彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

紫式部の見た近江(1)

2024年04月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 長徳2年(996)1月28日、紫式部の父・藤原為時は越前守に任官された。この時代は「◯◯守」などの官職を得たならばその国の国府に一家で住んで政務を執ることとなる。為時は越前守任官の3日前に小国である淡路守を命ぜられていて本来ならば淡路島に向かう筈だった。この決定を覆し大国である越前守を任じたのは藤原道長である。道長は紫式部が『源氏物語』を執筆する前から為時との繋がりを持っていたことが伺えるのである。

 さて為時の越前行には紫式部も同行している、結婚適齢期が14歳くらいであった時代に24歳とも27歳とも伝えられている紫式部がなぜ未婚であったのかは不明だが、為時の越前守任官と紫式部の未婚という偶然から私たちは紫式部が旅をした近江と道中の心情を垣間見ることができるのである。
 紫式部の近江紀行はのちに自身が撰んだ家集である『紫式部集』に収められた和歌においてのみ記されていてこのうちの六首が近江の歌だとされている。この和歌を鑑賞し、多少の空想を交えながら紫式部の旅に同行してみよう。なお底本は岩波文庫版『紫式部集』南波浩校註とするが、多くの研究や解釈がなされているため以降の話は諸説の中の一つであることをご了承いただきたい。
 1月28日に越前守へ任官された藤原為時だったが、往路に紫式部が残した和歌の季語から京を出発したのは夏頃であったと考えられている。当時の北陸への行程は京から陸路で逢坂の関を越えて打出浜で船に乗り琵琶湖を北上して塩津港で上陸する航路か琵琶湖西岸を進む陸路、ともに塩津から深坂峠を越えて敦賀に出ていた。為時一行は航路を選んだと考えられているため、京を出発し牛車に揺られ大津に到着。大津で宿泊し天候の良い日に打出浜から船に乗ったのであろう。夏の湖上に吹く風の心地良さに心躍りながらも住み慣れた京から離れる寂しさも沸き上がっていた。船は三尾が崎(高島市安曇川町もしくは白髭神社付近)に到着。「近江の湖にて、三尾が崎といふところに、網引くを見て」との詞書のあとに

 三尾の海に 網引民の 手間もなく 立居につけて 都恋しも

 との和歌を記している。直訳すれば、「網を引く漁師たちが手を休める暇もなく働き続けている姿を見て都が恋しくなった」となるであろうか? 無位無官の貴族の娘として忙しく動き回っていた生活から、のんびりと船に乗って風景がだんだんさびれていく様子を感じながら、越前国府に向かう道程の半分も進まないうちから都を懐かしく思っているのは、これから起こる未知の生活への不安に襲われている女性の心情を真っ直ぐに表しているが、このあとの旅も紫式部らしさが詠まれるのである。


紫式部歌碑(高島市 白髭神社境内)
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揺れる近江(6)

2024年03月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 平安時代前期の群発地震が落ち着いてから一世紀弱、日本では災害史に特筆すべき出来事は発生しなかった。一方で政治の世界では藤原北家が確実に地位を高めつつある摂関政治の創成期とも重なっている。
 政治史において円融天皇の許で藤原兼道と兼家(藤原道長の父)が兄弟で激しい権力争いを行っていた天延4年6月18日(976年7月17日)申刻(午後4時頃)、京都が激しく揺れた。
 京都の被害として『日本紀略』には、雷のような轟音が大地に響き八省院(大内裏の政庁)・豊楽院(内裏饗宴施設)・東寺・西寺・極楽寺・清水寺・円覚寺が顛倒と記録されている。6月18日が観音様の縁日であったため十一面観音像を安置している清水寺では多くの参詣者が訪れていたため倒壊した本堂に巻き込まれた僧侶や民衆の50余名が圧死した。また『扶桑略記』には大津市辺りの被害も記録されていて近江国庁の建物30余棟倒壊、近江国分寺大門が崩れ二王像破損、崇福寺の法華堂・時守堂が谷底に落ち鐘堂なども被害に遭った。当時は大伽藍として知られていた関寺(現・長安寺)の大仏も破損し腰上が全てなくなったと記している。『日本紀略』『扶桑略記』ともに今稿で紹介している地震から二世紀のちに他の史料を抜粋して編纂された書物であるため信ぴょう性を疑問視される部分もあり地震被害についても過大解釈されているとの説もあるが、近江国庁などの発掘調査で地震被害の痕跡を確認できるため規模の大きい内陸地震が京都や大津を襲ったことは間違いなく現在の滋賀県と京都府の県境を震源とする大規模な地震であったと考えられている。また近江地震史にとっては初めて被害状況が記された地震となるのだ。地震の発生の翌日14回の余震が記録され7月23日まで揺れていて、円融天皇は7月22日に元号を「貞元」に改元。余談ではあるが地震の2年後に藤原兼家の次女詮子が円融天皇に入内している。

