彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

牧野富太郎の妻(中編)

2023年06月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 牧野富太郎の著書『植物記』で寿衛の実家について「東京飯田町の皇典講究所に後ちになった処がその邸宅で表は飯田町通り裏はお濠の土堤でその広い間をブッ通して占めていた」と記している。屋敷地はとても広大でその一部は現在は飯田橋六丁目通り(東西線飯田橋駅)近くの東京区政会館になっている。明治9年の地図を確認すると近くには陸軍省関連地もあり、一政が陸軍省で重要な地位にいた可能性を示唆している。一政は京都の芸者あいを身請けして屋敷に住まわしていることからも裕福な暮らしをしていたことは間違いない。そんな一政の次女であり末っ子として明治6年(1873)にあいが寿衛を生んだ。

 あいは、寿衛に踊りや唄を習わせていたようだが一政は陸軍を辞して程なくして亡くなったために家族は財産を失い屋敷も売却、一家は飯田橋で菓子屋を始め、成長した寿衛も店を手伝うようになったのだ。
 前稿でも記した通り、二人は出会い同棲を始めるがすぐに長女園子が誕生する。その直後、寿衛は夫や娘を置いて京都へ行き、兄の世話になっているようだが、東京に戻ってからのち寿衛の兄弟や母あいの記録が出ることがないため寿衛は実家との縁を切ったのではないか? と予測されている。唯一、彦根に住む従兄との交流があったようだ。
 こうして、富太郎も寿衛も裕福な家庭に育ちながら実家の援助が受けられない立場になっていた。しかし富太郎は小学校中退という学歴しか持っておらず関係が悪化していた松村任三が教授となっていた東大で助手として働くが給料は安かった。それでも高価な書籍購入や標本作成のための旅行を繰り返す。毎年のように子どもが生まれるため寿衛は借金取りとの交渉上手になって行ったらしい。また富太郎か地方で採取した植物を家族で協力して標本にもしていた。
 時々、富太郎を助ける人物も現れ、同郷の佐川出身の政治家田中光顕の紹介で岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が借金の肩代わりをしたこともある、貴重な標本を海外に売ることも考えたが国内で支援者が現れ回避している。
 貧しい生活の続くなか、牧野家は関東大震災を経験する。さいわい大きな被害はなかったが大切な資料や標本が焼ける可能性を恐れた寿衛は安全な自宅を所有することを目指すようになり、母の縁から待合を始める。
 この事業に成功し、翳りが見える前に他者に譲った資金で自然に囲まれた自宅を購入するのだがその直後に心労が祟った寿衛は55歳で亡くなってしまうのだった。

 富太郎は、新種の名前に私情を挟むことを嫌っていて、シーボルトが紫陽花に日本人妻の名前「オタクサ」と付けたことを非難していた。しかし寿衛が亡くなったときにこの意見を曲げてまで新たに見つけた植物に「スエコザサ」と命名した。そしてスエコザサは富太郎の墓の近くに植えられているのだ。


牧野富太郎の墓近くのスエコザサ(高知県高岡郡佐川町)撮影読者
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牧野富太郎の妻(前編)

2023年05月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 牧野富太郎は、裕福な商家「岸屋」に生まれ義祖母・浪子から25歳まで不自由がない生活を与えられ成長。子どもがそのまま大人になったような人物との印象を受ける。だからこそ植物に向き合える研究者になれたのだが、それを許してくれる理解者と、苛立ちを覚える敵という両極端な人間関係を形成することにもなる。
 この点で富太郎が特に迷惑をかけながら最大の理解者にならざるを得なくなってゆくのが家族である。19歳で初めて伊吹山を訪れた直後に佐川へ帰郷した富太郎は従妹の猶と結婚する。これは浪子の強い押しがあったようだが、結婚後も富太郎は岸屋を新妻や田中知之助に任せて、店の金を浪費しながら趣味に生きていて家族もそれを許している。

 前稿で紹介した東京行きの3年後、22歳になった富太郎は再び東京に向かい現在の飯田橋駅近くに下宿し定住した。そして東京大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授に認められて特別に理学部の資料を閲覧できる待遇を得たのである。東京に行ったまま帰らない富太郎は、猶に多額の金の無心をしているが長く続くものではなかった。
 この時期、富太郎の下宿を訪れ共に知識を確かめ合った人物の中には、既に『進化論』を日本に紹介し、のちに滋賀県水産試験場(彦根市平田町)でコアユの飼育に成功した石川千代松も含まれている。

