと見はもっともな事を言っている。
だからこれに反対する意見を言えば、社会の敵であり悪者にされてしまう。
それが正論を振りかざす、という構造、いやそれはむしろ暴力とも言える。
プロパガンダと言うものを勉強して、面白い話を聞いた。
戦争が始まる時に権力者が言う事は皆同じなんだそうだ。
「自分達は戦争を望んでいない。だがここで戦わないと敵にやられてしまうので仕方なく戦うのだ」
これは洋の東西を問わず、昔から同じ事を言っている。
要は自分は正しく相手が間違っている、だから戦う。
そうやって自己正当化しているわけだ。
これは国の戦争でも内戦でも、些細なことでは家庭内の離婚調停でも同じことだ。
そうやって自己正当化するには、何かしら人が満足する理由が必要だ。
第二次世界大戦でヒットラーがやったことは、国民の感情を煽り自分達が窮屈な想いをしているのは相手が悪いからだという名目で戦争に突っ込んでいった。
このままでは自分達は奴隷になる、というような人間の恐怖心をあおったのだ。
人間は恐怖にかられると冷静な判断ができなくなる。
これも直近の3年間の社会の動きを見ても分かるだろう。
第一次世界大戦で負け火種がくすぶっていたドイツでは、「悪いのはイギリスフランスなどの敵国」が正論となってしまったのだ。
もちろんまともな人もいたが、そこは数の大小で少数意見は大衆によって蹂躙された。
社会が混乱している時の民主主義とはこういうものだ。
日本だって同じことだ、『戦争に行くのは立派なこと』が正論となり、生きて帰って来いというごく当たり前の感情を口に出せば非国民として社会からはじかれた。
誤解のないように書いておくが、戦争に行って死んだ英霊をくさす気持ちは全くない。
これはどの国の人もそうだが、全て自分なりの正義のために戦い死んでいった。
あくまで社会の構造の話であるので勘違いしないように。
こうやって今だから冷静にその当時の人たちのことが見えるが、時代の渦の中にいたら全体像は見えにくい。
今も全く同じだ。
話を元に戻すと、正論や正義というものは、その時代背景や社会情勢によって変わるものということを言いたいのである。
そしてそれを知りつつ利用している人もいる。
知らないで使っている人もいる。
そういうものだ。
もう一つの言葉でもあるLGBTでも賛否両論はある。
でもここでもやはり同じように正論を振りかざし、巧みに論点をずらし自分達の望む方に舵取りをしたいという動きが見える。
男女の差別をなくそう。性別において少数派の人の権利を守ろう。
全くもってグウの音もでないほどの正論である。
これに対し少しでも異論を唱えようものなら、お前みたいなのがいるから社会は良くならないんだ、と非国民の扱いを受ける。
正論を振りかざす暴力というのは今も全然変わらない。
そして当事者が望んでもいないような物を作りシステムを作った結果、新たな問題が生まれた。
どこぞの国では自分は女だと言い張る男を女子刑務所に入れたらレイプをしまくった。
心は女だという男の世界では勝てない筋肉ムキムキのスポーツ選手が、女の大会に出て優勝賞金をかっさらっていった。
女風呂に心は女だと言い張るオヤジが入っていく。
結局のところ、女の人の人権は蹂躙され新たな被害者が生まれる。
自己申告制というのが大きな問題の一つである。
ウソを言っているやつはどうなる?