 この地震で倒壊した関寺はこののち源信(恵心僧都・横川僧都『往生要集』著者)の弟子・延鏡が仏師康尚らの協力を得て約50年後に再興される。再興事業の際、清水寺から役牛が寄進されたのだがいつの頃からか一頭の牛が迦葉仏(釈迦仏の直前に出現した過去七仏の六番目の仏)の化現であるとの夢告が噂となり、人々は牛との結縁を求めて作業現場を訪れるようになる、この中には藤原道長・倫子夫妻も含まれている。長徳2年(996)紫式部は父・藤原為時の越前守任官に伴って越前国(福井県東部)に下向する。越前への往復については次稿で触れるが、この時期と関寺再興事業が重なっている。為時一行は都を出て逢坂の関を越え打出浜から船に乗り琵琶湖を渡ったと伝えらえていて、文化人である為時や紫式部が関寺を訪れ霊牛と縁を結んだ可能性があるのかもしれない。


関寺の霊牛塔(大津市逢坂二丁目 長安寺)
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揺れる近江(5)

2024年02月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 嵯峨・淳和天皇を失意のどん底に落とした日本各地の大災害は両天皇の御代で終焉を迎えたわけではない。皇位を甥・仁明天皇に譲り、自らの薄葬まで指示して為政者としての不徳の罪を償おうとした淳和上皇崩御の翌年には信濃国(長野県)と北伊豆でも大地震が発生している。仁明天皇も「神霊の咎は悪政によるもので恥じ入る」との詔を出すことになる。
 この頃から地震の揺れ以上に政局も揺れ始め、他氏排斥を計画的に行い政局の波を乗り越えた藤原氏が台頭するようになる。嘉祥3年(850)、仁明天皇崩御。藤原北家・藤原良房の妹が生んだ文徳天皇が即位しのちに(次の清和天皇の御代)良房が皇族以外で初めての摂政に任じられたことで藤原北家が朝廷の要職を独占する摂関政治の時代となる。
 文徳天皇の御代は東北三陸地震発生。三陸では短いサイクルで大地震が発生するようになり16年後(貞観11年)の貞観三陸地震では沖合で発生したM8を超える揺れにより沿岸を大津波が襲ったと伝えられていて東日本大震災発生後に注目された。貞観三陸地震の前年には播磨国(兵庫県西部)、7年前には越中国(富山県)辺りでも巨大地震が発生していて、阪神淡路大震災や新潟中越地震・能登半島地震と重なってしまうのは考えすぎであろうか?

 時間が進みすぎてしまったので、文徳天皇即位の頃に話を戻す。即位から5年後、京都周辺で群発地震と疫病が猛威を振るい、地震の影響で東大寺大仏の仏頭が落ちる。3年後文徳天皇崩御、良房の外孫である清和天皇が即位。貞観6年(864)富士山が噴火して2年以上活動する。
 元慶2年(878)関東地方を直下型地震が襲い5~6日ほど群発した揺れにより地面は陥没し倒壊家屋・死傷者とも数が多すぎて記しきれなかったと伝えられている。2年後は出雲国(島根県)も大地震に襲われ余震が8日間続いている。
 そして仁和3年7月30日申刻(887年8月26日午後4時頃)平安時代前期の象徴とも言える群発地震の最後になる仁和地震発生。発生終日前から京都ではたびたび地震が観測されていて建物を倒壊させる規模の揺れもあった。仁和地震はM8クラスとされていて、当日の記録では数刻に渡って日本全国が揺れたような記録が見受けられる。特に酷かったのは摂津国(大阪府北部)で大津波が寄せた。津波は讃岐国(香川県)でも記録が残っている。これらの記録から仁和地震は東海・東南海・南海連動型地震であったのではないかと推測されている。