 さて、岸屋が危機的状況に陥っているときも、富太郎は散財し東京で借金も重ねている。二度佐川に帰るがすぐに上京、26歳のときに東大(この頃は帝国大学に改名している)への通学途中に前を通っていた飯田橋の和菓子屋で働く幼さが残る15歳の少女に恋をした。小沢寿衛である。
 富太郎の著書『植物記』では「寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい陸軍の営繕部に勤務していた」と記している。富太郎は、11歳年下の少女に恋をしながらもなかなか想いを打ち明けられず知人に仲介してもらう形で二人は同棲を始めたらしい。
 すぐに長女・園子が誕生したが、富太郎にはまだ猶という妻がいたのである。現在に残っている猶と寿衛の手紙を読む限りではお互いの存在を知っていながら認め合っている(手紙参照:大原富枝『草を褥に 小説牧野富太郎』河出文庫)。手紙を読むと寿衛と富太郎は「牧ちゃん」「寿ちゃん」と呼び合うなど幼さが残り二人が勢いで同棲生活を始めたこともうかがえる。
 しかし、寿衛が第二子を妊娠しているときに、岸屋廃業手続きのため、富太郎は佐川へ戻る。足掛け3年を費やして佐川でも贅沢三昧をしながら廃業、猶と離婚し知之助と再婚させ後始末を任せたのちに東京に戻っているが、この直前に園子が四歳で亡くなる。牧野家は実家の支援がなくなり、少ない収入で生活を送ることになるが、富太郎と寿衛の間には13人の子どもが誕生し(7人が早逝)、寿衛が家計を支えて続けることとなるのだ。


牧野富太郎と交流があった石川千代松像(彦根市船町)
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牧野富太郎の伊吹山

2023年04月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2023年4月から連続テレビ小説『らんまん』が始まった。主人公のモデルは「日本の植物学の父」と評される牧野富太郎である。

 彦根藩では長野主膳や宇津木六之丞が処刑される彦根の獄が起こり、土佐藩では坂本龍馬が脱藩した文久2年(1862)に土佐国高岡郡佐川村(高知県高岡郡佐川町)で酒造業を営み苗字帯刀も許されていた商家「岸屋」の子として誕生したのが富太郎だった。経済的には恵まれていたが、3歳で父、5歳で母、6歳で祖父をコレラで失い祖父の後妻である(血縁関係の無い)祖母・浪子に大切に育てられることとなる。

 浪子は、富太郎の教育として本人が興味を持つこと全てに惜しみない協力を行った。植物研究に必要な書籍や顕微鏡を買い与え、第二回内国勧業博覧会見学や植物研究の専門家を訪ねる東京旅行の資金も出している。これが富太郎を一流の研究者に育てたと言っても過言ではない。この成果の一つともいえる出来事は明治14年(1881)に19歳の富太郎が東京訪問に行った帰路で初めて伊吹山に登ったことである。

 伊吹山はその地理的な条件だけではなく、織田信長が西洋から取り寄せた薬草園を作らせた歴史も加味されて独特の植物が自生している。伊吹山の自然は富太郎の興味を惹き、生涯で七度伊吹山を訪れることになるが、最初の登山から得た物は大量の荷物として佐川まで持ち帰っている。このときに富太郎が通ったルートは長浜から琵琶湖汽船で大津までの湖上旅であるが富太郎の目が琵琶湖には向かなかったことに私自身は不思議さを感じている。ちなみに富太郎は最初の伊吹山探訪でありながら珍しいスミレを発見、三年後の上京時に東京大学理科大学の村松任三助教授に見せたところ同大学の標本にも収蔵されていない物で外来種である「ヴィオラ・ミラビリス」であることが判明する。和名がなかったために「イブキスミレ」と命名されることとなる。興味を持ったことに対してある一定の成果を得ることは人生の大きな楽しみであり深みに嵌る原因にもなる。富太郎の青年期を調べてゆくとこれらの成果に彩られているのであるが、自らが発見した植物に新しい名が付くほどの成功体験はこの後に新種発見600種余、命名2500種以上、50万を超える標本作成の礎になったとも考えられる。