そういう奴が絶えないから、本当のところの少数派の人たちも疑いの目で見られることになるだろう。
だが人間は新し物好きで流行に弱く、とんちんかんな事をやって自分は仕事をした気になっている。
差別と区別は別物である。
そこを混同してはいけない。
男には男の、女には女の、トランスジェンダーには彼らなりの役目がある。
そして自己申告制で新しく出たのがトランスジェンダーならぬトランスエイジというもの。
実年齢は39だが心の年齢は28だと。
だから自分は年相応の事ができない、というのが当人の言い分だ。
それを認めてしまったら社会は崩壊する。
いやはや、おかしな世の中になったものだ。
為政者が制度を変えてみても、社会というものが追いついていなかったら機能しない。
逆に新たな問題が生まれる。
社会的弱者を守るという正義の味方のような目標を打ち出しても、車椅子の人はいつまでたっても満員のエレベーターに乗れないし、盲人用の点字ブロックの上には今日も自転車が放置されている。
人権というものが拡大されている一方で、別の人の人権は守られていない。
人権とは何かを考える上で、どこまでという線引きは必ず付随する問題である。
そしてこれは社会、経済、暮らし、生き方、などなどいくつもの要素と絡み合う問題なので、そこだけを見ても解決しない。
どうすればいいのかは分からない。
分からないが、なんとなく気に入らないぜ。
最後に死ぬまでロックだったキヨシローの唄の一節を借りて文を締める。
あー 世の中が悪くなっていく
もう誰にも止められないのか
何もそんなネタでやることないじゃん、もっと穏便にさあ、世間に波風立てずひっそりと暮らしていけないものかねえ。
という声が聞こえてきそうだが、思ってしまったことは仕方がない。
思いつつも声を上げずに大きな物に巻かれるのはロックじゃない。
ロックじゃない人生はダサい(死語)じゃないか。
ロックバンドがライブコンサートで観客にマスクさせるのと同じぐらいダサい。
権力をかさに威張り散らすヤツ共に抵抗し、自分の信念を貫くのがロックだと勝手に定義している。
そう思うと死んだ親父はロックだったなあ。
会社とズブズブの関係の労働組合に嫌気がさして、第二労働組合を作りクビになり、それは不当解雇だと裁判を起こし勝利した。
裁判までの期間は解雇という状態だったので、建築関係のアルバイトをして家族を養っていた。
裁判で勝ったからといって当然出世なぞできるわけでなく、最後まで一人のヒラ労働者として働いた。
考えてみればそれってもろプロレタリアじゃん。
あと、今まで書かなかったが父親は一昨年の12月に死んだ。
最後まで痛みが無かったのが救いで、眠るように逝き、大往生だったので良かったねというのが本音だ。
晩年は闘う相手がいなくなったのがつまらなかったようで、孫が大人になって働き始めてからも「労働条件が悪かったら俺が出て闘ってやる」と言っていた。
とことん資本家や権力者と闘争をしたかったんだろう。
ロックだぜ。
ロックな親父の話を書くのではない。
ロックな生き方をしたい自分が気に入らないのが、今流行りのSDGsである。
何が気に入らないかというと、正論を振りかざして自分達の思いのままに社会を持って行こうとする構造が気に入らない。
この正論というのが厄介なもので、正論は正しい論であるから常に正しい。
それを元に議論をしても絶対に勝てない。
これはSDGsだけの話でなく、巷にありふれていることだ。
そこに見えるのは正論というものを隠れ蓑にしている強者の支配だ。
社会的弱者、少数派などの事を救うような事を言いながら、違うことをやっている。
これが感覚で何となく分かってしまうので、今回ロックに書いているのだ。
SDGsという言葉も手を替え品を替えで、今まではエコとかロハスとかそんなような言葉で流行らされてきた。
内容を見てみると、貧困をなくそうとか、自然を守ろうとか、不平等をなくそうとか、パッと見はもっともな事を言っている。
だからこれに反対する意見を言えば、社会の敵であり悪者にされてしまう。
それが正論を振りかざす、という構造、いやそれはむしろ暴力とも言える。
プロパガンダと言うものを勉強して、面白い話を聞いた。
戦争が始まる時に権力者が言う事は皆同じなんだそうだ。
「自分達は戦争を望んでいない。だがここで戦わないと敵にやられてしまうので仕方なく戦うのだ」
これは洋の東西を問わず、昔から同じ事を言っている。