 こうして818年から始まった災害は約70年間日本を苦しめ続けた。この時期と現在の類似性を指摘する意見を尊重するならば、1990年代から始まる災害はまだ終焉が見えないのかもしれない。


群発地震が起こると富士山が噴火するかも?(2022年1月撮影)
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揺れる近江(4)

2024年01月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 令和6年(2024)元日の夕方に石川県を襲った令和6年能登半島地震は、滋賀県にも強い揺れをもたらす衝撃的な出来事となった。本震だけではなく余震も油断ならず被災地から伝えられてくる惨状に心が痛くなる。一日でも早い終息と復興を願う。
 日本史の中で特に地震被害が酷かったのは九世紀後半と言われているが、その頃と同じ程度の巨大地震が発生しているのが現在の日本である。このことから専門家のなかには「千年に一度の地震活動期に入ったのではないか?」との推測も出始めている。本来ならば近江に関わる地震を中心に記しているが、この時期の地震は全国規模で俯瞰したいと思う。
 延暦13年(794)平安京遷都。約四百年続く平安時代の始まりである。この四半世紀後の弘仁2年(818)夏、関東に被害を及ぼした大地震が発生。ここから日本列島は特筆すべき災害期へと突入する。このとき帝位についていた嵯峨天皇は諸国に使者を派遣して被害状況を把握するとともに被災者に援助物資を配ることを命じている。これと同時に「朕は才能もないのに帝位に即いた。このため民をいつくしむ心は忘れたことがないが、徳が及ばずにこのような大災害を招いてしまった」と自らの不徳を嘆き「現地の役人が被害を調査し住居や仕事を失った者には今年の租調(税)を免除し建物再建を助け、飢えや野宿暮らしを強いられることがないようにせよ。また死者は速やかに埋葬し民には朕の想いに沿うように慈しみを与えよ」との詔を交付している。嵯峨天皇はこののちも地震についての詔を交付しているがそのなかでは前稿で紹介した紫香楽宮で聖武天皇が被災した地震にも触れ「過去の異変を忘れてはならず、教訓として活かせないほど昔の話でもない(75年前)」とも記している。

 このように嵯峨天皇は関東での大地震を自らの不徳として深く悩み、その分だけ被災者に慈しみを与え災害復興に尽力した、そして5年後に弟・淳和天皇に皇位を譲って上皇となるが、こののちは京都での地震が頻繁に発生するようになり天長4年7月12日(828年8月11日)京都でM7クラスとも推測される大地震が発生し多くの建物が倒壊するとともに長い余震(7月は毎日、翌年6月まで続く)に苦しむこととなってしまう。淳和天皇は兄と同じ悩みを抱えることとなるが震源地が畿内であったためにその苦しさはもっと深かったのではないだろうか? 2年後には追討ちをかけるように出羽国(山形県)でも大地震が発生、兄と同じように「出羽の地震は天の咎であり朕の不徳である」と自らを責める詔を交付して税の免除や民衆救済、災害復興を命じた。この年末には京都の内裏に記録に残る最初の「モノノケ」が現れ、天長9年(832)三宅島噴火。淳和天皇は失意のうちに甥・仁明天皇に皇位を譲り、崩御の際には自らの意思で火葬と歴代天皇で唯一の散骨による薄葬を命じている。


淳和天皇火葬塚(京都府向日市)
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揺れる近江(3)

2023年12月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 天智天皇2年(663年)、百済救援のために朝鮮半島に出兵した倭国(日本)は、唐・新羅連合軍との「白村江の戦い」で歴史的大敗を経験した。
 この敗戦に驚いた天智天皇は都を内陸部の大津へと遷都させ九州北部には水城と呼ばれる巨大な防御壁を築き唐や新羅が日本へ攻め込んできた場合の備えとした。同時に連絡網の整備も急速に進み、全国の情報が都に伝わるようになり地方の記録が中央政府に残るようになる。
 天智天皇崩御後に壬申の乱を経て即位した天武天皇にも連絡網は引き継がれ全国の災害が後世に伝わるようになった。
 天武天皇7年12月27日(679年2月13日)筑紫国(福岡県)で、鳥の異常行動が目撃されその月のうちに大地震が発生。地面が割け丘も崩れ地滑りを起こした。丘の上に建つ家が地表ごと滑ったために無傷で住民は夜が明けてから異変に気付いたという逸話まで残る。この「筑紫地震」が日本災害史における初めての地割れの記録である。また天武天皇13年10月14日(684年11月29日)午後10時頃に発生した大地震では伊予国(愛媛県)の道後温泉が枯れ、土佐国(高知県)の10万平米近い平地が海に沈み翌月に大津波が土佐を襲っている。「白鳳南海地震」と呼ばれた記録に残る最初の南海トラフ地震である。筑紫地震と白鳳南海地震が近江に影響を及ぼしたとは考え難いが日本史にとっては重要な災害記録であった。