 しかし、植物学の成果とは反比例するように富太郎の家族は大きな負担を背負うことになる。富太郎が25歳のとき岸屋を切り盛りしていた浪子が亡くなり、こののち岸屋は浪子の孫で富太郎にとって従妹でもある最初の妻・猶(なお 伊吹山より佐川に戻ってすぐに結婚)と手代・井上和之助が差配するが富太郎の浪費で廃業に追い込まれる。また、猶との婚姻関係がありながら同棲を始めた二番目の妻・寿衛(すゑ)も苦労が絶えない人生を歩むのである。


伊吹山遠望(2022年1月下旬撮影)
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井伊家の名

2023年03月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根藩祖は井伊直政。これは誰もが認める史実である。では長く続いた江戸時代において最も重視された当主が直政であったのか? と問われると答えは難しい。

 大河ドラマ『おんな城主直虎』が放送されていた頃、ある研究者が著書の中で「井伊家は備中次郎を名乗ってきたために、直虎は次郎法師を名乗ったと言われているが、彦根藩主に備中守や次郎を名乗った者は居ないため、この話は信用できない」(筆者意訳)との旨を記している。しかしこれはあまりにも狭い考え方である。まず彦根藩井伊家は井伊直虎の子孫ではない。系図上は直虎の父・直盛の従弟である直親の子が直政であり、彦根藩井伊家は直親に注目している。それでも直親の幼名「亀之丞」や官職名「肥後守」を井伊家は継いでいない。なぜならば直政が徳川家康に仕官したときに平安時代から続く井伊谷を治めていた井伊家が滅びていたからである。家康に仕官した直政は自らの力で井伊家を大名にまで押し上げた。その直政が家康から拝領した名前が「万千代」であり官職名は「兵部少輔」であった。

 前稿で井伊直孝が幕府内で要職を得た遠因について記した。直孝は元老の任を全うし、これにより彦根藩は直政の嫡流である直継ではなく、庶流である直孝が担うこととなるが直政の名や官職名は直継の子孫が継承した。さらに直継の系譜は四代直朝が心の病で藩主の座から退き血流が断たれ、彦根藩から新しい当主を迎えたために実質的に直政の嫡流は断絶している。直孝の子孫は、井伊家庶流でありながら嫡流すら飲み込んだのだ。

 では、彦根藩で直孝の名や官職名はどうなったのであろうか? 直孝は「弁之介(助)」との名が知られているが、歴代彦根藩主の中でこの名を名乗った人物は井伊直亮のみである。直亮は直弼の兄であり大老も務めた人物ではあるが、他の彦根藩主とは違った特別な存在だった。それは直孝以降の彦根藩主の中で唯一母親が正室だったことである。他に弁之介を名乗った人物が直孝の嫡男で廃嫡となった直滋であったことを考えると、彦根藩では直孝の名前が継承される伝統は存在したが正室の子として誕生した男子がほとんど居なかったために堂々と名前を引継ぎ実際に藩主になった者が直亮の例しかなかったのだ。これに対して直孝の官職名である「掃部頭」は歴代彦根藩主が任官してゆき、位階としては従五位下である兵部少輔や掃部守よりも高い「左近衛中将」も直孝を含めた彦根藩主が任官されることがあった。また直政が豊臣秀吉から与えられた「侍従」は直継ではなく直孝に引継がれたために彦根藩主が称することとなる。

 私は直孝こそが彦根藩において最も重視された人物であったと確信している。その証拠に直亮が建立した井伊神社には、井伊家初代共保や藩祖直政と共に直孝も祀られているのだ。


井伊神社(彦根市古沢町)2021年3月下旬撮影
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井伊直孝と大老の家格