要は自分は正しく相手が間違っている、だから戦う。
そうやって自己正当化しているわけだ。
これは国の戦争でも内戦でも、些細なことでは家庭内の離婚調停でも同じことだ。
そうやって自己正当化するには、何かしら人が満足する理由が必要だ。
第二次世界大戦でヒットラーがやったことは、国民の感情を煽り自分達が窮屈な想いをしているのは相手が悪いからだという名目で戦争に突っ込んでいった。
このままでは自分達は奴隷になる、というような人間の恐怖心をあおったのだ。
人間は恐怖にかられると冷静な判断ができなくなる。
これも直近の3年間の社会の動きを見ても分かるだろう。
第一次世界大戦で負け火種がくすぶっていたドイツでは、「悪いのはイギリスフランスなどの敵国」が正論となってしまったのだ。
もちろんまともな人もいたが、そこは数の大小で少数意見は大衆によって蹂躙された。
社会が混乱している時の民主主義とはこういうものだ。
日本だって同じことだ、『戦争に行くのは立派なこと』が正論となり、生きて帰って来いというごく当たり前の感情を口に出せば非国民として社会からはじかれた。
誤解のないように書いておくが、戦争に行って死んだ英霊をくさす気持ちは全くない。
これはどの国の人もそうだが、全て自分なりの正義のために戦い死んでいった。
あくまで社会の構造の話であるので勘違いしないように。
こうやって今だから冷静にその当時の人たちのことが見えるが、時代の渦の中にいたら全体像は見えにくい。
今も全く同じだ。
話を元に戻すと、正論や正義というものは、その時代背景や社会情勢によって変わるものということを言いたいのである。
そしてそれを知りつつ利用している人もいる。
知らないで使っている人もいる。
そういうものだ。
もう一つの言葉でもあるLGBTでも賛否両論はある。
でもここでもやはり同じように正論を振りかざし、巧みに論点をずらし自分達の望む方に舵取りをしたいという動きが見える。
男女の差別をなくそう。性別において少数派の人の権利を守ろう。
全くもってグウの音もでないほどの正論である。
これに対し少しでも異論を唱えようものなら、お前みたいなのがいるから社会は良くならないんだ、と非国民の扱いを受ける。
正論を振りかざす暴力というのは今も全然変わらない。
そして当事者が望んでもいないような物を作りシステムを作った結果、新たな問題が生まれた。
どこぞの国では自分は女だと言い張る男を女子刑務所に入れたらレイプをしまくった。
心は女だという男の世界では勝てない筋肉ムキムキのスポーツ選手が、女の大会に出て優勝賞金をかっさらっていった。
女風呂に心は女だと言い張るオヤジが入っていく。
結局のところ、女の人の人権は蹂躙され新たな被害者が生まれる。
自己申告制というのが大きな問題の一つである。
ウソを言っているやつはどうなる?
そういう奴が絶えないから、本当のところの少数派の人たちも疑いの目で見られることになるだろう。
だが人間は新し物好きで流行に弱く、とんちんかんな事をやって自分は仕事をした気になっている。
差別と区別は別物である。
そこを混同してはいけない。
男には男の、女には女の、トランスジェンダーには彼らなりの役目がある。
そして自己申告制で新しく出たのがトランスジェンダーならぬトランスエイジというもの。
実年齢は39だが心の年齢は28だと。
だから自分は年相応の事ができない、というのが当人の言い分だ。
それを認めてしまったら社会は崩壊する。
いやはや、おかしな世の中になったものだ。
為政者が制度を変えてみても、社会というものが追いついていなかったら機能しない。
逆に新たな問題が生まれる。
社会的弱者を守るという正義の味方のような目標を打ち出しても、車椅子の人はいつまでたっても満員のエレベーターに乗れないし、盲人用の点字ブロックの上には今日も自転車が放置されている。
人権というものが拡大されている一方で、別の人の人権は守られていない。
人権とは何かを考える上で、どこまでという線引きは必ず付随する問題である。
そしてこれは社会、経済、暮らし、生き方、などなどいくつもの要素と絡み合う問題なので、そこだけを見ても解決しない。
どうすればいいのかは分からない。
分からないが、なんとなく気に入らないぜ。
最後に死ぬまでロックだったキヨシローの唄の一節を借りて文を締める。
あー 世の中が悪くなっていく
もう誰にも止められないのか