 白鳳南海地震から半世紀が過ぎた頃、政治史としては混迷の時代を迎えていた。天平6年4月7日(734年5月14日)に『続日本紀』が大地震の記録を残しているが、この頃は聖武天皇が平城京を飛び出してあちらこちらに遷都を繰り返していたのである。
 天平15年、聖武天皇は紫香楽宮(甲賀市信楽町)に大仏を鋳造するための「廬舎那仏造営の詔」を布告。翌年4月より紫香楽宮造営が始まり天平17年元日に遷都した。こうして紫香楽宮での政務が行われるようになるが同年4月に紫香楽宮周辺で火災が続出し下旬には美濃国(岐阜県)で三昼夜続く大きな地震が発生し国衙や寺院・家屋の倒壊が相次いだ。5月に入ると都でも毎日のように12日も地震が起こり「地震異常」とも書き残されている揺れでは、地面に亀裂が走りその割れ目から泉が沸くこともあった。
 地震は翌月からも続き年を跨いでも治まることはなかったため平城京に遷都。紫香楽宮に造営される予定で詔まで公布された廬舎那仏は平城京で鋳造されることとなり、現在も奈良の大仏として世界遺産に登録されている。

 当初の計画のまま造営されていたならば信楽の観光名所が大仏であったかもしれないとの夢も広がるが、都であり続けたならば焼き物文化は衰退していた筈であり信楽には大仏よりも価値ある個性が残ったと考えてもよいのではないだろうか。


紫香楽宮址(甲賀市信楽町)
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揺れる近江(2)

2023年11月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前稿で允恭天皇5年に初めて地震の記録が『日本書紀』に書かれていることを紹介した。しかしそれ以前に日本で地震が起こらなかったわけではない。日本神話で乱暴者として扱われる素戔嗚尊は災害や疫病を表していると考えられ、素戔嗚尊と戦った八岐大蛇こそが自然災害だったのではないか?との考えもあり、荒ぶる神々の記録は古い日本人が口伝した恐怖と考えることもできる。
 允恭天皇5年の地震以降も『日本書紀』に置いて地震発生については残されているが、実質的な被害を知ることができるのは推古天皇7年まで待たねばならない。この年の4月27日(599年5月26日)に「地動。舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神(句読点筆者)」とあり、地震により家屋が倒壊したため推古天皇が地震神を祀るように命じたことがわかる。地震の被害が尋常ではなかったのではないだろうか? このときに祀られたとされるのは「なゐの神」とされていて、三重県名張市に名居神社ではないかとされていて地震の恐怖を神に重ねる手法が神話から脈々と引き継がれている証ともいえる。

 ここから聖徳太子が活躍する時代を経て、太子の死により蘇我氏の独裁政治が始まる七世紀中期になると地震をはじめとする天変地異が多くなり、意図的に政治の乱れと自然災害を重ねたような悪意も感じざるを得ないが、皇極天皇元年(642)冬には地震と雨と雷が頻繁に発生し、季候が春の様に暖かくなった日もあり、翌年4月には近江で一寸(約3センチ)もある大きな雹が降った。
 こんな異常気象に劣らないような政治的混乱によって聖徳太子の息子・山背大兄王は蘇我入鹿に殺され、入鹿も中大兄皇子に暗殺される(乙巳の変)クーデターを経て大化の改新が行われるのである。
『日本書紀』に記された天変地異がすべて事実なのか、著者により盛られているのかを確認する術はないが一部の研究者によれば推古天皇以降の記録について信ぴょう性は高いと言われている。そうならば「自然の脅威と政治の乱れは無視できない関連性を持っているのではないか?」と考えたくなる。