2023年02月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 天正18年(1590)2月11日、井伊直政の次男・井伊直孝が誕生した。母は印具徳右衛門の娘(阿古)。阿古は直政の正室東梅院(松平康親の娘・花)が実家から連れてきた侍女であったが、ほぼ同時期に直政の子を妊娠したことで花の怒りを買い実家に戻されたとの話が定説になっているが、『井伊家傳記』では「一年の間に両腹懐胎すれば一方が必ず危うい」という昔からの伝承に従って阿古を井伊家から出したとの話を記している。
 しかし、阿古が印具氏の出身であったのか? との謎もある。『寛政重修諸家譜』では直孝は駿河国(静岡県)藤枝で誕生したことになっているが、直孝自身は自らの生誕地を駿河国益津郡中里村(焼津市)であるとしてこの地の若宮八幡宮を再建、近くの村松五郎右衛門屋敷跡には井伊直孝産湯の井もある。また焼津市では、阿古は中里村近くの岡部宿で働いていた農家の娘だったとされている。私は農家の娘が村で直政の男子を生み、この報せを聞いた東梅院が旧臣である印具徳右衛門に母子の保護を命じたのではないか? と考えている。

 直孝はこののち、幼児らしかぬ勇敢さをみせて井伊家に迎えられることとなる。長々と直孝生誕を説明したがここで重要となるのは直孝の母は身分が高くなかったことである。
 井伊家は、徳川四天王の一人という武断派でありながら大老四家の一家に挙げられる文治派の政治家でもある。この様な大名は井伊家しか例がない(大老と同等の大政参与ならば榊原忠次の例はある)ため、井伊家の特異性を示す材料となっている。
 では、なぜ井伊家はそこまで重視されたのだろうか? 井伊直政と直孝親子の優れた能力が重視されたことは間違いないが身分についても考えなければならない。まず直政は一度滅びた家の子で徳川家康家臣団にとっては三河国人ではない中途採用であるため問題が起こればいつでも切り捨てることができる人材だった。しかし直政自身の努力により東梅院を徳川家康の養女として正室に迎えて使い捨てではない重臣となる。
 江戸時代の大名にとっては家を残すことが大切だとされている。一番困ることは当主の不祥事である。母親の身分も高い大名を政治に参加させて失脚したとき、大名家にとっては不祥事になってしまう。このため江戸初期には身分が低い人物の方が幕政に加わり易かった。井伊家にとっても、東梅院の子である直継が当主であったならば幕政に不参加だったかもしれない。直孝の母の身分が低く、諸事情で直継が安中藩主になっていたために直孝が幕府の要職に就いた。彦根藩内では直孝が幕政で不祥事を起こしたならば直継を迎える準備があったと考えて間違いないだろう。
 直孝の後を継いだ直澄の母も身分は高くない。そしてこの二人が共に大政参与を務めた前例こそが井伊家を大老の家格へと押し上げることに繋がるのだ。


井伊直孝産湯の井(焼津市)
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徳川家康と卯年

2023年01月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2023年の卯年が始まった。現在では十二種の動物をメインにした「十二支」ばかりが注目されているが、以前は古代中国からの思想である「十干」を加えた「干支」が重視されていた。十二と十の最小公倍数である六○で干支がひと回りするために、我々も60歳で生まれ変わるという思想が誕生し、満60歳(数え61歳)を「還暦」として祝うのである。これを踏まえると2023年の干支は「癸卯」になり、五行では「相生」と呼ばれ、順送りに相手を生み出す年とされている。そんな年に大河ドラマ『どうする家康』が始まった。

 徳川家康の幼少期をあまり描かずにいきなり桶狭間の戦いがメインに語られたことに賛否もあるようだ。しかし私が驚いたのは「寅の年、寅の日、寅の刻」生まれであることが伝説として伝えられていた家康が、実は卯年(癸卯)生まれであるという説を採用していたことである。
 家康が卯年生まれだったのではないか? という説は古くからあった。有名な話では、家康が征夷大将軍の宣下を受けたときに自らの年齢を61歳と記したことである。家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8年(1603)は卯年であり、寅年生まれであるならば家康の年齢は数えの62歳になるはずである。  
 当時の家康の実力ならば寅年で還暦でもある慶長7年に将軍宣下を受けることもできたであろう。なぜ慶長8年だったのか? その答えとして、実は家康が卯年生まれではなかったか? とされていたのだ。

 実際に家康はウサギを好んでいる。

 本誌では謡曲『竹生島』に絡む波乗り兎を小太郎さんの記事で紹介されることがあるのでご存じの読者様も多いと思う。その竹生島紋様を家康が羽織に使っていたことも知られている。また竹生島に残る大坂城極楽橋の遺構も家康の寄進による物であった。