 この頃までに記録された災害のほとんどは当時の都である大和盆地か難波辺りで起こったものであり、近江からの視点で考えるならば「奈良県や大阪府で記録に残る地震なら、滋賀県も揺れたに違いない」との想像を膨らませたものであることは否めない。しかし、天智天皇が白村江の戦いに敗れ大津京へ遷都したため、壬申の乱までの短い期間ではあるが大津中心の記録が残されることとなった。さいわいにもこの間に大きな災害は見られない。大津京は、日本史を変えるくらいの大乱に挟まれた時期でありながら自然災害史の視点では穏やかであった。その反面、壬申の乱ののちに即位した天武天皇は日本史上最も古くに記録される南海トラフ地震の報を受けることとなる。


名居神社(三重県名張市)
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揺れる近江(1)

2023年10月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本列島は世界有数の災害大国である。特に地震に関しては顕著である。そもそも日本列島は地殻変動によって形成された土地であり、例えば多賀町山間部で海洋生物の化石が発見されるのもその場所が昔は海であった証拠でもある。

 日本列島近郊には四つのプレートがあり、日本はユーラシアプレート・北米プレートにのっているが、すぐ東の太平洋には太平洋プレート・フィリピンプレートがあり、ユーラシア・北米プレートの下に潜り込んで行く。この境界部分に深い溝ができ「海溝」となっているが、ここではユーラシア・北米プレートの端も巻き込まれるように沈んで行き、やがて沈んだ境界部分が元に戻ろうとする反動が大地震の原因となる。これが南海トラフ地震の要因である。日本史における地震災害で規模と発生頻度が高いものは南海トラフ関連であることは間違いなく、現在でも大規模地震発生で一番警戒されているものが南海トラフであることは、確実に大地震が起こると周知されているからなのだ。

 しかし、日本には地震を起こす原因となる「断層」が縦横無尽に並んでいる。しかもまだ未発見の断層もあると言われているため、日本で地震が起らない安全な場所はないとされているが、せめて歴史からどの地域に地震が起こったことがあるのか? を知ることは防災や減災にも繋がるのかもしれない。今稿からは近江やその近郊の地震を見て行くことにする。
 まず滋賀県の象徴でもある琵琶湖の成り立ちから考えてゆく。定説では400万年前に琵琶湖の始まりとなる湖が今の三重県伊賀市で誕生した。古琵琶湖群と呼ばれる幾つかの湖や沼地のひとつである「大山田湖」と呼ばれる古湖の跡地にはゾウやワニの足跡が残る化石も発見されている。ここから甲賀市辺りを通り現在の場所まで移動したと考えられていて滋賀県の地図を見ると、鈴鹿山脈と信楽高原に挟まれた地域で国道307号線に似た経路で移動の痕跡を残している。この移動によって滋賀県内には細かい断層が作られたとの説もある。

 さて、日本史上最初の地震の記録は『日本書紀』に記載されている。允恭天皇5年7月14日(416年8月23日)遠飛鳥宮(奈良県高市郡明日香村)で地震が発生した。このとき先帝・反正天皇の遺体を仮安置する「殯(もがり)」の最中であったため允恭天皇が使者に殯宮の様子を見に行かせると玉田宿禰という人物が殯の任を軽視し酒宴を開いていたことがわかり、宿禰を討ち取ったとされていて地震の原因が先帝の怒りであると思われていたことがうかがえる。この地震の規模はわからないが人々にとって大地の揺れは恐怖の対象であったようだ。近江での記録は残っていないが、先帝の怒りと解釈されたならば大きな地震であったはずであり、近江でも揺れを感じたのではないのだろうか?


大山田湖の足跡化石(伊賀市平田 せせらぎ運動公園内)
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関東大震災から百年(後編)

2023年09月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大正12年(1923)9月1日午前11時58分32秒、小田原沖を震源とする大地震によって関東各地で街が次々と瓦礫と化してゆく。

 当時の庶民の財産は少ない。行李に入るくらいか風呂敷で包める量、多くても大八車一台で足りるため人々は荷物を持ったまま安全な場所に避難したが、瓦礫のあちらこちらで火事が起こり台風接近によってもたらされた強風によって大火となった。「火事と喧嘩は江戸の華」との言葉があるように江戸を発展させた東京は私たちの想像以上に火事対策に優れた町であり、火事のときに避難所となる広大な火除け地も点在していた。庶民はこの火除け地に集まり油断したところに大火の火の粉が降り注ぎ持ち込んだ荷物が燃える、そこに風が吹き竜巻を発生、人々はなす術なく犠牲となった。関東大震災の死傷者は火災によって拡大したのだ。
 このような大災害ののちに起った二次被害や流言による悲劇などを調べて行くと目を覆いたくなる記述も数多く残されている。同時に短い時間ではあるがこの国の首都である東京が無政府状態であったことも無視できない。

 歴史と災害を見るとき災害発生時の政治的な背景を知る必要もある。関東大震災が起ったとき、日本の政治も大きな転換期だった。約2年前(大正10年11月4日)平民宰相と称された原敬が東京駅で刺殺される。後任に経済に強い高橋是清が首相となるが内閣をまとめきれず半年で総辞職、次に首相となるのが海軍大将の加藤友三郎だった。この段階で日本は大きな変化がある、政党政治から軍部主体の政治への移行だったが、運命はまだ世の中を狂わせる。震災発生の8日前(大正12年8月24日)加藤友三郎在職中に病死。4日後、山本権兵衛元首相が後任として選ばれた。

 そして震災発生。

 翌9月2日、第二次山本権兵衛内閣が発足する。つまり関東大震災が発生した瞬間は日本には政治の最高責任者が存在せず、しかもたった2年で3度も内閣が変わった異常ともいえる時期だったのだ。未曽有の事態から慌てて組閣された山本内閣ではあったが後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁として復興計画を立案したことは現在の東京に大きな利益となる。しかし第二次山本内閣も4か月で総辞職、次の清浦圭吾内閣も5か月で総辞職となり政治的混乱が復興に多少なりの影響を与えたことは否めない。それでも町は復興する。いざというときに政治が無力であることを民衆が一番知っているのかもしれない。

 さて、前稿で麹町の井伊家邸が大きな損害を受けて貴重な文化財が失われたことを記したが、同じ麹町でも与謝野晶子が住んでいた家は無事であったとの記述もあり自然災害の被害に明確な法則はない。敢えて言うならばすべての者が行政支援の遅れも含めた最悪の事態を想定した準備が必要であることを、関東大震災100年を振り返ることによって心に刻まなければならないのである。


原首相遭難現場、東京駅丸の内南口(2012年撮影)
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関東大震災から百年(前編)

2023年08月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大正12年(1923)9月1日、関東地方は大きく揺れた。令和5年は「関東大震災」からちょうど100年となる。これを契機に近江をメインとして日本災害史を見直してみたいと思う。

 まずは関東大震災について考えたい。震源地神奈川県相模湾北西沖80キロメートル(小田原付近)、M(マグニチュード)7・9と記録されているが、阪神淡路大震災のような都市直下型地震でもなく、M9・0を記録した東日本大地震の規模でもない。しかし死者行方不明者10万5千人以上、建物全壊11万戸弱、焼失21万戸以上とされ関東大震災は日本自然災害史上最大の被害者を出した悲劇となった。
 もちろんM7・9という規模は単発でも大きいが、小田原付近での本震発生から十数秒後には三浦半島でもM7クラスの余震が発生。関東大震災は強く縦揺れに突き上げたあと激しい横揺れが続き、そののちも同クラスの余震が起こっている。この強い揺れを現在の渋谷区で経験した牧野富太郎は自然を学ぶ者として「驚くよりも心ゆくまで味わった」と後に回顧しているが、もし富太郎が若い頃に住んでいた飯田橋辺りに居たならばそのような能天気ではいられなかっただろう。

 本震が発生したのは9月1日午前11時58分32秒、多くの人が昼食のために竈や七輪などで火を使っていた。また一説によると工場や医療機関で使用される薬品の落下による発火もあったらしい。そしてこの日の朝は石川県沖に台風があり北東に進んでいたため関東地方は風速10メートルの強風にも晒されていたのである。正午前の気が緩む時間にいきなり強い縦揺れから始まる地震に襲われ横に何度も揺れる。浅草では十二層建物であった凌雲閣の八階部分が折れた、当時最新の建物ですら倒壊するならば庶民宅が無事で済むはずがなく次々と瓦礫と化したのである。
 瓦礫のあちらこちらで昼食と薬品が原因となる火事が起こり台風接近によってもたらされた強風によって大火となったのだった。