 私たちは、ウサギは弱々しく可愛い動物だとイメージしているが、戦国時代には兜のデザインにも使われていた。大きな耳で情報を素早く聴き取り、高く跳ねて、早く走る。そして後ろには引かず常に前に向かって進むのがウサギだと信じられていた。また月の神の加護があるとも信じられていたのである。
 海を渡るウサギと言えば昔話の『因幡の白兎』を思い浮かべる方もいらっしゃるだろう。彦根市下稲葉町の稲葉神社には石灯に波乗り兎が刻まれていて、これを「稲葉の白兎」として昔話に批准する説もある。波乗り兎なのか? 昔話の舞台なのか? 卯年だからこそそんな歴史の浪漫に触れてみては如何だろうか?

 さて、癸卯の年に生まれた徳川家康は、癸卯の年に征夷大将軍の宣下を受けた。そして癸卯の年に大河ドラマとして一年中注目されることになる。徳川家康は「どうする」と問われ「どうしよう」と悩みながら令和の私たちになにを生み出してくれるのだろうか。


稲葉神社(彦根市下稲葉町)の波乗り兎
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彦根城総構え400年(13)

2022年12月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根市内で古くから紙業を営む正木屋商店で見つかった安政2年(1855)古文書を紹介したい。

  覚
 一 三人扶持
 一 大御紋上下 一具
 一 銀子    三枚 
        河原町
          猪助
 右者紙類渡世致し居、相応取続来候付、御国恩為冥加金弐百五拾両永上金并渡漉紙一本指上度旨願出候付、願之通申渡候、右様願出候儀ハ寄持之事二付、件之通年々御扶持方并為御褒美、右之御品被下置候間、存其旨可被申渡候、以上
卯十二月 庵原助右衛門印

 庵原の名前のあと、「在江戸」として木俣清左衛門・長野伊豆・新野左馬助・岡本半助・三浦内膳、「在京」として脇五右衛門・中野小三郎の名前が記され、町奉行衆以下八つの役職に宛てて書かれた旨が記されていた。この古文書は「御拝領 御証文 同白銀 三枚 安政三年辰正月 正木屋猪助」と書かれた箱に入っていたらしい。銀はすでに入っていなかったとのことではあったが、安政四年一月(孟春)に井伊直弼から吉田(御馬役吉田清太郎か?)という人物を通じて猪助に盃が渡されたと考えられる記録も出てきた。

 古文書の内容を少し読み解くならば、河原町に店を構える正木屋猪助が、彦根藩が領内を治めてくれている国恩に報いるため、二百五拾両お冥加金を毎年納めるという申出を行ったところ、そのことは少数の者が勝手に受け入れを決定できないので、(藩主の命で)家老衆が町奉行らの役職の者と協議する旨を記し、その際に猪助に対して三人扶持などの褒美を与えることも踏まえた形で伝えている。実質的には藩主の意向を家老たちが連名で伝達した事後確認であったと考えられ、卯(安政2年)12月にこの古文書の原本が庵原から出され翌3年1月に猪助に白銀などが渡され猪助がこの古文書である覚(写し)と箱を作成、その翌年(安政4年)に井伊直弼からの杯が贈られたと考えられる。
 この古文書を私に見せてくれた正村圭史郎氏によると、「正木屋は享保年間に開業し、明治維新のあと高宮宿から河原町に移転したと思っていたが、安政年間には現在の場所に店舗を構えていたことがわかった。また彦根城下では元禄年間に7店、安政年間に2店の紙業があり、安政年間の2店のうちの1店は正木屋であることも確実になり、もし元禄年間の1店が正木屋であったなら開業時期が早くなる可能性もある」とのことであった。

 元和8年(1622)の彦根城総構え完成から400年を迎えた2022年もそろそろ終わろうとしているが、まだまだ陽の目を見ない面白い史料が眠っている可能性は高いのだ。


正木屋猪助の古文書
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彦根城総構え400年(12)

2022年11月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本史においての貨幣の歴史は、近江朝で作成された無文銀銭、683年頃に鋳造された富本銭、その15年後の和同開珎などの鋳造が分かっているが、国内で大量に銭が使用されるのは中国からの輸入銭に頼ることとなる。特に平清盛や足利義満は銭を多く輸入した。