 さて、この頃の井伊家当主は直弼の孫井伊直忠である。能楽書収集家として知られていた直忠は東京市麹町区(東京都千代田区)一番町に約三千坪の屋敷を構えていた。明治時代後期に刊行されていた『新撰東京名所図会』には伯爵井伊直憲邸として「有名なる邸第にて、家屋の壮麗なるは区内稀に見る所なり」と紹介されている。直忠は井伊家に伝来する品々の中で自らの眼鏡に適う至宝の数々を彦根から東京に運ばせ屋敷に置いていたが、関東大震災が発生し多くの物が火事に巻き込まれてしまう。その中で必死になって守り抜いた物が国宝『紙本金地著色風俗図(彦根屏風)』などの数点だった。他の名家でも多少の差はあるものの東京には至宝が集まっていて震災と共に永遠に失われたと考えるならば、彦根屏風がこの世に残ったことは日本美術史における奇跡とも言えるかもしれない。


関東大震災などの霊堂・東京都慰霊堂(東京都墨田区)
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牧野富太郎の妻(後編)

2023年07月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根にとって牧野富太郎の名前を見る機会は、彦根城天秤櫓近くにあるオオトックリイチゴの案内板ではないだろうか? 彦根の冊子などでは「牧野富太郎の妻・寿衛は彦根藩士小沢一政の娘であり」との文章で強い繋がりを強調しており、富太郎が彦根城で新種を発見することは妻の縁だったような印象があったが、小沢一政について指摘されてこなかった。

 そもそも、富太郎と寿衛は東京飯田橋で出会うため彦根は関わっていない。富太郎の自叙伝などで「寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい陸軍の営繕部に勤務していた」と書いていることを鵜呑みにしているだけなのである。この文章を本人が記しているために何の疑問も持たずにいたが、一政が陸軍に籍を置いていたと考えられる明治前期に陸軍には営繕部がない。また京都の芸者を身請けして広大な屋敷が構えられる身分の者に小沢一政という名前の者は出てこないのである。しかし富太郎自身は寿衛の墓に「牧野富太郎妻小澤一政ニ女」とも刻んでいる。つまり富太郎は小沢一政と言う人物の存在を確信しているが実は誤認識だった可能性が高いのかもしれない。
 この誤認識や他の情報を組合せて、一政を掘り下げてみた。まず関東大震災のあと、寿衛は富太郎の研究資料を守るために自宅を持つことを目標として待合を始める。店名は「いまむら」とした。由来は寿衛の実家の別姓であったとの記録がある。「いまむら」と言えば彦根藩士の重臣に今村姓が存在する。では明治前期の陸軍に今村という人物が居るのか? と調べると滋賀縣に関わりがある陸軍大尉「今村一政」という人物が実在した。明治8年1月に権大尉から陸軍大尉に任官された一政は半年後に罪を受け謹慎三日の処分を受けることはあったものの確実に足跡を残している。明治12年7月には陸軍会計軍に名を連ねていることから営繕部をイメージさせる部署にも籍を置いたこともわかる。明治13年3月からは宮内省判任官を兼任していた。しかし、明治13年10月25日で依願免出仕が陸軍・宮内省共に認められている。このときの今村一政の肩書は「陸軍歩兵大尉兼宮内省十一等出仕」であった。
 今村一政の記録を読む限りでは、牧野富太郎が記す小沢一政に近い人物ではないだろうか? 私は未確認で申し訳ないが、小沢姓については寿衛の母あいの再嫁先とも寿衛が養女になった為とも言われているらしい。

 富太郎と寿衛が戸籍上の夫婦関係になる前に二人の間に生まれた子どもは、彦根に住んでいた寿衛の従兄の戸籍に付籍されていたそうだが個人情報に絡むため調査には行き詰まっている。

 現状で、寿衛の父は彦根藩士今村氏の一族であろう陸軍大尉今村一政ではないか?と推測しているが確信が持てる資料は見ていない。寿衛の情報をお持ちの読者がいらっしゃいましたらぜひご連絡をいただきたいと願っている。


牧野寿衛の墓(東京都台東区 天王寺墓地)
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