 戦国時代から安土桃山時代、西日本は貨幣経済が主流になっているが、関東より北では伊達領など特定の大名領以外では物々交換が行われていたが、豊臣秀吉の天下統一によって全国で貨幣が使用されるようになった。しかしその中でも統一した貨幣が使用された訳ではない。西日本では南蛮貿易が盛んで銀山も多かったため銀を中心とした銀本位制が採用されていて、金は大判の金貨が恩賞代わりに使われていた。逆に金山が多い関東を領していた徳川家康は小判を鋳造し東日本に金本位制を広げて行く。これが江戸時代に入っても継承され、日本は一つの統一国家でありながら江戸中心の「金(単位:両)」と大坂中心の「銀(単位:匁)」そして庶民が日常的に使用される「銭貨(単位:文)」の三種類の貨幣が同時に使用されていたのである(三貨制度)。この東西の金銀の交換を行っていたのが両替商であり両替の手数料が三割程度だったため三井などの両替商が豪商へと育ち財閥を築く基となる。江戸後期に田沼意次がこの三貨を統一しようとしたが田沼時代の終焉と共に失敗に終わっている。

 日本のみではなく世界においても貨幣は金でも銀でも銭でも貨幣そのものが額面通りの価値を持つ物質だった。この常識を打ち壊した象徴的な貨幣が紙札(紙幣)である。紙に印刷するだけで貨幣として通用する紙札制度を安定させるには発行元の信頼が高くないとならない。しかし江戸時代の日本では寺院や各藩によって紙札が発行されるという稀有な環境を生み出しているのだ。

 日本での紙札は室町時代に伊勢神宮の祈祷師が発行した山田羽書から始まると言われているが、確実に確認できるものは江戸初期のものとされている。その後、大坂商人が銀札(銀の価値を記した紙札)を使い始め、寛文元年(1661)に福井藩が紙札を発行するに至って「藩札」が誕生した。藩札は徐々に全国に広がるようになり各藩領内での通貨となって行く。場合によっては近隣藩でも使用できることもあった。

 彦根藩でも藩札は発行されている。領内では藩札の使用が推奨されていたとの話も耳にした。藩札は現在の地域通貨以上に価値があり流通していたと考えられる。彦根藩札をはじめとする藩札についての研究はまだ進んでいないため不明な点が多いが、城下町では現代の私たちが紙幣と小銭を使っているように藩札と銭貨が流通していた可能性もあるのだ。

また、藩札などは偽造防止のためデザイン性にも優れていて見ているだけでも楽しい物でもある。


左:彦根藩札 右:大徳院札(共に筆者蔵)
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彦根城総構え400年(11)

2022年10月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根藩領の町医者について前稿で紹介したが、彦根藩領出身の医者たちは日本医学史にも功績を残している。

まず挙げられるのは産科医の賀川玄悦である。日本史において大きな問題とも言える事項の一つに出産についての理解が低かったことである。資料などを読み込むと出産に対して用意される産室や産所の環境や衛生面について疑問を持たざるを得ない場面は多くある。そもそも日本では妻が出産したあとに「産褥の穢れ」として夫が数日間仕事を休むという習慣もあったのである。そんな中でも、江戸時代に入って妊娠を医療の対象と考えて研究される動きも盛んになってくる。賀川玄悦は元禄13年(1700)彦根藩士三浦長富の庶子として生まれたため家禄を継ぐ可能性は低く母の実家に所縁のある賀川姓を名乗る。鍼や按摩を学び医学を修めるために京に上る、玄悦は産科を志したわけではないが近所の女性の出産を助けたことから評判をうみ、独学で産科を研究するようになる。この頃は日本だけではなく世界でも子どもは母胎の中で頭を上にして育ち出産直前に頭を下にすると考えられていたが玄悦が母胎内の胎児の頭が下向きであることを明らかにする。産科器具も研究し産科鉗子を発明している。玄悦は徳島藩医として登用され賀川流産科の祖となり、この功績から大正8年(1919)従五位を追贈されている。

 注目すべき彦根藩領出身の医者として岡崎仲達・文徳兄弟も紹介したい。岡崎兄弟は平田山において行われた腑分け(人体解剖)に参加してその記録を残した人物である。腑分けは江戸後期辺りからよく行われるようになる。宝暦4年(1754)京都所司代の許可が下りたため山脇東洋が幕府に仕える医者として初めて腑分けを行い5年後にその記録を『臓志』という本にまとめる。この本はそれまで信じられていた人体の構造を否定するものであり大きなうねりを医学界に持ち込み、東洋が初めて腑分けを行った20年後には杉田玄白らによる『解体新書』発刊まで発展し続けることとなる。余談ではあるが山脇東洋の山脇家は近江国浅井郡山脇村(長浜市湖北町山脇)から出た家である。

 東洋や玄白が立ち会った腑分けは、処刑された罪人の体を切り開いたものであった、罪人の首は晒されるため首が無い状態での記録だった。『解体新書』は基となる洋書があったため頭部の記録もしっかりと掲載されているが、この本に触発されて各地で行われた腑分けの記録にも頭部の記載は稀である。しかし寛政8年(1796)6月24日に彦根藩で処刑され、平田山で腑分けされた様子を岡崎兄弟が記した解剖図『解體記并圖』では、頭部までの腑分け記録が残されていると『日本医学史』第62巻第2号(2016)で佐藤利英氏と樋口輝雄氏が記している。私は未見であるが彦根藩での腑分け記録に大いに興味が湧いている。


腑分けが行われた平田山(現・雨壺山)
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彦根城総構え400年(10)

2022年09月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
江戸時代中期以降、一番先進的であったのは医者ではないだろか? 徳川吉宗が医学書に限って洋書が日本に入ることを認めたために蘭学と呼ばれる分野が日本中に広がるようになった。この影響で西洋の医学書を読もうとする意欲も高まり、杉田玄白(小浜藩医)や前野良沢(中津藩医)らによって『解体新書』が刊行されるなど、医者が蘭学者であることは歴史の必然であり、幕末の日本を動かした人物にも医者は多く存在したのだ。彦根藩でも藩論が勤王へと変わる大きなきっかけを作った下級藩士による至誠組の存在が欠かせないが、至誠組を率いた谷鉄臣の生家・渋谷家も町医者であったことを私は重視している。

 ただし医者がすべて蘭学者であったわけではなく漢方など日本古来の医療に精通している者も多くいる。彦根藩でも諸説あるもののだいたい30家近くが藩医として召し抱えられていたとされていて彦根藩では医療技術の高い人物を登用すると共に藩校稽古館(弘道館)に医学寮を設置して藩医養成にも力を入れていたとされている。

 彦根藩医として召し抱えられた人物として特に名が知られているのは、河村文庫を残した河村純碩と養子・純達である。純碩は近江国内で複数の医者に学び町医者として開業。評判が良かったようで彦根藩内で藩主一族など要人が病に倒れ藩医のみでは判断が決まらないときなどに藩からの要請で診断に加わっていた。弘化元年(1844)彦根藩に二人扶持で召し抱えられることとなり翌年には「御医師並」となり苗字帯刀を許されたことを皮切りに次々と出世、「一代切奥御医師」(純達が正式に奥御医師に就く)となり五十石の知行地を得ている。町医者でも彦根藩士として重要な役職に就き知行を得ることができるという一例を示しているのだ。なお純碩は井伊直亮(十二代藩主)の死病を診て記録を残していて彦根藩主の最後を知る重要な記録となっている。また純達の代には弘道館医学会頭御用懸となり河村家は藩医育成にも影響を示したことが伺える。

 河村純碩の例を見るように、場合によっては立身出世もあり得る医者だが、藩領内の百姓が医者になるときに現在では考えられないような理由が存在していた。『新修彦根市史』第二巻には、『文政十二年に高宮の医師周蔵が作成した弟子証文では、弟子の勘平が「病身者」で「御百姓業」を務め難いので医業を行うとのべられている』と紹介されている。つまり藩の貴重な生産者である百姓から医者に職替えをするために、医者でありながら病身者であるという理由が書かれるという矛盾した理由付けが行われたのだ。日本における形式主義の可笑しさを極端に示した例ではないだろうか?

 そんな冗談のような話もあるが、患者自身が自ら医者を選んで通っており、現代と変わらない姿がうかがえる。


谷鉄臣屋敷跡碑(彦根市京町三丁目)
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